第21話 待つことだって朝飯前よ
昨晩は全く眠れなかった。せっかく早くに布団に入ったというのに、色々あって睡眠を妨げられ、結局その後再び熟睡に入ることはできず、朝を迎えてしまった。
「俺が迂闊だったのも悪いけど……異性と同居するってなるとこういうトラブルも起こるわけか……」
睡魔が俺の足を引っ張り、二度寝の誘惑を囁いてくる。今日は平日なので普通に学校がある。普段は朝に強い俺でも、なかなか起きられない日だってある。
「────宗ちゃん? もうそろそろ起きないと遅刻するよ?」
襖の向こうから、優里の呼ぶ声がする。一人暮らしなら自由に二度寝ができたかもしれないが、身の周りことを色々管理してくれる姉が現れてしまったからには、そうもいかないようだ。
「おはよう。早く顔を洗って、歯を磨いてらっしゃい」
優里に促され、俺はよたよたとおぼつかない足取りで洗面所へと向かう。するとそこには先客がいた。
「なんか、眠そうじゃない? どうしたの?」
「……昨日はちょっと夜更かししたんだ」
歯ブラシに歯磨き粉を付けていた出雲が、振り向きながら声をかけてくる。
「そういやあんた、人の歯を磨くのが好きなんだって?」
「……え?」
「希蝶から聞いたんだけどさ」
あいつ……余計なことを言いふらしやがって。やっぱり昨晩の内に無理やりにでも部屋に押しかけて汚名返上しておくべきだったか。それはそれで逆効果になりそうな気しかしないが。
「俺にそんな趣味はない! あと、俺は変態じゃない」
「……変態? そんなこと言ってないじゃん」
「言われる気がしたから先に言っておいた」
「そんなつもりはなかったけど……違うと言われるとそうなのかもしれないって気がしてくる」
じゃあどうすればいいんだよ。否定しても駄目。肯定してももちろん駄目。打つ手なしでは? もう俺の人生は詰んでるってこと?
「歯磨きしたいなら、私の歯磨かせてあげようか?」
「……だから、そんな趣味ないって。歯磨きぐらい自分でやってくれ」
「えぇ~面倒臭いんだよなぁ~」
俺は自分の歯ブラシを取り出し、出雲から歯磨き粉を受け取る。歯ブラシは元々一本しかなかったが、いつの間にか五本に増えている。俺は何も知らないので、きっと優里が用意したのだろう。
それだけではない。食器類や、布団、部屋に置いてある小物類。大きめの家具なんかは流石に増えていないが、生活する上であれば便利な色々な物が俺の知らぬ間に、各部屋に備わっている。
昨日、美那萌の部屋を覗いた時だってそうだ。あの部屋は三日前まで何もないただの空き部屋だったはずなのに、人が一人寝泊まりするのに不自由のない空間へと早変わりしていた。
優里の部屋に関しては昔からあったことになっているらしいので例外だろうが、他三人の部屋に関しては、俺が消えた漫画に頭を悩ませている間に優里が一仕事してくれたのだ。
もし優里がいなければ、今俺に圧し掛かっている疲れは倍増していた。そう考えると、彼女もまた突如として現れた俺の悩みの種ではあれど、俺を苦難から救ってくれる天使のようにも思えてくる。
「二人とも、朝ご飯早く食べちゃって~」
居間から優里の声が聞こえてくる。起きて歯を磨いている間に、朝ご飯が机に並ぶなんて、なんと贅沢なんだ。
「よーし、ならちゃっちゃと済ませてっと」
出雲は口に咥えてモゴモゴしていた歯ブラシを抜き取り、ペッと泡立った歯磨き粉を吐き出す。
「おい、歯はちゃんと磨け」
「えぇ? 磨いたってば。ほら」
確認でもさせるみたいに、彼女は俺に向けて大口を開けてみせた。
「いや、そんなの見たところで────」
ちょうどそのタイミングで、遅れて起きてきた希蝶が洗面所にやって来る。
「……あら、あらあら、あらあらあら」
「待て、希蝶。変な勘違いをするな」
「勘違いはしてないわ。大丈夫、ちゃんと同意を取ったのよね? わかってるわ。それなら私から言うことは何も無いわ」
それがまさに変な勘違いなんだよ。お前から言うことは何もなくとも、俺から言うことは山ほどあるぞ。
