第16話 三嶋梨律(リッくん)とバレンタイン15

あと10分ほどの道のりを、一人ひとり家路いえじを歩く。

夜道は周囲を見回し、人気の無い道は避けているが、流石にマンションが立ち並ぶ通りに近づくと、こんなに遅い時間には人通りが少ない。

自分の非力さを思い知らされたばかり、ということもあるが、疲れている時こそ警戒を解いてしまうと何に巻き込まれるかわからない。

中学でフラれてからも、女子だけではなく、男子から告白されることや、ストーカーに狙われることが度々あった。

自分は女子にモテるが、そんなことはお構いなく男子や見ず知らずの男からも、モテる、というより標的にされる、ということはあるのだとわかった。

ストーカーや痴漢の類の男たちには何度も出くわしたし、あたしの周りにいた子たちを狙うやつも沢山いて、嫌という程見てきた。

正直、1人でもいたら嫌なんだけど、沢山見せられてきた。

脚力には人並み以上であるという自信はあり逃げることに関しては問題ないのだが、ストーカーや痴漢は身動きが取れない所や自宅などの女の日常生活の場に土足で踏み込んでくる。

あのネバネバした視線や鼻の穴を広げた表情が、あたしや周りの子をただの女と認識して、性の対象としか見ていないことが、そいつらの態度や行動が言わずと示していた。

本当に最低な人種の一つである。

今は精神的にも疲労感はピークに近いが、自分が女性である以上は最悪な状況に陥らないために夜道では決して警戒を解く訳に行かない。

家路も終盤、あの角を曲がれば我が家のマンションが見えてくる。


今日は幸運にも何者にも出くわさずにマンションに着くことができた。

郵便ポストを一応チェックしてからマンションの外扉のロックを解除し、エレベーターへ向かう。


大好きなゆうちゃんに会いたい、と思う反面、波柴はしばさんのことで後ろめたさがあったり、田中たなかに襲われかけて警察に行ってたこともゆうちゃんには言っていない。

今の自分の格好もゆうちゃんには見せたくない。

モコモコのパーカーにピンクの刺繍でいたる所に文字やリボンやハートマークの装飾のついたいかにもなレディースジーンズを履いている自分の姿を、大好きなゆうちゃんに見られるのはよろしくない。

だって、ゆうちゃんが好きなあたしはそんな服装はしない。

それに、この格好を見られたら、なんて言い訳するのだろう?

あたしは恋人の前で嘘をつくのは下手らしい。

何でもすぐに見破られる。

正直に話したら納得してもらえるだろうか?

わからない。

でも、あたしがその立場なら、間違いなく納得できない。

付き合い始めてこのかた、こんな事態に陥ったことはない。

ゆうちゃんが他人の服を着るなんて想像できないし、想像したくない。

それに、服を借りなければならない状況が、ゆうちゃんにあったとしたら、それは一大事だ。

あたしのことを好きでいてくれるゆうちゃんにとっても、きっと精神的なショックが大きいはずだ。

だから何としても、ゆうちゃんに見られる訳には行かない。


あたし自身の精神もかなり消耗している。

なにせすでに2回も泣いている。

もしまた何か少しでも刺激を受けようものなら、すぐに精神力がゼロになる。

いや、一気にマイナスになると思う。


エレベーターが開き、苦手な住人が乗っていないことに安堵しながら乗りこんで、フロアボタンを押しドアを閉める。

同じマンションに住んでいる人の中にも、エレベーターとかで密室になると何をされるかわからない。

本当に女に産まれてくるというのは過酷なものだとつくづく思う。

世の男性諸君よ。

どうか女性をもっと大切に扱うことを覚えてほしい。

君たちの雑な扱いが、隠しきれていない欲望や自制心の乏しさが、世の中の多くの女性たちを常日頃から傷つけたり疲弊させているのだと、気づいてくれることを切に願うばかりである。


我が家のフロアに着くまではほんの数秒だ。

エレベーターから出て、夜遅く誰も歩いていない廊下を静かに歩き、我が家の前で1度立ち止まる。

一応、耳を済ませてみた。

中の音はあまり聞こえないのだが、戸口のすぐ近くに誰かがいれば何かしらの音がすることはある。


……。


廊下はしんと静まり返っている。

それもそう、時計の針はすでに22時をまわっているのだから、他の家もどんちゃん騒ぎとかは、さすがにしていなかった。

我が家のドアからもなんの音も聞こえない。

カードキーを差し込み、ドアをガチャりと解錠した。

ドアを押しひらいて中に入る。

ゆっくりとドアが閉まり、自動で施錠される。

念の為チェーンロックも欠かさない。

靴を脱ぎ揃えて定位置に置き、荷物を一旦玄関の近くの床に置いてコートを脱ぐ。

コート掛けに掛けたら、足音を潜めて、静かに風呂場へ向かう。


「ハニー?帰ってきたの?」


心臓を鷲掴みにされたのかと思った……!

