六の巻 浅薄な青年に艱難おとずれしこと その五

 一心は、ふんどし一丁に注連縄姿のバカ者を居間に突き飛ばして、後ろでに障子を閉めると、一発頭をポカリとやった。

「いってえ、いきなりひどいな、ダンナ」

「もう一発、いや、二、三発ぶんなぐってやりたいところだ」

「ゆさちゃん、すまんけど着物持ってきてくれへんかな」

「自分でとってこいっ」

 一心に怒鳴られ、喬吾が隣の部屋で着替えている間じゅう、一心は座布団に座って、膝をゆすり、はやくしろ、ぐずぐずするな、そんなふうに繰り返し声をかけ続けた。

 とりあえず、着流しで一心の前に座った喬吾は、

「すまん、ゆさちゃん、今日は起きてからなんも食っとれへんのや、なんぞ持ってきてくれへんか」

 時刻はもう昼をずいぶんまわっていた。一心の顔色をちらりとうかがうゆさに、一心は眉間に深いシワをきざんでこくりとうなずいた。

 そうして出された飯と味噌汁と沢庵漬けをばくばく食いながら、喬吾はことのあらましを語って聞かせた。

「じゃあ、喬吾も、血で地面が濡れているのはみたが、遺体はみていないんだな」

「まったく」

「それでなぜ逃げたんだ、お前は」

「いや、捕まったら最後、拷問のすえやってもいないのにやったと言わされ、あげく打ち首なんてことになりかねへん」

「まあ、お前は口巧者とうぬぼれているかもしれんが、言葉ひとつひとつがスカスカで重みがないからな。奉行所も新選組もお前の言いわけなど信用せんだろうな」

「ひどいな、ダンナ」

「しかしお前、その甚平という男に、いきさつをべらべら語って聞かせたわけじゃないだろうな」

「あたりまえや、俺はただ、新選組の用事でしばらく家に泊まらせてくれ、っていうただけや」

「じゃあ、なんでお前が事件を起こしたと知っていた」

「それは俺も考えた。あいつ、ぼうっとした顔してけっこう勘がいいからな、なにか俺の様子に奇妙なとこがあったのを見抜いたんやろうなあ。それで番屋に報せに行ったんやろ」

「うむ、まあ平仄ひょうそくは合うな」

 一心は腕を組んで、目まぐるしく脳を回転させた。だが、回転させても材料がとぼしいものだから、考えがまとまるどころか、推理の断片がさらに細かく砕けていくような気がした。

「ともかく」と一心は溜め息まじりにつぶやいた。「消えた千代という娘のゆくえをさがすのを目下のところいそがねばならん。投げ文をしていた者が下手人には違いないし、千代の遺体を持ち去ったのもそいつであろう。しかし、その状況でなぜ遺体を隠す必要があったのか」

「私考えたんですけど」ゆさが口をはさんだ。「千代さんは生きているんじゃないでしょうか。血は別人のもので、殺人の現場をみた千代さんが連れ去られたとは考えられませんか」

「うむ、そうだな、可能性は排除せずにことにあたろう」

「遺体を見つけるのは至難やけど、お千代はんが生きとったら、見つけるのは不可能やないで」

「よし、生きている可能性も考慮しよう。結之介たちには交代で千代の家を見張らせよう」

 そうして一心は、じゃあ本隊に報告に行って来る、と言い残して出て行った。喬吾がこっそりと帰っていることは、ふせるであろうが、逃亡中の人間をかくまったのが露見すれば切腹を命じられる可能性すらあった。一心にしてみれば、薄氷を踏んで歩いて冷や汗をかく心地であろう。

 喬吾はこの男にはめずらしく、むっつりと黙り込んで部屋の壁をじっと見つめながら、思案にふけっていた。

 ――ゆさの推理は間違っている。

 あのとき喬吾が酔っ払いの喧嘩の仲裁に入ったとき、周辺に人の気配はなかった。

 よしんば人がいて息をひそめていたとして、近くに(騒いでいるとはいえ)人がいるのに、誰にも気づかれずに人ひとりをさらえるものだろうか。

 ゆさも千代が生きている可能性を捨てきれないようだが、千代は死んでいる可能性が高い、と喬吾は思っている。現場の、あの血の海を目にすれば、血の持ち主が生きているとはとても考えにくい。喬吾だって千代には生きていて欲しいが、まず無駄な期待だという思いであった。

 ――生きているとすれば……。

 そう考えて喬吾は頭を左右にふって、その先の思考をとめた。これ以上推理が飛躍していくと、千代の名誉を傷つけるような気がしたからだった。


「聞いたよ、お千代ちゃん、殺されたんやて?」

「ほんま、かわいそうに」

「里助はん、落ち込んで今日は部屋にこもりっきりやん」

「あいや、まだ殺されたと決まったわけでは……」

 結之介は長屋のかみさんのひとりに話を聞いていたが、たちまち他のかみさん連中が呼びもしないのに集まってきて、勝手な話をしはじめるのだった。

「そのお千代さんの家に、脅迫めいた投げ文が投げ込まれていたのはご存じですか」

「さあ、聞いたことあれせんな」

「うちもや」

「里助はんもなんも言ってませんどしたえ」

「で、では……」

「それにしても、里助はんも気の毒やなあ」

「おねえちゃんに続いて、お千代ちゃんまでなあ」

「お姉ちゃん……、お千代さんにはお姉さんがいたんですか?」

「お咲ちゃんなあ、なんや、病にかかってころっと逝ってもうたなあ」

「あっという間やったもんなあ」

「あんまり突然で悲しむ暇もない、ってお千代ちゃんがゆうてはったわ」

 おかみさん達は口をそろえるように、不審な人物は誰もみていない、と言う。こんな狭い長屋だと、見知ぬ人間がうろついていれば、誰かの目にとまらないはずがなかった。とすれば、投げ文をしたのは、誰にも怪しまれない人間――知り合いとか、棒手振りにような物売りなどか。

 日も暮れ始めている。

 いったん詰め所にもどろうかと結之介は思いつつ、狭い路地を抜けて通りへでた。

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