第8話 受験までの日常

 それから俺と夜宮の許嫁の日々が始まった。


 許嫁。ああ許嫁。許嫁。


 許嫁って何をするんだろうと思って調べたら、『双方の親が子供が幼いうちから結婚させる約束をしておくこと』と出てきた。間違ってない。でもそれだけだ。


 良好な許嫁ライフは、当人同士の感覚にかかっている。いわば、決まったことは何もない。


 なのでやることは特に変化は無かった。

 目下、俺は受験勉強に忙殺されている。


「むずい……うぉぉ……」


 タイムリープが高校入学前のクリスマスなので、今の俺は中学三年生である。

 なので受験勉強をしないといけない。


 今もリビングで問題集に取り組み中だ。

 受験勉強、難しすぎる。理科……社会……数学……。


「ああっ! 日奈さん! それ小麦粉! 薄力粉じゃないですよぉ!」

「薄力……? 似てるから同じものでは?」

「全然違いますから! というか、この前はなんでうまく行ったんですか!?」

「似たものが並んでいるので、どちらかを取っていて……」


 国語……英語……小麦粉、薄力粉――じゃなくて。


「あの……二人とも?」

「はい? どうしましたか? 柊くん」

「にーちゃん? どしたの?」


 顔を上げた先、キッチンの奥で、頬にちょっと白い粉をつけた夜宮と目が合う。タートルネックのセーターを着て、上からエプロンを付けている。横に並んでいるのは同じく白い粉を頬につけた俺の妹の杏沙。


 今日はお昼ごろに夜宮がやってきたのだ。


 あの日から、夜宮はたまにうちに来るようになった。要件は他愛もないことだ。お話をしようとか、ゲームがしたいとか。


 今日は勉強で疲れている俺のために、作り立てのお菓子を振舞いたいと言う。


 それ自体は途方もなくありがたい気持ちだったが……夜宮のお菓子作りの腕を知っている身としては、ちょっと不安もあった。


 その不安がしっかり的中している形だ。


「俺、手伝った方がいいのでは?」

「だめです」

「だめ!」


 気になってこうして手伝いを申し出るのだが、毎回同じく断られてしまう。


 それもこれも俺のこの前の模試の成績がそこそこだったせいだ。悪くはない。けど安全圏でもない。……中学の勉強なんてまともに覚えていないんだから健闘したとは思うが。


「柊くんは勉強しててください。心置きなく」

「そう。にーちゃんは勉強! 集中できなかったら部屋行ってもいいし!」

「とは言ってもな……」


 正直、勉強には集中できない。というか元々、夜宮が来る前から二時間くらいずっとやっているので集中も切れているのだ。


 それよりもキッチンの様子が気になる。この前はホットケーキミックスの袋をどう開けたのか、気づいたらキッチンと夜宮の顔が白く染め上げられていた。


 夜宮はやる気はあるのだが、なぜかお菓子作りに対してだけ非常に天然を発揮する。杏沙も手伝ってはいるのだが、わちゃわちゃするのが楽しい感じで、割とふわっとしたアドバイスしかしない。