ゆうちゃんの声だ!

しかも、廊下に面した化粧室からだ……!

風呂場へ急ごう……!


「た、ただいま〜、ゆうちゃん。

あたし、先にシャワー入るね。

今すごく疲れてて、すぐに寝たいから、ごめんね」


早口でそう言って、足早に風呂場へ向かう。

声が震えてしまう。

この格好を見られたら、ゆうちゃんは大好きのままでいてくれるのだろうか。

あたしの中でゆうちゃんが遠くに行ってしまうイメージが膨れ上がり、その恐怖が声を震わせた。


背後で排水音がした。

やばい!

風呂場の脱衣所に洗面台がある。

つまり、手を洗うためにゆうちゃんは入ってきてしまう。

はやく、はやくはやくこの服を脱がないと!


モコモコのパーカーを脱ぐのにはさほど苦戦しなかったが、脱いだ後にどこに置こうか一瞬迷う。

目を泳がせとっさに洗濯カゴに放り込む。

次にジーンズに手をかけた時、廊下から化粧室の扉の音がした。

ゆうちゃんが来てしまう。

早く脱がなきゃ、でもこれ、なかなか脱げない!

太ももにピッタリとフィットしてしまっていて思うように脱ぐことができない。

焦る視界の端で、ゆっくりと脱衣所の扉がスライドするのが見えた……。


「おかえりなさい、マイハニー♪

寝ちゃう前に帰ってきてくれて良かったぁ」


変な汗がダラダラと出てきて、ゆうちゃんの顔を見ることができない。


「……あ、う、うん、た、ただいま。マイダーリン」


あたしの言い方やが、いつもと違うことに何かを察したのか。

あるいは明らかにあたしの趣味じゃない刺繍付きのレディースジーンズを脱ぎかけのあたしの姿を見たからか。

ゆうちゃんの声から明るさが消えてき、硬質なものに変わっていく。


「……リッくんが、リボンのレディースジーンズを履いてる……。

ねぇ……、どうしたの、それ……?

リッくんが買ったの?」


「ええと……その、これは、なんというか、急場しのぎに着ただけというか……その……」


ゆうちゃんの声から温度も消えていく。


「今日って仕事じゃなかったの?

……スーツは?


……まさか…………。

ハニー……、私の気づかないところで…………浮気してた……?」


あたしはジーンズに手をかけたまま凍りついた。

嫌な汗が全身から吹き出ていて気持ち悪い。

だけど、弁明しないと、誤解だってハッキリ言わないと!

浮気なんてしたいわけない!


「いや、これは、ちがうちがう、浮気とかじゃないから!

あたしにはゆうちゃんしかいないから、だから大丈夫だよ」


そういいながら、ゆうちゃんの顔を仰ぎ見る。


しかし……。

お面のような感情の消えた表情のゆうちゃんがそこにいた。


いつもはあれほど感情豊かで、悲しければ泣くし、怒る時は眉をつり上げ、笑う時には思い切り笑うゆうちゃんが、今は表情が抜け落ちてしまったかのようだ。

ゆうちゃんの耳は、すでにあたしの言葉など受けつけなていなかった。

ゆうちゃんは静かな声であたしに問いかけるようで、あたしの受け答えを挟むような余地のないほどの早口で静かに話し続ける……。


「職場がちがうから、いつも残業って言われても確かめようないし、男の人が不倫とか浮気とかを隠す時によくある口実だよね?ねぇ、リッくん。私のこと、もう飽きちゃった?というか、最初からこんな平凡な私なんて一時的なものだよね?ごめん、私がリッくんに釣り合うなんて最初から思ってなかった。やっぱりリッくんは、私よりもふさわしい人か沢山いるもんね。それにリッくんは本当は男の人が好きなことも知ってるよ?こんなことをうだうだと言ってる女の人より、リッくんはリッくんの好きな人の所にいていいんだよ。私はリッくんのようにモテないし、どこにでもいる普通の人間だって知ってるもん。そうだ、なんなら私、すぐに出ていくから、この部屋好きに使っていいよ?それがいいね、そうしよう、今日はもう遅いから、明日になったらお部屋探し頑張るね。新しいお部屋見つかったらすぐに出ていくから、それまではごめんね」


「……待って、ゆうちゃ」


「ごめん、ちょっと手だけ洗わせて?」


"話は終わった"そういうことなのか、ゆうちゃんはあたしの声を遮り、無言で手を洗い始める。

洗濯カゴにいれたモコモコのパーカーを一瞥いちべつして、ゆうちゃんは少し吐息をつき、手を素早く洗って立ち去ろうとする。

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