当の出雲は朝ごはんにありつくため、サッサと居間へと向かってしまった。俺の名誉挽回に協力してくれる人は誰もいないらしい。悲しくなってきた。
「────だから、俺にそんな趣味はないんだって」
「変に隠さなくてもいいじゃない。別に危険を伴うものではないし、気持ち悪いと思うだけで、実害はないもの。私としては否定するつもりはないわよ」
歯を磨いている間ずっと弁明し続けたのだが、希蝶は全く取り合ってくれない。二人揃って居間に向かい、食卓につくまで言い続けたが、
「あら、希蝶ちゃんも起きたのね。待ってね、今準備するから」
「慌てなくてもいいわよ。私は上流階級、心に余裕のある人間だから急かしたりしないわ。待つことだって朝飯前よ」
「なにそれ、上手いこと言ったつもり?」
俺の目の前にあるのは、焼き鮭に、みそ汁に、白米、あとは漬物がいくつか。老舗旅館で出て来そうな教科書通りの和食だ。
優里の料理の腕前は俺なんかよりもずっと高い。母さんの料理もこんな感じだった気がするし、この再構成された世界では、優里は紛れもなく俺の姉なんだなと実感する。
母さんと血が繋がっていると言っていいのかどうかわからないが、この料理の腕前もきっと遺伝的なものなのだろう。そうでなければ、この味に感じる懐かしさの説明がつかない。
「二人とも。料理が出てるんだから喧嘩しちゃ駄目よ?」
出雲と希蝶が言い争う恒例行事を嗜めながら、優里は希蝶の分の朝ごはんをお盆の上に乗せていく。
「喧嘩ではないわ。一般階級の分際で言いがかりをつけてくるから、私は私の名誉を守るために反論しているだけよ」
「言いがかりじゃなくて事実じゃん。あと、一般とか上級とか言ってる割に、ものすごい寝癖ついてるよ」
「……本当?」
希蝶は自分の頭の上に手を置き、髪の跳ね具合を確認する。実はさっきから指摘しようかどうか迷っていたのだが、出雲が言ったか。
こんな慌ただしくも、穏やかな朝にはまだ慣れそうもない。しかし悪くはないかもしれないと思い始めている自分がいることは確かだ。
寝不足になるし、変な勘違いはされるし、踏んだり蹴ったりであるはずなのに、なぜか居心地の良さを感じてしまっているのだから不思議な話だ。
始めはこの三人をどうやって追い出そうかとも考えていたが、すっかりその気もなくなってしまった。案外俺という男は、単純な奴なのかもしれない。
「はいはい、二人とも落ち着いて。朝ごはんを運ぶか────」
そんな呑気な空気に浸っていた俺を現実に引き戻すかのように、ガシャンと派手な音がした。
慌てて振り向くと、希蝶の分の朝食が乗っていたお盆が床にひっくり返り、茶碗や湯飲みが木端微塵になっている。
しかしそんなことはどうでもよかった。本来なら慌てて破片を拾い始めるであろう優里の姿が、そこには影も形もなかったのだ。
一秒にも満たない直前までそのお盆を使って配膳していたはずなのに、まるで料理が勝手に宙に浮いて床に落ちたみたいにそこには誰もいなかった。
「……優里?」
俺は不思議に思い、優里を呼んだ。しかし返事はない。お姉ちゃんでしょ、と呼び名を訂正してくることもない。
「あれ? 優里さんは?」
俺と同じ疑問を抱いたらしい出雲が声をあげる。
「私のお皿を割って、怖くなって逃げてしまったのね。私は上流階級なのだからこの程度のことで腹を立てたりしないというのに。寛大な心で許してあげるから、恐れず出て来なさい?」
希蝶がそんな声をかけても優里が出てくる気配はない。割れた皿の破片や飛び散ったご飯はそのまま床に残り続ける。
この瞬間の俺は、この事態をそう深刻に捉えていなかった。きっとホウキと塵取りでも取りに行ったのだろうと、そう考えていた。
しかしこの後、学校へ出発しなければならない時間になっても優里は現れず、屋敷のどこを探しても、彼女の気配すら感じ取ることはできなかった。
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