 なのでとてもはらはらする空間になっている。


「もう少ししたらできますよ」


 夜宮が小麦粉の袋を持ち上げて言った。


 本当だろうか。


 でもそれから十五分くらいして、ちゃんとクッキーらしきものが完成した。


「では柊くん」

「ん?」

「あー、ってしてください」

「……あー」


 夜宮がクッキーを差し出してくる。このやり取りは何度かしているのだが、その度に夜宮が悲しそうな顔をするので結局やることになった。


 ちら、と横を見れば、杏沙はさりげなく目を閉じてクッキーを食べている。

 なんて気配りのできた妹なんだ……できすぎてると言ってもいい。


「どうですか?」

「うん……うん……」


 形は非常に微妙なクッキーをを頬張る俺に、夜宮が緊張した様子で見つめてくる。

 そしてどことなく期待するように、もじもじと体を動かしている。


「ありがとう。……成長してるよ」


 本当は、成長してる……かな? みたいな味だった。でも残念そうな顔を見たくなくて、こういう言い方になってしまう。


「柊くん」

「ん?」

「クッキー、あまり美味しくなかったですよね」

「ええ……!? うぅん、そう、とも言い切れない……ような、気も」


 夜宮はなぜか嬉しそうに、答えづらい事をぶち込んでくる。いいのか。製作者がそんなことを言ったらよくないだろ。


「でも……ありがとうございます。そう言ってくれるのも、嬉しいです。まだ成長もできますし」


 夜宮がわずかに頬を赤らめて微笑む。


 完璧な人間だった夜宮は、こうして失敗するのも楽しいんだろうか。どうなんだろう。


 実を言えば、あんまり、夜宮のことはわかっていない。


 俺たちは幼馴染で、許嫁だけど、お互いを理解できるほどの時間を一緒に過ごしていたわけではない。


 でも、わかりたいとは思う。難しいだろうけど。

 他人のことなんてどこまで言ってもわかり切れないし。

 でもちょっとだけでも、理解できたらいい。


「……受験が終わったら、俺もお菓子作り手伝いたいな」

「一緒に、ですか?」

「うん、あんまり詳しくはないけど、俺もやってみたくて……」


 夜宮は軽く目を見張った後、小さく口角を緩めた。


「嬉しいです」


 笑ってくれて嬉しくなる。


 そんな風にぼんやりとした時間を過ごしていた。


「……もうさ、許嫁じゃなくてもどうせ許嫁っぽかったよね」


 杏沙がそんな事を呟いていたが、よく聞こえなかったことにした。



 ◇



 冬休みを超え、一月。


 当然、中学もまだ授業がある。学生生活はまあまあ楽しかった。短い期間だったが、懐かしい顔にも会えたし、意外と普通に話もできた。だいたい受験一色だったから話題についていけたというのもある。他の話題は俺にとっては古くてついていくのが大変だった。


 二月。


 試験の日だ。記憶と同じく、志望校での試験だった。あの時何が出題されたかとか、問題はまったく覚えていない。受験の問題なんて、受けたらそれで終わりである。なのでこの二か月くらいの勉強の成果を発揮するのみ。


 とはいえ俺も見た目は中学生だが、頭脳は大人である。

 手ごたえはそこそこだった。

 なんとかなってくれ。



 ◇



 それから時間が空いて、合格発表の日。


 俺は母さんと高校へ向かった。早めに来たはずだったが、学生服の生徒が大量にいてぎゅうぎゅうだった。

 これは母さんと行くより、一人で行った方がいいだろう。


「一人で見てくるよ」

「ええ。早く帰ってきてね」


 母さんは心配そうな顔をしていた。大丈夫。あれだけ勉強したのだ。


 受験票の番号を覚えて、人混みの中を掻き分けていく。

 校舎の前に貼りだされた番号表の中を自分の番号と照らし合わせていく。


(どこだ……違う……この辺か――あった!)


「よし!」

「あ……」


 俺が自分の番号を見つけたのと同じタイミングで、横の女の子も声を出した。

 聞き覚えのある声だな……と思って見たら夜宮だった。


「夜宮?」

「柊くん?」


 たしかに、受ける学校は同じなのだ。出会ってもおかしくはない。

 それにしたって出会うのはかなり偶然というかなんというか。

 俺が目を丸くしていたら、夜宮がおずおずと受験票を見せてきた。


「わたし、受かりました。……柊くんは?」

「ああ。俺も受かったよ」


 受験票は無いが、頷いて見せる。

 そうしたら夜宮は安堵したように――目を細めて、緩い笑みを浮かべた。


「これで一緒の高校に通えますね」


 その笑顔を見た瞬間……俺の中で何かが弾けた。


 急に顔が熱くなって、視界が潤む。

 目尻から涙がこぼれて、俺は慌てて頬を手で拭った。


「え……えっ? あの、どうしたんですか? 柊くん?」

「い、いや……これはっ!」


 や、やばい。涙腺が。


 タイムリープ前、夜宮はすべてを失った。

 俺もまた、その日に足を絡め捕られて何の意思も無く生きていた。


 でも今回はそうじゃない。あのクリスマスの日を超えて、夜宮のこの笑顔を守れたのだ。やり直すと決めてそれを達成できた。


 それが無性に涙腺に来たのだ。


 泣き出す俺に夜宮が近づいて、きゅっと優しく俺を抱き寄せた。


 な、何!?


「そんなに合格が嬉しかったんですか?」

「え、いや」

「なら……泣き止むまで撫でてあげますね」

「ち、ちが……うって……おい……うぁ」


 そして人混みの中で泣きじゃくる男子と、その頭を慈愛の手つきで撫でる美少女という謎の構図ができた。周囲がびっくりした顔で遠巻きに俺たちを見つめている。


 後で知ることだが、この事があって、夜宮は学校で皆から『聖女』と呼ばれるようになったらしい。


 俺はなんだか色々と力が抜けてしまって、夜宮の腕の中でひたすら泣き続けた。


 ……しばらくして我慢の限界を迎えた母さんがやってきて、泣いている俺を見てぎょっとしていた。






 ――――――


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