第2話 こんなところで会うのも何かの縁だわ

 ────いや、待て、落ち着け。本当にそうか?


 俺の描いていた漫画で最初に登場するヒロインは、確かに金髪で元気の良い明るいキャラだった。しかし出会い頭に膝蹴りして、悪びれもせず去っていくようなキャラにした覚えはない。


 漫画のことを思い出していたせいで、似ていると感じてしまっただけだ。あんまりハッキリと覚えてないが、漫画内ではもっと優しい子だったはず。

 あの漫画は俺の理想だけをぶち込んだものなのに、これじゃあ俺が女子から蹴り飛ばされるのを喜んでるみたいじゃないか。


「いかんいかん、漫画のヒロインそっくりな子が現実に現れるだなんて、また変な妄想癖が出てるな。そういうのはもう中学までで卒業したんだから」


 それにしても、さっきの女はヤバイ奴だったな。食パン咥えた少女とごっつんこというならまだしも、顎に膝をクリティカルヒットさせてくるとは。


 一瞬しか見えなかったが、身長は多分160前後といったところ。俺が175なので何がどうなったとしても、偶然顎に膝蹴りが入ってしまうことなんかない。

 相手の身長が6~7メートルくらいあれば話は別かもしれないが、それだと俺は気を失うだけじゃ済まなかっただろうな。


「……って、ヤバ。どれぐらい寝てたんだ俺……?」


 意識を取り戻した俺は慌てて時計を確認する。高校入学記念で、父に買ってもらった腕時計だ。

 高級品というわけではないが、衝撃に強く、水につけても壊れない。さっきは結構勢いよく地面に倒れこんだ気がするが、時計の針は正常に動いていた。


「な────もうあと五分しかない⁉」


 俺は朝に弱いタイプではないので、かなり時間に余裕をもって家を出た。今日は入学初日ということもあり、多少道に迷ったり、想定外のアクシデントが起こったりしたとしても、遅刻することのないようにするためだ。

 万が一初日から遅刻するようなことになれば、高校のスタートダッシュは大失敗確定だ。今後三年間尾を引く致命的な失態となる。そうならないように、万全の準備をしてきたっていうのに……。


「まさか、いきなり蹴っ飛ばされて気を失うなんて想定外すぎるだろ⁉」


 想定外のアクシデントに対応するためとはいったが、対応できる範囲には限度というものがある。これは完全にその範囲外だ。


 だが文句を言ったところで、俺を蹴り飛ばした当の本人は既にいない。顔もハッキリとは見えなかったし、名前もわからないので、捕まえて文句を言うことはできそうもない。

 それに、今は早く学校へ向かうべきだ。かなり絶望的な状況ではあるが、まだ遅刻が確定したわけじゃない。


 俺は靴ひもを結びなおし、全速力で駆けだした。

 アスファルトを力強く蹴って飛び出した俺は風すらも置き去りにし、周囲の全てを吹き飛ばしながら学校へと一直線に突き進み、到底間に合わないと思われた入学式に間一髪のところで滑り込み────なんてことができたら良かったのに。


 ひいひいと死にかけの豚みたいな声をあげながら、五歳児が漕ぐ三輪車程度のスピードで進む俺の姿がここにはある。妄想の中でなら新幹線より速いのだが、現実ではジョギングしてる太ったおっさんに抜き去られる始末だ。


「はぁ……はぁ……あ、入学式始まったなぁ……」


 時計を見れば、タイムリミットは既に過ぎていた。俺の高校生活スタートダッシュは何のドラマ性もなくぬるっと散ったのである。


「……マジかよ」


 それを自覚した途端、元々大して動いてなかった足が反旗を翻し始め、もう一歩も進みたくないとばかりに硬直してしまった。

 そもそものスタミナがない上に、受験期ということもあって完全に運動不足になっている俺の体力じゃ、この程度のダッシュが関の山か。


 どちらにせよ、入学式に遅れて入る度胸なんてないし、どれだけ遅れようが同じ遅刻ならもう一緒だ。

 そんな投げやりな気分になり、俺は沿道のガードレールにもたれかかった。喉の奥から血の味のする唾が込み上げてくる。どれだけ息を吸っても酸素が薄いままで、ほんのりとした吐き気まで催す始末。


