罪の在り処は。

池田(ちゃぬん)

第1話

 父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と体を支える糧としてください。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

                 ――食前の祈り(キリスト教)


 ◆


 それは糧と呼ぶには余りにもおぞましすぎた。

 森の中に漂う、湿った土と樹皮のにおい。そのなかで強烈な存在感を放っているのが、目の前に横たわっている死体のにおいだった。

 におい。

 人のにおい。人が死んでいくにおい。

 体が燃えるにおいとは違う。

 血液の鉄臭いにおいとも違う。

 物理的な破壊を伴わない死体は、死そのものをにおいとして放射しているようだ。

 だけどそれ以上に、私にはそれが別のものにも見えていた。

 私はこの森の生物相を知らない。どんな草が生えていて、どんなキノコが生えていて、どんな動物がいるか。

 そのどれを食べることができて、できないのか。そういったことを、何も知らない。

 だから当然の結果として、私の体は痩せ衰え、意識はぼんやりし、四肢に力が入らない。首を回すことすら億劫だ。

 そんな私の目の前に唐突に現れたもの。

 私より若干大きなサイズの肉。すなわち蛋白質。それだけじゃない。おそらくまだビタミンもミネラルも破壊されずにたっぷりとそこにあるのだろう。

 かつて姉だったものは、今や私の体が欲してやまないものへと姿を変えていた。

 鉄のように重くなった体をどうにか引きずりながら、私は姉の傍らに座り込んだ。

 まだ張りのある肌。腐敗も損壊もしていない、まっさらな体。それはこの森に住むあらゆる生物にとって、眩しいほど魅力的に映っている事だろう。うかうかしてると、取られてしまう。

 私はなにも考えずに、まずは柔らかそうな二の腕に歯を立てた。

 その時の私は、祈りの言葉を持たなかった。

 神による祝福もなかった。

 悪魔による誘惑もなかった。


 それを糧と呼ぶのは、あまりにもおぞましすぎた。

 だが、私に選択の余地はない。


 ◆


 クリスチャンとモスレムの争い。

 私が経験した内戦は、一応の説明としてそのように語られることが多い。

 特に間違いではない。かといってそれで全てという訳でもない。当事者としてあえて言わせてもらえば、そんな後付けの説明など何の役にもたたないということだ。

 どれだけ言葉を弄そうと、戦争が起これば結局人は二つに分かれる。

 殺されるものと、殺すもの。

 そして私は、私たちは、間違いなく前者としてその渦中にいたと断言できる。


 私たちが住んでいた村を襲ったのがどんな勢力で、どんな人種で、どんな宗教を持っていたのか。それはもはやわからなかった。私の家から出てきた浅黒い肌の男は首に十字架のネックレスを下げていたけれど、同時に胴体にはイスラム語のスローガンを貼り付けた防弾チョッキを着ていた。どちらかが戦利品なのか、あるいは両方とも彼の私物だったのか、ついにそれはわからないままだ。

 それに、どっちにしたって彼が持っていた銃で私の両親が殺されたという事実は揺るがないのである。

 それだけじゃない。両親の他にも、隣の家や向かいの家にいた住人たちは皆、連中が手に手に持ったライフルや山刀マチェットによって穴だらけにされるかバラバラにされるかしてしまっていた。

 そんな作戦行動――ただ殺し、奪い、犯すだけの蛮行をそう呼べればの話だが――の一部始終を、私たちは息を潜めてただ見つめることしかできなかった。

 私たちには何もなかった。本当に何もなかった。奴らに一矢報いる銃や爆弾はもちろんのこと、自分の暮らしていた村が無くなってしまうという観念までも持ちあわせていなかった。

 村はもはや私たちの住む場所ではなくなっていた。

 私たちがよくボール遊びをしていた広場は弾薬集積所になった。私たちの家には司令部が置かれて、隣の家は宿舎になり、さらにその隣の家は糧食の倉庫になっていた。そして村のメインストリートに掘られた穴には、かつての住人たちの死体が放り込まれ、火を放たれていた。

 帰る場所を失った私たちは、村の周囲を取り囲んでいる深い森の中へと逃げ込んだ。

 考えている暇はなかった。ゲリラたちの欲望は底なしだ。正義の御旗のもとに、腹の底にうず高く積み上げられた鬱憤を隙あらば吐き出そうと目をギラつかせている。その眼光から逃れるためには、より遠くより深く、森の木々の間に身を隠すしかない。

