六の巻 浅薄な青年に艱難おとずれしこと その八

 そうしている間にも、辺りは夜の闇がぬぐい去られるように、だんだんと白い朝へと容姿を変えていった。

「わからへんのかい」甚平が唾棄するように言った。「おまえ、お咲はんのこと覚えとるか」

「覚えとるもなにも、俺の実家に女中奉公に来とった子や」

「それだけか」

「どういうこっちゃ」

「お前はお咲はんに、将来を約束するようなことを言ったやろ」

「なんやて。そんなこと……、言ったかもしれへんが、ただのお愛想やろ。話のながれでそんなことを言ったかもしれへん」

「このドアホがっ。お咲はんは、ずっとお前の言葉を本気にしとったんや。それなのに、お前はお咲はんを捨てるようにして家出をした。そのときのお咲はんの落胆ぶり、みてられんかったわ」

「お、お咲はんはどこにおんねん」

「死んでもうた。はやり病でな。最後までお前に捨てられたことに傷ついたまま、生きる気力をなくして、死んでもうたんや」

「けど、お咲はんに恨まれても、お前らに恨まれる筋合いはないわ」

「あるわ、ドアホ!お咲はんはな、このお千代はんの姉さんや」

「な……?」

「そうよ」と千代が話を続けた。「姉さんは今際いまわのきわの最後の最後まで、あんたに捨てられたことを嘆き悲しんでいた。あんたなんか、死ねばええ。姉さんをむごたらしく捨てた、いえ、軽薄な口で姉さんをだましていたあんたなんか、死んでしまえばええ!」

 千代の叫びが、喬吾の心を矢のようにつらぬいた。

「お、俺にどないしろちゅうねん」

「奉行所も新選組も役にたてへんのなら、俺が始末をつけたる!」

 いつもとはまるで正反対の、耳に刺さるような甲高い声で叫んで、甚平がたもとから一枚の札をとりだした。

「な、なんでお前がそんなもんもっとるんや」

「もろうたんや。武家の若衆みたいなやつにな。俺がお前を狙っていたのをなんで知っていたのかはわかれへん。けど、くれるっちゅうもんをむげにはできんやろ」

 甚平はその呪符をぺたりと胸にはりつけた。

 予想外の行動に、隣にいた千代も不審げに甚平を見つめている。

 大地からわいてくるようなうめき声を口から垂れ流しながら、甚平の姿が奇妙に変化していった。筋肉がむきむきと盛りあがり上半身の着物を裂き、背が曲がり、腕が伸び、爪が刃のようにとがり、体全体から濃い体毛がはえていった。

 変化が終わると、甚平は目を真っ赤に光らせ、裂けた口からはキバをつきだし、村中にとどろきわたるような声で咆哮した。

 妖怪の狒狒ひひのように変貌した甚平が、前のめりに、今にも飛びかかりそうな体勢で、うなる。

 千代があまりの醜穢しゅうわいな姿を目にし息を飲み、思わずあとじさった。

 そんな千代の心などおかまいなしに、甚平が威嚇するように口をひらいた。

「もう終わりだ、喬吾。苦しまずに息の根をとめてやる」

「アホが」

 喬吾はただ、吐き捨てるようにそう言った。

 そうして懐からミタマ、サクミの宿る拳銃レミントン・ニューモデルアーミーを抜き放ち、銃口を猿の化け物へと向け撃鉄を倒す。

「そんなものが通用するとでも思っているのか」

 甚平が地響きのような声で言って、だっと大地を蹴って跳んだ。農家の庭を、めいっぱい使うように、端から端へと右に左に飛び跳ねて、喬吾に照準をあわせる暇をあたえない。

 そうやってしばらく、おのれの人外の力を誇示するように跳ねまわったあと、猿が威嚇するようにけたたましく吠えながら、甚平が腕をふりあげ喬吾へと向かって飛んだ。

 直線的に向かって来るその瞬間を、喬吾は逃さなかった。

 引き金を引きしぼった刹那、銃口から青白いレーザーのような霊気がほとばしった。

 霊気のレーザーは甚平の胸を貫いた。

 胸にはられた呪符が、はじけたように粉々にちぎれ飛んだ。

 苦痛の悲鳴をあげて、大地を揺さぶって墜落し、甚平の体が転がってきて喬吾の足もとでとまった。

 けむくじゃらのその体はすぐにもとの姿へと戻っていった。

 気を失ってはいるが、命にはまったく別状はないだろう。

 ほっと吐息をつきながら銃をしまい、喬吾は千代を見た。

 千代はすでに恐怖から解放され、ああも不気味に変化していた男に走り寄ると、膝をついて甚平に呼びかけた。

「甚平さん、甚平さん、大丈夫?しっかりして」

 声におうじるように甚平はひくくうなった。

 ――なんと声をかければいいんやろ。

 ふたりのその姿を見ながら、喬吾は思った。

 いつもはべらべらと次から次に言葉があふれでてくるくせに、肝心な時には気のきいた言葉のひとつも思い浮かべへん。情けないもんや――。

 喬吾は目を閉じた。よりそうふたりの姿を心象から消し去るように、ぐっと目を閉じた。

 そうして目を開くとその場を立ち去った。ふたりの姿はもうけっして目に入れはしなかった。


「あんた、私の口ぞえがなかったら切腹だったんだでね。感謝しやあよ」

 詰め所の居間で、手持ち無沙汰に銃の手入れをしていた喬吾に、部屋に入ってきたゆさが湯呑みの茶を手渡しつつ、嫌味ったらしく言った。

「感謝しやあ、言われても」

 喬吾は事件発生時にとった行動に過誤があったとして、十日間の謹慎を命じられた。実際土方副長に口添えをしてくれたのはゆさであったので、喬吾は嫌味を言われても苦笑して頭をかいているしかない。

「甚平さんとお千代さんは、東町奉行所に自首したそうよ」

「ほいで、どないなったて?」

「犯行にいたったふたりの心情は情状酌量にあたいする。よってきつく叱りおく」ゆさはおそらく町奉行の(想像の)真似をした。「それで釈放らしらしいよ。軽くすんでよかったがね」

「おみごと大岡裁き、ちゅうわけやあれへんけど、まるでいたずら小僧あつかいやな。なんや、奉行所もなおざりな気がせんでもないな」

「まだ尊攘派の浪士がちょくちょく騒ぎを起こすもんで、そっちに気がいっとるんじゃあれせんの」

「ま、大事にならんでよかったわ」

「あんた、ぼさっとしとらんで、なんか仕事でもしやあ」

「なにをせいっちゅうねん」

「おい、お前の尻ぬぐいに奔走していたせいで、写本の内職が溜まってるんだ、こっちに来て手伝え」

 隣の部屋でふたりの会話を聞いていたらしい一心が声をかけてきた。

「へぇい。写本でもカルタ書きでもなんでもしますよ」

 喬吾はしぶしぶといった態をして立ちあがると、隣の部屋へと出て行った。

 ゆさはその後ろ姿を見送って、昼下がりの庭をみつめた。彼女の心には、まだ疑念がよどんでいた。甚平に呪符をわたしたという謎の少年――おそらく宇陀宮うだのみやの手の者に違いないが、彼らはすでにゆさたちを敵と見定めている、という気がした。

 ――そろそろみんなに真実を打ち明けるときが来たのかもしれない。

 ゆさのみつめる庭に秋風が吹き抜けて、木々をザワザワとゆらしていた。




(六の巻終わり)

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