第15話 自分で自分のことを大切にしなさい

 気が付けば、俺はベッドの中にいた。下は固く、上は薄っぺらい。あまり寝心地が良いとは言えないが、窓から差し込む日が傾いているのを見るに随分と熟睡してしまったようだ。


「あ、目が覚めた?」


 横を見ると、穏やかな顔で俺を見つめる優里の姿がある。


「……優里か」

「違うでしょ?」

「え?」

「お姉ちゃんでしょ?」


 こんな時でも彼女は頑なだ。何でもいいが、重傷で寝込んでいるわけではないし死にかけているわけでもないので、ベッドからはみ出ている俺の手を握るのはやめてほしい。


「体育で怪我したんだって? 心配しちゃったわよ」

「怪我というか……俺の不注意だよ。頭に二回ボールが当たったんだ」


 俺が気絶するほどということは、それなりの威力だったはず。それが二回もぶつかるとなると、偶然かどうか怪しくなってくるな。あんな目立つチームに入ってしまったばかりに恨みでも買ったかな。


「うん、出雲ちゃんたちから聞いたわ。後でぶつけた子にはごめんなさいしてもらうからね」

「いや、いいよ別に……そんなことしてもらわなくても」

「駄目よ。そういうことはキッチリしないと」


 この人、高校教師よりも小学校教師の方が向いているんじゃないかな。こうして丁寧に生徒に向き合う姿勢が素直に尊敬するが、ちょっと生徒を子ども扱いしすぎるきらいがある。これではまるで教師というより過保護な母親だ。


「ところで……姉さんはずっとここに?」


 俺が倒れてから二時間か三時間ぐらいは経っているか。とっくに放課後の部活動も終わり、大半の生徒が帰路に着いている時間帯だろう。

 そんな中でずっと付き添ってもらっていたのだとしたら、ちょっと申し訳ない気持ちになる。


「授業中以外はね。でも、心配しなくても大丈夫。先生のお仕事は職員室じゃなくてもできるから」

「そういう問題じゃ……」

「お姉ちゃんのことはいいの。それよりも、宗ちゃんは自分のことを考えて? 怪我はしてないみたいだけど、もうしばらく寝ていた方が良いんじゃない?」


 優里は俺を優しく寝かしつけようとしてくる。だが心配無用だ。つい最近にも気絶した経験があるからな。もう慣れてしまった。


「身内だからって気にしすぎだって。仕事に戻った方がいいよ」

「もう、仕事はしてるってば」

「そうじゃなく、倒れたのが俺以外の生徒だったら、ここまではしなかったんじゃない? 俺ばっかりに構ってると、他の生徒から苦情が来るよ」


 そういうのは贔屓っていうんだ。普通はそうなることを避けるために、身内が担当教員になるなんて事態は避けると思うんだけどな。

 眞貝宗作の姉という本来存在しなかったはずの人物が突然世界にねじ込まれた弊害なのか、その辺の常識が通じなくなっている。


 だとしても、身内贔屓を快く思わない感性にまで影響があるわけではあるまい。ここで優里が俺の面倒を見続ければ、他の生徒に良くない印象を与える。それは優里の教師人生に悪影響を及ぼしかねない。


「特に、俺はクラスでも浮いてるんだから。あんまり特別扱いしない方が良い」


 教師と言っても人間なのだから、大勢の生徒を一切の差なく平等に扱うことは難しい。しかし特定の生徒を贔屓するにしても、クラスの中心人物や人気者にすべきだ。

 俺みたいな出来損ないを贔屓したところで、教師側にメリットはない。ただでさえ既に俺と身内というデメリットを背負っているのだから、俺のことは突き放すぐらいで丁度いいんだ。


