第25話 死にたくないから

 自分の呼吸音が心底鬱陶しい。耳鳴りも激しく、自分を空から俯瞰しているかのように意識も遠のいていく。

 これは現実ではないと思い込み、ひたすら妄想に逃げようとしているが、目の前で見てしまった光景が、脳にこびりついたその瞬間の記憶が、俺に逃亡を許さない。


 何のことはない。俺は冷静でいたわけじゃない。ただ深刻に考えていなかっただけだ。今までだって流れに任せてどうにかこうにかやってきたのだから、今回だって何とでもなると思い込んでいた。

 美那萌には不思議な力がある。それを使ってちょちょいのちょいっと、簡単にトラブルは解決するだろう。あとはまた振り回されて、やれやれ疲れたと言っていればそれでいい。


 ────そう思っていたのに。

 

「何だよ……何なんだよ……」


 全身から力が抜けて、立っていることすらできなくなる。今まで何度も奇天烈な事態を経験してきた自負があったが、本当に理解が追い付かないとはこういうことをいうんだと思い知らされた。


「君は本当はそんなに狼狽えていないだろう」


 地面にへたり込んだ俺に追い打ちをかけるように、美那萌は言う。


「松江出雲は酷く怯えていた。目の前で二人の人間が消え、次は自分が消える番かもしれないと考えれば、怖くなるのも当然。しかし君は大して動揺していなかった。姉である眞貝優里が消えた時もそう。君は彼女らのことを取るに足らない存在だと思っていたから、消えたところで別に心は動かない」


 俺はすぐに言葉を返そうとしたが、それはできなかった。なぜなら、その答えは極めてシンプル。思い当たる節があったからだ。


 世界そのものが再構成されたのだとしても、俺の感覚としては、優里と出会ったのは僅か二日前だ。もし産まれてからずっと一緒に暮らしてきた姉が消滅してしまったのだとすれば、俺はまともに物も考えられないほど動揺していたはず。


 優里は急に現れた。どれだけ親身に姉の役割をしてくれたとしても、彼女が漫画の登場人物であることには変わらない。本当はいなかったはずの人がいなくなっただけなんだ。


 希蝶がいなくなった時もそう。出雲が我を忘れるほど怖がっていても、俺はどんな言葉をかけるのが一番良いかとか、そんな下らないことばかり考えていた。

 彼女らは現実に現れたというのに、俺は未だにフィクション世界を覗いているつもりでいたらしい。だから俺だけが、目の前の危機的状況を正しく認識できていなかった。


「君にとって彼女らは人間じゃない。だからそれほど大切ではないし、失ってもそう動揺することはない」

「違う────俺は……!」

「そう、それでは困る。君にはできる限り傷ついてほしいのだから、悲しんでもらわないといけない。だから、私がそうなるように仕向けた。彼女らに感情移入させた後で消しゴムで消すみたいにこの宇宙から追い出す。そうすれば君は、せっかく手に入れたおもちゃを壊された気分になる。今の君の気持ちを聞かせてほしい。君に少しでも絶望を与えることができたなら、私は満たされる」

「ふざけんな……ふざけんなよ……なんで、こんなこと……」

「死にたくないから」


 美那萌は這いつくばる俺に近寄り、目線を合わせるように屈む。


「前にも言った通り、彼女らは君の脳内世界から連れて来た。そして私も同様、君の脳内世界から、君の記した書物を媒体にしてこの宇宙に来た」

「だから何だよ……自分が連れて来たんだから消すのも自分の勝手だとでも言いたいのか?」

「全然違う。私が言いたいのは、君が作り出した世界は、誰とも共有していない以上君の脳内にしかないということ」


 トントンと、美那萌が俺の額を指先でつつく。鬱陶しかったが、それを振り払う気力も俺にはなかった。


「それがどういう意味かわかる? 君に忘れられたら、君の脳内から消えたら、私たちの存在はどこにもなくなる。つまり死を迎えるということ」

「俺が忘れたら……死ぬ……?」

「あくまで私たちを生物として捉えるなら、という表現ではある。これ自体は何ら悪いことではない。日々、人間の脳は創造と忘却を重ねている。その過程で大量の死が発生するのは致し方ない事。だけど脳内世界の住人に、その死への抵抗が許されるのなら、しない手はない」


 美那萌という概念上の存在は、不思議な力を持った紙に描かれたことによって、こうして意思を持って俺の前に現れた。

 彼女のいう死への抵抗とは、まさしくあの紙の力のことだ。あれを媒体とすることで、美那萌は脳内と現実を行き来し、漫画の登場人物を現実に連れて来られるようになった。


「俺があの漫画を忘れようとしたから、お前は生きるために現実に来た……と?」

「君は何も理解していない。確かに私は君の書物によって、意思と感情を手に入れたけれど、あれが消滅しても私という存在自体が消えることはない。あれは私の依り代にすぎない。だから私がしているのは、彼女たちの代弁」

「こうやって俺の前から消えるのが、あいつらの望みだっていうのかよ」

「こうすれば君は彼女らのことが脳裏に焼き付き、忘れることができなくなる。駄作だと吐き捨て、生き恥だと蔑み、人目の付かぬ場所へ封じ込めて、自らの記憶からも抹消しようとした世界のことを────かつては自らもそこへ逃げ込んでいたというのに、感謝もせず切り捨てたあの世界のことを、永遠に記憶に刻み込むしかなくなる」


 美那萌の瞳に漂う深い闇が、俺の情けない顔を反射して映し出していた。何も言い返せず、怒りに任せて殴り飛ばすことすらできず、ただただ地に伏す俺の姿は実に滑稽だった。


 とことん俺は呑気だったんだと思い知らされる。何もわかっていなかった。美那萌が漫画そのものだと聞いた時、俺の過去の言動を考えてみれば、恨まれていたっておかしくないとわかるはずなのに。


「俺は……どうしたらいいんだよ」

「そのまま落ち込んでいればいい」

「それが、お前の本当の目的か……?」

「ただの概念でしかなかった私に、あの書物は自我をくれた。そういう意味では、君は私の親であり、彼女らは私の姉妹であると言えるかもしれない。だから姉妹たちのために、子を捨てようとする愚かな親に復讐したかった。そう、これが私の本当の目的。君に事前に伝えてしまえば、達成はできなかった。上手くいって良かった」


 美那萌は豹変したわけではない。彼女は初めから、俺を貶めるつもりだった。俺がこうして項垂れるのを特等席で見るために、俺の家に上がり込んだ。


「俺が……悪かった……ごめん。謝るから……許してほしい」


 喉の奥から絞り出すような声で謝罪しながら、俺は地面に頭を擦り付けた。しかしどれだけ待っても、返事はない。

 俺は許しを貰うため、強く目を瞑り、恥をかなぐり捨てて謝った。何度も何度も繰り返し、美那萌がもういいと言ってくれるまで。


「……美那萌、俺は────」


 我慢しきれず顔を上げた時、そこに美那萌の姿はなかった。ただ誰もいない公園に俺だけが座り込んでいて、日はとっくに沈み、辺りは暗闇に包まれていた。

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