六の巻 浅薄な青年に艱難おとずれしこと その四

 ふと喬吾が目覚め、今何刻頃かしらと虫籠窓むしこまど(格子窓)に顔を向けたが、外はまだ真っ暗なようである。ぐっすり眠ったように思えるが、まだ一刻か一刻半(二、三時間)くらいしか眠れていないようだ。

 逃亡中の興奮からであろうか、それでもう眠れなくなった。

 眠れぬ頭で、さてこれからどうしようと考えた。

 自分としては進退極まったという気があって逃げたのではあったが、こうして落ち着いてみると、やはり番屋でありのままを、手先の男に話しておくのが一番良かったのではないかと後悔しないでもない。

 ともかく、よろず課の連中につなぎをとるのが最善だろうという気はする。それで喬吾自身は身を隠しておけばいい。あとはもと江戸町奉行与力の一心の判断にまかせるしか手はないだろう。

 ――しかし、どうやってつなぎをつけるか。

 甚平を使うと足がつきそうな不安がある。

 そう思案していた時、階下で物音がしたようであった。

 瞬間、喬吾は警戒して体をかたくした。

 がすぐに思いなおした。

 甚平か父親が用をたしに行ったのかもしれない。

 ――いや……。

 どうも数人の人間の気配がする。それが、床を軋ませるのも気をつかいながら階段を上ってくるようだ。

 ――甚平め。

 喬吾は腹の中でののしりながら、そっと身を起こした。

 ここは作業場の厨子つし二階(屋根裏部屋)なので、天井はなく屋根板がそのまま天辺になっている。物置に使っているらしく、木箱や行李などが置かれているが、身を隠す場所がまるでない。

 こうなれば、

 ――ええい、ままよ。

 腰をかがめて梯子段までさっと移動すると、最上段から思いきって飛びおりた。

 途中まで昇ってきていた手先なのかその手下なのかわからないが、男があっと叫んで身をかがめつつよけた。

 なにが起きたかわからない段をのぼりかけていた二番目の男に、喬吾は激突し、もつれあうようにしてすべり落ちた。

 喬吾は脚を打って多少の痛みはあったが、いっしょに落ちた男のほうは、腰を打ったらしく、うめいて転がっている。

 そのまま通りニワ・・・・(台所)に飛びおりて、はだしのまま裏口から飛び出した。

 そこに甚平が立っていた。

 喬吾はきっとにらみつけながらそのわきを通り抜けた。が、甚平は追うでもなく、

「悪いな、下手人をかくまって罪に問われるのはごめんだからな」

 早口にそう言って、喬吾を見送った。

 捕吏の連中は、家のなかにいた三人だけだったようだ。

 後ろから怒号が聞こえたが、振り返りもせず、喬吾は走った。

 東山の向こうが淡く色づいていた。これでは、明るくなる前によろず課の詰め所まではたどりつけそうもない。

 ――どこかに身を隠さな。

 喬吾は闇雲に京の道を逃走するしかなかった。


 柘植一心は、杉原結之介、加茂詠次郎、水島夜十郎の三人を送り出すと、いらいらと部屋のなかを歩き回った。

 三人には、新選組の探索方および京都東町奉行所に協力することと、とにかくその両者よりもはやく村瀬喬吾の身柄を確保することをきつく命じてあった。

「そう、いらいらしとってもなんも変われせんでしょお」

 尾張訛り丸出しでゆさ・・が言って茶を床においた。

「まったくあのバカが」

 一心は喬吾をののしりつつ、座布団に座って茶をすすった。彼はこれから本隊の屯所までいって、状況を報告にいかねばならない。

「いったい何を考えておるんだ」

「何も考えとれせんのと違いますか」

「いや、よけいな知恵をしぼって迷路に迷い込んでいるに違いない。何も考えていなければ、まっさきにここに走り込んでくるはずだ。そっちのほうが、こちらとしては対処しやすかったのだがな」

「けど、喬吾さんが依頼主のお千代さんを殺めたなんて、一心さんも思っとれせんのでしょう」

「それはもちろんだ。だいいち、遺体がない、というのが一番ひっかかる」

「でも、さらうだけなら、血が撒き散らされていた意味がわかれせんがね」

「うむ……」

 一心がうなりながら腕を組んで黙考しはじめたときだった。

「すすたすた、すたすた、すたすた坊主の来るときは、腰には七九のシメをはり、頭にしっかと輪をはめて」

 庭の向こうからむやみに大きな歌声が聞こえてきた。

 刹那に青筋が一心の額に浮きあがった。

「なんだ、あれは」

「すたすた坊主だがね」

「すたすた坊主はわかる。あの甲高い無駄に大きな歌声はいったいなんだ」

「さあ」

 首をかしげるゆさをほうって、一心はいらだちに蹴りあげられるようにたちあがると、庭をつっきって駆けていき、

「うるせえ、こっちは大事な考え事をしてんだ、静かにしろい、べらぼうめっ!」

 垣根の向こうへ向けて大声で怒鳴り散らした。

「すたすた、すたすた、すたすた坊主の来るときは、腰には七九のシメをはり、頭にしっかと輪をはめてぇ」

 すたすた坊主は、裸に注連縄しめなわを腰に結び、頭に鉢巻きを巻いて、踊り続けている。一心の声などまるで気にもとめない風で、こちらに背をむけて、近所の子供たちに踊りをみせていた。子供たちがキャッキャと手を叩く前で、腰をおとして手振り足振りする姿は、本場阿波踊りもかくやというほど、なかなか堂に入ったものだ。

 ちなみにすたすた坊主というのは、いそがしい店の主などにかわって神社に参詣にいく者を言うが、まあ、ただの風変わりな物乞いと思えばてっとりばやい。

「ちっ、金をやるからどっかいけっ」

 一心は怒鳴りながら懐から何文か銭をにぎると、踊る男の足もとに放り投げた。怒りを抑えきれず、というよりもはや八つ当たりである。

「ありがとうござあい」

 撒かれた銭の音に、すたすた坊主がおしろいを塗った顔を振り向かせた。

 とたん一心の顔が怒り半分あきれ半分でひきつった。その顔はまぎれもない、

「喬吾……」

 であった。

「おいっ、そこの物乞い坊主、そんなかっこうじゃあ寒いだろう、茶でも飲ませてやるからこっちこい」

 しらけた顔で一心は手をふって招いた。

「へえい」

 喬吾ははじけるような笑顔でそれに応じた。

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