 おとぎ話の姉妹みたいに、私たちは彷徨い歩いた。枯れ葉や泥濘を踏み、歩き、歩き、歩き倒した。

 結果、ゲリラの目からはどうにか逃れることができたらしい。だが問題はそこからだ。

 追ってくる死の影が銃弾だけではないと悟るのに、私たちは時間をかけすぎた。

 あらゆる加護を失った私たちに、自然は平等な残酷さを突きつけてくる。いつしか私の敵は私の内側に存在していた。

 どうするのか、とあらゆるものが問うてくる。

 飛び回る蝿たちが。

 皮膚にまとわりつく蛆たちが。

 枯れ葉の下で蠢く虫たちが。

 姉の亡骸が。

 私に選択を迫る。

 内なる敵に殺されるか?

 それともお前が殺すのか?

 そう問われた私は、こう答える。


 死にたくない、と。


 ◆


 体に力が満ちていくのがわかる。

 摂取した栄養が心臓を力強く拍動させ、その血流に乗って全身に本来の感覚が戻っていく。

 私は現実へと帰還する。

 低カリウム血症の世界から。

 骨粗鬆症の世界から。

 貧血やめまいの世界から。

 死が手招きする飢餓の淵から、少しずつ浮上していく体。

 そして頭の中に転がっていた瀕死の理性が息を吹き返したとき、私は目の前にあるものが何だったのかを知った。

 それは肉だった。

 それは骨だった。

 それは臓物で、血液で、腱で、皮膚で、毛髪で、爪で、眼球だった。

 だけどそれらがそうであるより前に、それはどうしようもなく姉の骸だった。

 その認識が意識に上ってきた瞬間、すかさず吐き気が胃を蹴り上げる。私は咄嗟に口を押さえ、中身を吐き出すまいと自らの生理にあらがった。ここで吐いてしまえば、私はまた死の淵へと真っ逆様だ。

 死にたくなかった。こんなどことも知れない森の奥で死にたくなかった。ただひたすらに、死ぬのだけはいやだった。


 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない!


 だから、耐えた。

 今度こそはっきりと、私はそれを選んだ。

 その肉が何であるかを私は間違いなく理解しながら、噛み千切り、咀嚼し、飲み下した。それを何度も繰り返す。

 人間の肉。

 ヒトの肉。

 姉の肉。

 胃液に溶かされ、腸で吸収され、私の血肉になっていく。

 その間、私は神に祈りはしなかった。

 悪魔を恨みもしなかった。

 そのどちらも、ここにはいなかったからだ。

 ここにあったのは、ただ生と死を支配する仕組みだけだ。天国や地獄や魂なんてお題目はお呼びじゃない。そんなものは犬にでも食わせればいい。

 私は姉の肉を食らい続けた。自分が飢えないように、同時に最大限食いのばせるペースをしっかりと考えながら、食べた。

 生きるため。

 そう、生きるために。

 確かに目を開き、どこまでも正気で、私は姉を少しずつ食べていった。


 そうして過ごして、口の周りの血が干からびて皮膚の一部になりかけたころ。

 青いヘルメットに迷彩服を纏い、銃を持った白人が私の前に唐突に現れた。

 驚愕に見開かれた青い瞳が、私の顔とその傍らにある人間だったモノとの間を何度も往復する。

 そのうち同じような格好をした兵士たちがわらわらと集まってきた。

 皆、深い沈黙に包まれていた。私の顔を見る彼らの表情はさまざまで、あからさまな嫌悪を浮かべる者もいれば、くしゃくしゃに泣きそうな顔をした者もいた。最初に私を見つけた兵士は離れた木陰で胃の中身をひっくり返していた。

 私を取り囲む、青い頭の兵士たち。そのうちの一人が恐る恐るこちらに手を差し出してきたので、私はその手を握り返す。すると彼らの表情がわずかに綻んだ。その瞬間、私は自分がどうやら助かったらしいことに気が付いたのだった。


 温かく、柔らかな毛布が体を包む。

 私は兵士の太い腕に抱かれながら、森を後にした。

 刺々しい感覚が徐々に消えていき、優しげな眠気が私に多い被さる。

 私はふと、兵士の顔を見上げた。

 ごつごつした岩のような顔が微笑みながら、異国の言葉で何事かを語りかけてくる。

 そしてその首には、見覚えのある十字架のネックレスがぶら下がっていた。



 おわり。

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罪の在り処は。 池田(ちゃぬん) @jmsdf555

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