第20話 己の性癖と向き合って生きなさい!

 冷蔵庫の中身を全て空にし、さらに追加で出前も注文し、その上で足りない足りないと喚く美那萌を何とか説得して、今晩の夕食は終了となった。


 食欲はあるとかないとか、そういうレベルじゃない。まさに底なしだ。どれだけでも吸い込んでいく。一応食べた分だけ少しお腹が膨らんでいたので、自分の体積よりも多くの食料を食べられるということはないらしい。

 漫画だとよくある描写だが、流石にそんなファンタジーを現実に起こされては家計が崩壊する。


「はぁ……仕送り増やしてもらうか……それかバイトしないとな」


 うちの家計は俺一人で暮らすことを想定しているんだ。それがいきなり四人も増えた上に、その内一人は十人分以上食べるとなれば、あっという間に火の車となる。


 今日は色々あってどっと疲れた。風呂から出た俺は、倒れこむようにして布団にダイブする。


 風呂の時間だって、前までは好きなタイミングで沸かして入れば良かったのに、今では順番待ちが発生する。もちろん俺はこの家で最も権力の弱い男なので、風呂に入れるのは一番後だ。

 別に不満というほどでもないのだが、今まで自由にできていたことが急にできなくなると息苦しさを感じてしまう。


「まぁ……これはこれで悪くはないんだけど……」


 妄想の産物でしかなかったヒロインたちと一つ屋根の下の共同生活。家事の負担は優里のお陰で格段に減ったし、出雲がいつも賑やかしてくれるので寂しい思いをすることもなくなった。

 文句ばかり言っている希蝶も慣れない環境の中、他の皆と仲良くしようと努力しているのは伝わってくる。美那萌はまだまだ未知数だが、悪い奴じゃないとは思う。


 癖はあれど、全員文句なしの美少女だ。この生活に不満を持つというのは、非常に贅沢なことなのだろうと思う。

 それに少しだけ、昔に戻れたような気分にもなっている。家族三人で暮らしていたあの頃は、我が家もこれぐらい賑やかだった。


 ずっと広すぎると感じていた屋敷も、これぐらいで丁度いいと思うようになってきた。もう少し落ち着いて来たら、この生活を楽しむ余裕も出てくるかもしれないな。


「さて、まだ少し早いけど、今日はもう寝るか……」


 時刻はまだ夜の十時前。普段は十二時前後に寝ているので、二時間ぐらい早いことになるが、この疲れた体ならすんなり眠れそうだ。

 俺は部屋の電気を消し、布団の中に体を沈め、意識を微睡まどろみへと沈み込ませていった。


「────?」


 しばらく経った頃、ふと目が覚める。どこからともなく、ひどく不愉快な音が聞こえて来たからだ。


「なんだ? この音?」


 近いものを挙げるとするなら、チェーンソーか。あれの騒音によく似ている。


「誰だ? うちでチェーンソー使ってんのは?」


 柱でも切り倒すつもりか? 同居人は非常識な連中ばかりだが、いくら何でもそこまで無茶苦茶なことはしないだろう。……しないよな? いや、しないとは断言できないかもしれない。


 不安になった俺は、布団から跳ね起きて音のする方へと向かう。一歩進むごとに音は大きくなってきて、俺の不安も膨らんでいく。

 やがて俺は一つの部屋の前に辿り着いた。この襖を開けた先に、異音の正体があるとみて間違いない。


 この部屋は前までただの空き部屋だった。今は誰かが使っているのかもしれないがハッキリしない。とにかく開けて確認してみればわかることだ。


「────誰だ! 夜中にチェーンソー使ってる奴は!」


 怒鳴り声を上げながら襖を開けると、部屋の中央で美那萌が眠っていた。寝相は背中に棒でも入っているのかというほど真っ直ぐに伸びていて、ちゃんと生きているのか不安になるほど微動だにしない。

 だが、この騒音は彼女のいる場所付近から聞こえてくる。俺は音の原因を突き止めるために部屋へ踏み込む。


 一歩、二歩、三歩と近づいていくごとに、音が出ているのが頭部付近であることがわかる。さらに言えば口もと……口の中から聞こえてくるような……。


「もしかしてこれ、歯ぎしりか……?」


 大木を切り倒すかのごときパワフルな騒音は、どうやら美那萌の歯ぎしりらしい。


「えぇ……どうなってんだこいつ……」


 口の中に何か飼ってるのか? いやいや、常識的に考えてそんなわけないよな。しかしこいつほど常識の通じない奴も他にいない。

 ひょっとしたら、本当に、口の中に筋肉ムキムキなおっさんとかが居て、チェーンソーを振り回して虫歯菌と戦っているのかもしれない。


「だ、駄目だ。また妙な妄想を……」


 絵面を想像してみると、面白いよりも先に怖いという感情が来るな。頭に浮かんだ光景をすぐに霧散させ、首を横に振って暴走しがちな妄想癖を抑えつける。

 しかし小さいおっさんがいるというのは冗談にしても、一瞬本気でそう思わせるぐらいには凄まじい歯ぎしりだ。こんなに異様な音を立てて、歯が砕け散らないのか心配になる。


 しかも時折、すごい勢いでギャリっと大きな音が鳴るので、歯が一本粉々になったんじゃないかと不安で仕方ない。


 ……いや、これ、本当に悲惨なことになっているのでは? 


