六の巻 浅薄な青年に艱難おとずれしこと

六の巻 浅薄な青年に艱難おとずれしこと その一

 壬生寺裏の新選組特殊任務部よろず課の詰め所をその日たずねてきた女は、とりたてて目立つところのない格好をしていて、歳のころは十八くらい、器量は十人並み、細くも太くもない体型で、緑茶色をした格子柄の着物に茅色の帯をつけているのもなんだか地味に見える、そんな女だった。

 客間でゆさ・・と、めずらしく詰め所にいた村瀬喬吾むらせ きょうごとの前で、静かに頭をさげて、女は言った。

檜野ひの町に住んでいます、千代ちよと申します」

 千代は、あまり抑揚のない調子ではあったが、よく通るきれいな声音をしていた。根に陰気さはないようだ。

「檜野町といいますと、どのあたりになりますでしょうか」ゆさが訊いた。「私、まったくと言っていいほど土地勘がありませんで」

「ここからずっと北になります。西陣のあたりどす」

「織物の西陣ですか」

「はい」

「では、織物か染め物のお仕事をなさっておいでで?」

「父は染め物の職人をしています。私は北野天満宮近くにある料亭に通いで女中奉公しております」

「ずいぶん遠くから来はったんやな」喬吾、女であればたとえ地味な女でも鼻の下を伸ばす。

「ええ、五十町(五キロメートル)ばかりはあったかと思います」

「見た目によらず、けっこう足腰が達者なんやな」

「体が丈夫なのだけがとりえどして」

「で、ご依頼はどのような」とゆさが話を戻した。

「お武家様にお願いするのもはなはだ申し訳ないのですが」千代は顔を曇らせて、「私の住んでいる長屋から働いている料亭までの行き帰りの護衛をお願いしたいのです」

「そりゃまたどうしてや」

「はい。まずこれをご覧ください」

 と千代は懐から紙の束をとりだして、ふたりの前においた。

 紙はすべてくしゃくしゃで、それをのばしなおして、とっておいたものらしい。その十枚ほどの手のひら大の紙をふたりはそれぞれ手に取った。

「これは……」

 ゆさは背筋に寒気を感じた。

 紙にはそれぞれ、死ね、殺してやる、覚悟しろ、などの脅迫ととれる文言が書きなぐるような字で書かれていた。墨は濃く筆跡はたかぶる感情で乱れに乱れ、ものによっては何が書いてあるのか判別できないものさえあった。

「それが家に投げ込まれるようになったのは、ここ二十日ばかりのことどす」

「投げ込んだものはみましたか」

「それがまったく。気がつけば土間に、くしゃくしゃに丸められた紙が落ちているのどして」

「心当たりもあれへんのかいな」

「それもまったくありまへんのどす」

「しかしそれやと、家からお店までの行き帰りの護衛だけちゅうのも心配やな」

「昼間働いている時は、ひとりきりになるのはまれですし、襲われるおそれはないかと思います。夜は父がおりますし。あ、母はもう亡くなっております。ですので、まず、行き帰りだけの護衛をお願いできればと思いまして」

「わかった、まかせとき。せっかく俺がおるんやさかい、引き受けたろ」

 喬吾はいつになく乗り気なようだ。相手が年頃の娘であるのが理由であろうが。

 ゆさは、その乗り気の喬吾の横顔を、冷ややかな視線でちょっと見た。

「けど、毎日朝晩五十町も往復するんもなんやな。お千代はんの長屋の近くに部屋借りたらあかんかな」

 ――ははあ、それも乗り気の理由か。

 とゆさは思った。喬吾は、たえずなかまの誰かと接しっきりの詰め所を出て、しばらくそとで気楽気ままに過ごしたい、という腹づもりのようだ。

「朝は家から店までお千代はんを送って、ここで勤務して、夕方は家に帰りがてら店に迎えにいけば、朝に早う起きる必要もあれへんし夜遅う帰ってくる必要もあれへん、っちゅうわけや。なかなかの妙案やろ」

「歩く距離は一往復ぶん減るし、長屋の家賃はひと月ぶんとしても四百文程度、まあいいでしょ。家はなんとかしましょ。けど出仕の途中で疲れても、駕籠なんか使ったらいかんでね。使うんなら自腹にしやあよ」

「経費で落ちんのかいな」

「落ちるわけあれせんがね」

「ケチくさ」

「家賃が出るだけありがたいと思やあ」


 部屋はひとつ離れた別の長屋にしか見つからなかったが、喬吾はすぐになじみの飯屋や飲み屋ができたし、近所のおかみさん連中とも仲良くなり、軽薄を絵に描いたような男ではあるが、周囲に溶け込む術はずば抜けたものを持っていた。

 千代の送り迎えも遺漏なくこなして、そのうえ、道々のおしゃべりで千代を楽しませ、あの地味だった千代がみるみるうちに、体の芯からにじみ出るような明るさをもった女性に変貌をとげていった。

 いっとき千代の父親里助りすけが、喬吾との男女の関係を疑ったくらいであったが、もちろんふたりの間には雇い主と護衛役という以外の関係はなかった。

 新選組の羽織が物を言っているのか、あやしい人影はまるであらわれなかったし、投げ文もまるで無くなったし、これはそうそうに仕事も切りあげかと思っていた。

 その日は、千代を料理屋に送り届けて、壬生の詰め所まで通勤の途中であった。

 喬吾は、直接詰め所にはむかわず、多少遠回りをしてわざと遅れて出仕するつもりであった。

 今日は陽射しが温かいせいか、朝から人出も多く、堀川通は北へ向かう者達も南へ行く者達も、心なしかはずむような足どりで歩んでいるように見える。

 そのなかに、ふと見慣れた背中を喬吾は見かけた気がした。

 通行人の間を縫うようにして目で追うと、やはり知っている男である。

 ――じんやんやないか。

 その男、甚平じんぺいは以前のまま、少しうつむきかげんであまり肩を動かさずに歩いていた。なんともわびしいような後ろ姿ではあったが、どこかへ向かう途中なのか、迷いのない足取りで道を踏んでいく。

 道行く人たちを押し分けるようにして喬吾は小走りに近づいた。

「甚やん」

 声をかけると、甚平ははっとしてふりむいた。その顔には、とまどいとも驚きともとれる色がにじんでいた。

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