六の巻 浅薄な青年に艱難おとずれしこと その三

 喬吾がいったん千代の家にもどると、里助がいつまでも帰らぬ娘に気が気でないようすで、膝をゆすりながら部屋の真ん中にあぐらをかいていた。

 千代が帰っていないことは一目瞭然であった。

「すまない親父さん、お千代はんを見失ってしもうた」

「なんやてっ」里助は長屋じゅうに響き渡るような声で叫んだ。「お前さんがついていながら、どういうこっちゃ」

「ほんま申し訳ない」

 じっとしてもいられないと里助はたちあがった。

「わしも探しにいかな」

「いや、探すのは俺にまかせてくれへんか。お千代はんが帰っていたときのために親父さんは家におってくれ」

「けど、こんなときに、おちおちしとれるか」

「そこをなんとか。たのんます」

 懇願するように言って、喬吾は長屋を後にした。

 そうしてもう一度現場に帰ってみると、そこはもう人垣が幾重にも重なっているようなありさまで、ところの手先(目明かし)であろう、提灯を手に片膝をついて血だまりを見分しているようすだった。

 すると、むこうにたっていた町人の男が、ふいに喬吾を指さした。

「あいつやっ。あの若い新選組が女をつれて歩いとった!」

 血だまりを見ていた、がっしりした体つきの中年男が立ちあがって、鋭鋒のようなするどい目で喬吾をにらんだ。

「あ、ちゃうで、俺はなんもしとれせん」

「言いわけは番屋でしてもらいましょうか、新選組はん」

 喬吾の頭の中で、先行きがぱらぱらと乱れたように想起された。

 このままおとなしく番屋までついていけばどのような取り調べをうけるかわかったものではない。新選組に通報されでもしたら、あの鉄の掟を遵守することいわおのごとき組織のことだ、嫌疑をかけられただけでも、士道不覚悟で切腹においこまれかねない。

 喬吾は提灯を捨てさっと踵をかえすといっさんに走り始めた。

 ――とにかく逃げるしかない。

 そう思いを決めていた。

「あ、逃げやがった。追え、追えっ」

 手先の男が手下(下っ引)に命じ、ばたばたと地面を踏みならす音をたてながら追って来、喬吾の背中を圧迫してくる。

 しかし喬吾も土地の人間であった。

 その辺の町奉行所の使いっぱしりよりもずっと道を熟知している。

 木戸が閉まっていようが開いていようが、抜け道はあまるほど頭のなかに入っているし、逃走ルートはいくらでも思い描けるのだ。

 当初は、よろず課の詰め所を目指して逃げていたが、詰め所にかくまってもらったところで本隊から受け渡し命令でもくれば、喬吾の身柄をわたさざるを得ないであろう。

 ――どこに逃げろっちゅうねん。

 実家や親類に頼るのはごめんだった。家を出るときに大ゲンカをしている。親類縁者にあわせる顔など、顔の皮を何枚はいだって出て来はしないのだ。

 ――甚やん。

 先日再会した昔なじみの顔を思い浮かべていた。

 甚平なら、きっとかくまってくれるだろう。先日会ったときはそっけなくされたが、なに幼友達が頼み込めば、ひと晩やふた晩、だまって家に泊めてくれるに違いない。

 喬吾は、目指す甚平の家のある相国寺の東側まで、東へ向かって約二十町(二キロメートル)の距離を、わき目もふらずひたすらに逃げに逃げた。

 甚平の家は、小さいながらも一軒家で、喬吾は裏に回ると、そっと勝手口の戸を叩いた。藁にすがりつくような思いであった。

 追っ手はいつの間にか引き離していたようだ。迫って来る気配はまるでない。

 しばらくすると、ことりと戸が鳴って細く引き開けられ、不審げな目がその細い隙間からじっとこっちを見つめてきた。

「な、なんや、喬やんやないか、どないしたんや」

「すまん、甚やん、御用の筋ちゅうやつでな、ひと晩かふた晩、泊めてくれへんか」

 返事はなかった。だが、のぞいたその目はあきらかに不振の色を浮かべていた。

 自分の考えが甘かったかな、と喬吾は軽率な判断を内心で苦く笑った。先日再会したばかりの昔の知り合いが、突然訪ねてきて泊めてくれなどと言われたら、とまどわない者はいないであろう。

 しばらくの沈黙の時間がふたりの間に流れた。重苦しい不快な時間であった。

「ここじゃあなんや、とりあえず、あがれ」

 黙考を終えた甚平が戸をあけてくれ、すかさず喬吾は体をすべりこませるようにして戸口をくぐった。

「なんや、甚、お客はんかいな」

 障子戸の向こうからいささか聞き取りにくい声が聞こえてきた。

「俺や、親父さん、久しぶりやな」

 戸をあけて言うと、喬吾をみた老人が目をまるくして、

「なんや、喬やんやないか」

 甚平はずいぶん症状が重いような言いかたをしていたが、父親は多少ろれつの回らないところはあったし、左腕がうまく動かないようだが、元気なようにみえた。ああゆう言いかたをして、喬吾と別れる言いわけのように父親の病気を使った甚平の心裡はどんなものだったのだろう、と喬吾は思った。

「すまんけど、ちょっとやっかいになろうと思ってな」

「ええ、ええ。遠慮せんといくらでもいたらええ」

 そう言って、ちょっと引きつる左頬で笑った。

「元気そうやな。なんや新選組の羽織なんか着て。え、おまえはんが新選組かいな。へえ。あのわんぱく坊主がえらい出世やなあ」

 不自由な体でせいいっぱい愛想よく再会を喜んでくれたが、その辺りは京の人間特有の社交辞令かもしれず、辞儀どおり受け取ることはできないが、

 ――変に勘繰るのは、今おれが追われているからや。

 ともかく猜疑心を振り捨てるようにして、喬吾もせいいっぱい笑った。

「おい」

 そう愛想のない低くくぐもった声をかけて、甚平が湯呑みに白湯を入れたのを持ってきてくれた。汗もかいているし、意気もまだ、軽くはずんだままだった。走ってきたのを察して、気をきかせてくれたのだろう。

「飯は食ったか。あまりもんでよければ、ちょっとはあるで」

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