 父さんも歯ぎしりをするタイプではあったけど、音量はこの十分の一にも満たない程度だったはず。部屋をいくつも挟んだ俺の部屋まで届くほどの迫力はなかった。

 美那萌は漫画の登場人物を現実に持ってくるという、トンデモビックリな力を使うことができる、人間なのかどうかもよくわからない存在だ。歯ぎしりが規格外過ぎて毎晩寝るたびに口の中が血だらけになるなんてこともあるのかもしれない。


「いや、これも妄想……だよな? え? 大丈夫だよな?」


 なーんだ、ただの歯ぎしりか。じゃあ帰ろうと思えるほど生易しい音じゃない。本当に美那萌の口の中が無事なのかどうか確認しないと、部屋に戻っても眠れる気がしない。そもそもこの騒音の中ではどちらにせよ眠れない。

 ここは一度寝ている彼女の口をこじ開けて、中でチェーンソー振り回しているおっさんがいないかどうかを確認しておかなくては。


 俺はゴクリと唾を飲み、ヘビの棲むやぶの中に手を突っ込むような緊張を感じながら、美那萌の口内を覗き込むため、顔を近づけていく。


「────あなた、何をしているの?」


 突如背後から聞こえた声に、俺は慌てて立ち上がり、何食わぬ顔で振り向く。そこには俺を心底軽蔑しきった目で見つめる希蝶がいた。


「な、なんだ。希蝶か」

「なんだじゃないでしょう? 今、何をしていたの?」

「何をって……やたらとうるさい音がするから、確認をしようと……」

「言い訳は無用よ。女の子の寝込みを襲おうなんて、紳士にあるまじき蛮行ね」

「は……?」


 俺はたっぷり五秒ほどかけて、希蝶の言っている内容を理解する。それと同時に両手と首を激しく振り、全身を使って弁明する。


「ち、違う! 俺はただ口の中を見ようと……」

「口の中を見る? あなた、随分気色の悪い趣味があるのね」

「そ、そんなつもりは……!」

「でも仕方ないわね。性癖は人それぞれ。その気色の悪い趣味を止めろとまでは言わないけれど、相手の同意はきちんと取りなさい。ちなみに私は絶対に嫌よ。私の口の中を覗こうとしてきたら警察に突き出すから覚悟しておきなさい」


 希蝶はそう言って、俺から一歩距離を取る。俺が一歩近づけば、彼女はさらにもう一歩下がる。誤解を解く間もなく、完全に変質者扱いされてしまった。


「ま、待ってくれ。説明する時間をくれ」

「言い訳無用よ。現行犯なのだから」

「違うんだ! これには深い理由があるんだ。この音を聞いてくれ! お前だってこの音が気になって夜中にこの部屋まで来たんだろ?」

「……ええ、夜中に屋内でバイクを乗り回している人がいるから、一体どういう了見なのかと思って見に来たのよ」

「驚くと思うがな。その馬鹿デカい音は、美那萌の歯ぎしりなんだ」


 キョトンとした顔をして、希蝶は俺と美那萌を交互に見る。そして俺の横をすり抜けて、美那萌の頭部付近に耳を近づけた。


「……本当だわ」

「だろ? だから、ほら、流石にヤバいんじゃないかと思って確認しようとしてたってわけだ」

「あなた……一体鏡さんの口の中に何を仕込んだの?」


 誤解を解くどころか、疑惑があらぬ方向へ向かってしまった。


「俺が仕込んだんじゃない! こいつの歯ぎしりなんだって!」

「女の子がこんな歯ぎしりするわけないでしょう?」

「そう言いたいのはすごくよくわかるぞ? 俺もそう思うからな。でも、実際そうなんだから仕方ないだろ⁉」

「見苦しいわよ! 変態なら変態らしく、自らの変態性を理解して、己の性癖と向き合って生きなさい!」

「変態じゃない! 俺は普通だ!」

「普通の人間なんていないわ。変態染みた性癖の一つや二つ、誰しも心に秘めているものよ」

「……お前、何言ってんの?」

「あなたのいかにも一般階級らしい、低俗な趣味については誰にも言わないでおいてあげるわ。けれどやるなら鏡さんじゃなく、松江さんにしておきなさい。彼女ならあなたの性癖も受け止めてくれるわ」


 どうやら取り付く島もないようである。希蝶の中で、俺の印象は女子の口の中を覗き込みたがる変態として完全に固定されてしまった。


「私は部屋に戻るけど、もう変なことはしちゃ駄目よ? するなら松江さんにしなさい。わかったわね?」

「ま、待て。俺はだな……というか、出雲を身代わりにしようとするな」

「私は聞いたことがあるのよ。スポーツをする人は性欲が強いって。だから彼女ならあなたの趣味にもついていけるはずだわ」


 偏見に偏見を重ねまくった問題発言だな……出雲が聞いたらまた喧嘩になること間違いなしだ。


「とにかく、手を出すなら犯罪にならないよう気を付けなさい。ここが使えなくなったら私も困るのだから」


 そう言って、希蝶は逃げるように部屋から出て行ってしまった。


「……騒がしい」


 その直後、むくりと美那萌が起き上がる。


「私に何か用?」

「……お前、この世の終わりみたいな歯ぎしりしてたぞ」


 美那萌はパッと素早く両手で口を押える。


「恥ずかしい」

「そんな感情があるのか……」

「ある」


 その割には一切表情が変わらないので、本気で言ってるかのかどうか、見ているだけでは判断がつかない。


「このことは内緒にして」

「もう希蝶には聞かれたけどな」

「……なら、君の歯ぎしりということにしておいて」

「いや、まあ……ある意味俺のせいってことにはもうなってるんだが……」

「じゃあいい。私は寝る」


 淡々とそう言って、美那萌はまた布団の中に収まって目を閉じてしまった。


「えぇ……俺の名誉は? このままってこと?」


 今度から、いくら変な音が聞こえてきたとしても、他人の部屋には勝手に入らないようにしよう。そう固く心に誓った一夜だった。

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