第9話 初登校
受験が終わってから、俺は本格的に筋トレを始めた。
家では一日に決めた回数のトレーニングを実施する。
筋トレは続けているとけっこう楽しくなってくる。今は腕立て伏せだ。
うおおお俺の上腕三頭筋が唸るぜ!
「にーちゃん。声うっとうしいから抑えてー」
「……ッ! ……ッ!」
「ありがとー」
杏沙の部屋は俺の部屋の隣にある。
気を抜くと声が漏れてしまうので、その度に杏沙にこうして怒られているのだ。
臭いとか言われないだけとても優しい気がする。俺の妹は大物の器だ。
「ふう……」
腕立て伏せから立ち上がり、息を吐いた。
モチベーションアップのため部屋に置いた全身鏡を眺め、筋肉に力を入れてみる。
「だいぶついたな」
タイムリープ前の俺はお世辞にもかっこいいとは言えない、陰の気をしたためた暗い人間であった。
だがこうして筋トレを初め、ちゃんと髪も切ったし、杏沙と一緒に洋服も買った。
今はどう見ても爽やかな好青年である。
……たぶん。
パッと見た感じではよくわからない。良くなった気はするが、あくまで俺からの目線だ。周りからはどう見られてるか不明である。
母さんや杏沙は『あら、見られるようになったね』とか『にーちゃんめちゃイケメンだよ! うちの文化祭とか来たらすごいことになるよ!』とか言ってくれるが、身内びいきであるかもしれない。
(まぁ別にめちゃくちゃ目立ちたいわけでもないし……)
かつてうまく行かなかった青春を取り戻したいという気持ちはある。
でも目立つと大変だろうな……、という生来の省エネ感が先に立ってしまう。
まぁ、目立つことを心配する必要はないだろう。
普通にしてれば平気のはずだ。
それが一番難しいんだけど。
「……明日はついに、入学式か」
緊張に高鳴る胸を抑えて、俺は明日へと思いを馳せた。
◇
そして初の登校日。
制服を着込み、どきどきしながらリビングに立つ。
母さんと杏沙が俺のことを評論家のような目でじーっと見つめ、そしてすっと親指を立てた。
「柊介……ほんとにかっこよくなったのね」
「にーちゃんイケてるね! 爽やかイケメンって感じ!」
母さんと杏沙が褒めてくれる。俺も親指を立てて返した。
よかった。制服を着たら似合わないとかならなくて。
「ちょっと目が濁ってるのが気になるけどね」
杏沙に余計なことも言われた。
それは置いといてくれ。
「……じゃあ行ってきます!」
「いってらっしゃい」
「いってらー!」
二人の見送りを背に玄関のドアを開けた。胸はどきどきと鼓動している。これから高校生活が始まるのだ。今度こそ。でも、うまく行くだろうか。いやでもしかし。そんな不安と期待の間でうろついている。
そうして家から一歩踏み出した先で、――驚いて足を止めた。
「おはようございます。柊くん」
「お、おお」
家の前で、バッグを手に持った夜宮が立っていた。
「おはよう……なんで?」
「一緒に登校しようと思ったからです。……め、迷惑でしょうか?」
「迷惑ってことはないけど……」
制服を着て首を傾げている夜宮は、一段とまた美少女だった。すらりとした細い体にたおやかな雰囲気で、纏っている制服がどこかのお嬢様のお召し物かのように錯覚されるくらいだ。
夜宮は戸惑っている俺を上から下まで見下ろして、わずかに目を見張った。
「前から思ってましたが、すごくかっこよくなりましたよね」
ぽつりと小さく呟く。その目はどこか遠い物を見ているようでもある。
「……ありがとう?」
「柊くん、やっぱり変わりましたよね」
「そうか? そこまで変わってないと思うけど……多少筋トレはしたけど、高校デビューってやつだし」
「いえ、変わりました。……外見だけじゃなくて、中身もです」
そうなんだろうか。自分では言われるほどでもないと思うけど。
夜宮はじっと俺を見つめて押し黙る。
最近では夜宮の薄い表情もだんだんと解読できるようになってきた。楽しい時とか、悲しい時とか。パッと見ると硬い表情に見えるけど、よく見ればけっこう表情豊かなのだ。
でも今の表情はよくわからない。少し口を引き結んで、眉がひそめられていて――まさか?
「あの……怒ってる?」
「怒ってません」
首を振られる。違ったようだ。
俺の知らない表情のまま、夜宮は口を開いた。
「柊くんが目立ったら困るなと思っただけです」
「困る? なんで?」
「なんで――」
そこで口をつぐむ。
夜宮は数秒そのまま停止した。
「……なんでもないです」
「……なんでもないのか」
「遅れたらよくないですし、行きましょう」
「……そうだな」
なんとなく気まずくなったが、二人して学校へ向かって歩いていった。
道中は無言だ。もともと夜宮は話をする方じゃないし、俺も適度な話題を見つけるのは得意じゃない。だから無言なこともよくある。
夜宮は何に対して口をつぐんだんだろう。
目立ったら困ると言っていた。
(……まさか)
俺がうぇ~いとか言うのを心配しているのか?
それなら絶対にないから安心してほしい。あの辺みたいな明るい人は明るい人で楽しんでいるだろうけど、俺はもっと静かに過ごしていたいのだ。
そんなことを考えていたら、しばらくして夜宮が急に顔を上げた。
「……ごめんなさい。さっきの話ですけど」
呼びかけられて顔を見つめる。
ここに来て、知らない夜宮の表情を発見している。
目線はちょっと不満げだ。口が軽く引き結ばれて、躊躇うような様子が見える。それから、頬のあたりが赤い。もじもじと落ち着かない。
これは?
今の見た目に当てはまる言葉がふっと浮かんだ。
もしかして――妬いてる?
「柊くんが目立ったら……他の人の所に行っちゃうかと思って……」
俺は愕然と立ち尽くした。
「柊くんは、私の許嫁ですよね?」
「は、はい」
「じゃあ、一緒にいてくれますよね……?」
「それは、もちろん」
不安そうな夜宮に向けてすぐに頷いた。
「一緒にいるよ。それは当然、許嫁じゃなくても。幼馴染だし。夜宮には幸せになってほしいし」
「そ、そうですか」
言うと、夜宮は顔を赤らめて目を逸らした。
「……やっぱり、変わりましたよね」
「そうかな」
自分ではわからない。……まぁ以前ならこんなことは言わないかもしれないけど。
さっきとは違う変な空気の中、俺たちは無言で学校へと向かった。
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