「……まったく、もう。宗ちゃんはすぐそういうこと言うんだから」


 俺の意図を察したらしい優里は、素直に従うどころか逆に密着してきた。俺を力強く抱き寄せて、互いの体温を共有する。


「ちょ……姉さん。暑苦しいって」

「分からず屋な宗ちゃんにはこうするしかないでしょ?」


 仮にも姉弟だからか、人生で初めて女性に抱擁されたというのに、嫌らしい感じは全くしない。それどころか心を安心感が満たしていく。


「お姉ちゃんは先生なんだから、生徒の誰かが倒れたら心配するし、こうして様子を見に来る。それは宗ちゃんじゃなくともそう。誰であっても同じようにするわ」

「……そっか」

「けど、お姉ちゃんは先生である以前にお姉ちゃんだから。宗ちゃんのことは一番大事に思ってる。だからあんまり自分を貶しちゃ駄目よ」

「別に……そういうつもりはないよ。ただ、事実を言っただけで……」

「────宗ちゃんがそんなに後ろ向きになったのは、お母さんがいなくなっちゃってからだよね」


 自称姉の指摘に、俺は言葉が詰まる。自覚はなかった。いや、あったが考えないようにしていたと言うべきか。

 俺は小学生の頃までは、対人関係でさほど苦労するようなことはなかった。普通に友達がいたし、普通に遊んだりもした。

 それがパッタリ途絶えたのは、母さんが死んで、父さんは現実逃避するように帰ってこなくなり、家が伽藍洞になったあの日から────


 そのことを、昨日突然現れただけのはずの自称姉が知っている。俺ですら自覚しないようにしていた事実を、当然の共通認識だと言わんばかりに突き付けてくる。まるで当時から隣にいたかのように。


「お姉ちゃんは宗ちゃんのことが大切だから、宗ちゃんにも自分のことを大切にしてほしいな」

「……仕方ないだろ。俺はこういう性格なんだよ」

「そうね。だからお姉ちゃんが宗ちゃんの分まで、宗ちゃんのことを大切にしてあげなくちゃね」


 俺を抱き寄せる力が強くなる。その感覚にはどこか懐かしいような、遥か昔の記憶を刺激してくるような、そんな温かさがあった。


「お姉ちゃんに贔屓されるのが鬱陶しいんだったら、自分で自分のことを大切にしなさい。そうしないと、お姉ちゃんはずっと宗ちゃんのことを可愛がり続けるから」

「……なんだよ。それ」

「もし宗ちゃんが自分のことを大切にできるようになったら、お姉ちゃんも宗ちゃんから卒業してあげる」


 そう言って優里は俺から離れた。その時、ほんの少しだけ名残惜しさを感じたことは、本人には絶対に秘密だ。


「ああ~でも、お姉ちゃんが必要なくなっちゃうのはちょっと寂しいかなぁ。宗ちゃんとは一生に一緒にいたいし。やっぱりお姉ちゃんは、永遠に宗ちゃんのお姉ちゃんをすることにしようかな」

「……勘弁してよ。教師なんだからもっとしっかりした方がいいんじゃないの?」

「もう、すぐ意地悪言うんだから。でも、それだけ元気ならもう大丈夫そうかな」


 優里は立ち上がり、俺に背を向けて、保健室の扉に手をかける。


「帰りは気を付けてね。もしあれなら、お姉ちゃんの仕事が終わるまで待っていてくれれば一緒に帰れるけど」

「だから、俺ばっかり贔屓するなって。一人で帰れるよ」

「そう? それは残念。じゃあまた家でね」


 彼女が出て行った後、保健室は急速に静まり返り、さっきまでの会話がまるで幻想だったかのような寂しさが込み上げてくる。


「……帰るか」


 少しだけ間を開け、外で優里と鉢合わせないようにタイミングをズラしてから保健室を出た。

 俺にはやらなくてはいけないことがある。気絶する直前に美那萌が言っていたことの真意を聞き出さなくては。ひょっとしたら、彼女はこの事態について何か知っているのかもしれない。


 俺の描いた漫画の残り部分を、持っている可能性がある。だとすれば今すぐにでも捕まえて身包みはがしてやりたいところだが……あいつに本気で抵抗されたら俺なんか瞬殺されるだろうしなぁ……。


「さて、どうしたものか……」


 二日連続で気絶しているので、流石にこれ以上のダメージは負いたくない。なんとか穏便に、かつ手っ取り早く彼女から話を聞く方法はないだろうか。


「あ、そう言えば、あいつ俺の家に住むとか言ってなかったか……?」


 かつて、これほどまでに帰路に着く足が重くなったことがあっただろうか。さらに厄介者が一人増えることとなった自宅に向かうため、俺は下駄箱から二日目にして既にくたびれつつあるスニーカーを取り出したのだった。

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