 もう今日はこのまま帰りたいぐらいだ。いっそ体調不良ということにして、休んでしまう方が、遅刻して途中入室するよりもいいんじゃなかろうか。


「でも、ここまで来たしなぁ……」


 学校まではもう少し。けれど今の俺の体力では、この少しが遠い。山頂が見えているのに全然近づいて来ない、登山の終盤みたいな気分だ。


「はぁ……こんなことになるなら、車で通学出来たら良かったのになぁ……」


 なんて、うちには車なんてないし、父さんは仕事で基本的に家にいないから、車があったところで送迎はしてもらえない。運転手を雇えるぐらい金持ちの家なら、話は別なんだけどな。


「そういや、そんなキャラも描いた覚えがあるな」


 おしとやかなお嬢様キャラにベタ惚れされたくて、そんな展開を描いた覚えが薄っすらとある。

 何の才能もない貧乏人のくせに、特に理由もなくお金持ちのお嬢様に愛されたいという、俺の低俗な欲望があんなものを生み出してしまったわけだ。


 ……いかんな。今日は嫌なことばかり思い出す。いくらシチュエーションが似ているからといって、ここは現実世界なんだ。フィクションみたいに都合の良い事ばかり起こるわけじゃない。いい加減、現実と向き合わないとな。


 ────と、そんなことを考えていると、俺のもたれかかっているガードレールに寄せるような形で、一台の車が停まった。俺は慌ててガードレールから背中を離す。


 車には詳しくないのだが、この気品あふれる真っ黒な光沢、ボンネットの上にくっついたサモトラケのニケみたいなアクセサリー、やや縦長の車体を見るに、かなりの高級車ではなかろうか。


 その存在感に圧倒されていると、窓が開いて中から一人の少女が顔を見せる。


「その制服、あなた清川高校の生徒でしょう?」


 艶のある黒髪に、切れ長の目。乗っている高級車にも劣らない品の良さを醸し出す少女は、俺の目的地である清川高校の制服を着ていた。


「……ひょっとして、お前も……?」

「ええ、車の故障で少し遅れてしまったけれど、これから入学式に向かうところよ」


 彼女の声は一流の奏者が吹くフルートのように綺麗で、焦りと不安と疲労でぐちゃぐちゃになっていた俺の心を解きほぐしてくれる。


「その様子を見ると、あなたも一年生かしら?」

「あ、ああ、そうなんだ」

「あらあら、ならあなたも遅刻じゃない。ふふ、私たち気が合うわね」


 そう言って彼女は口元を手で隠し、目を細めて上品に笑う。


「もし良ければ、私と一緒に行く?」

「……え? いいのか……?」

「もちろんよ。こんなところで会うのも何かの縁だわ。せっかくだから、一緒に行きましょう」


 これは、絶体絶命の危機に差し込む一筋の光。敗色濃厚だった俺の青春に逆転満塁ホームランを叩き込む一振り。

 こんな幸運があるのなら、顎を蹴り飛ばされたことも、入学式に遅れたことも、まだちょっと顎がジンジン痛むことも水に流そう。その全てを埋め合わせた上で、お釣りがくるぐらいの展開だ。


「ぜひ! よろしくお願いします!」


 鼻息荒く、俺は彼女の誘いに乗った。

 こんな美少女と二人で車登校。これなら遅れて入ったとしても、むしろ誇らしい気分にすらなれる。終わったと思われた俺の高校生活は、まだこれから────


「そう、じゃあ、頑張ってついてきなさい」


 彼女は俺の顔を見つめながら幸せそうに笑みを浮かべると、運転手に指示を出して車を走らせた。


「え?」


 車が走り去った後、一人残された俺は呆然と立ち尽くす。


「乗せてくれるんじゃないのかよ⁉」


 俺の絶叫は、あっという間に遠く離れてしまった車内には、きっと届かなかったことだろう。

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