三の巻 怨讐は海を渡りてきたること その五

 突き抜けるような、雲のひとつもない真っ青な空に、ヒワが数羽ぱたぱたと飛びたっていった。

「はよしやあ。男のくせに支度するのがなんでそんな遅いの。あんたら、急に本隊の応援要請がきたらどうするつもり。そんなとろとろやっとったら、陽が暮れてまうがね。はよしやあ」

「はよしやあ、言われても」

 結之介は不満顔で、ゆさの目の前で袴をつけていた。

「そうせかさんといてえな」喬吾もしぶしぶといったふうにだんだら羽織をはおって、「そう急がんでも、幽霊は逃げやせえへんて」

「そんなことわかれせんがね。さっと行って、ぱっとかたづけてまえばいい話だがね」

 ゆさ、なにがなんでも、明るいうちに幽霊騒動のカタをつけたいらしい。

 そこへ、

「たのむぅ、たすけてくれぇ」

 幽霊もかくとかや、という声色で、中年のおじさんがふらふらと庭から顔をだした。

「ゆさ坊、ちょうどよかった、話をきいてくれ」

「これは源おじさん、いかがしました」ゆさがちょっと迷惑そうに応じた。

 その横で、いっとう早く着替えをすませた一心が縁側まで出て来、律義に両膝をついて挨拶している。

 源おじさん、とゆさに呼ばれた中年男は、井上源三郎と言い、新選組六番隊の隊長を勤めている。剣の腕前よりも人柄のよいのがとりえの人で、隊士の皆からしたわれている三十代なかばのおじさんである。

 ゆさとは、何年か前に江戸で知り合ってからの、まるで本当のおじとめいのような仲の良さであった。

「話をきいてくれよ、ゆさ坊」と井上は縁側に腰をおろした。

「それは、ご依頼と受け取ってよろしいのでしょうか?」

「依頼?そんな大仰なことでもないんだが、まあ、依頼といえば依頼かな」

「申しわけないのですが、今は他の依頼でたてこんでいまして、明日にでも出直してきてくれませんか、源おじさん」

「いや、俺も忙しい身でなあ、ようやっと暇をみつけてこうしてきたんだ。たのむ、四半刻(三十分)でかたづく依頼だから、お願い」

「う~ん、しかたありませんね。ほかならぬ源おじさんの依頼とあればことわるわけにもいきませんし。四半刻だけですからね」

「じゃあ、さっそく」と井上はせきばらいをひとつして、「うちの隊に水島夜十郎みずしま やじゅうろうというのがおる。まだ十六の仮同志(見習い隊士)なんじゃが、こいつ、なにをどう見ても女なんだ」

「女?」

「うん、あきらかに女なんだ、どこをどう見たって女なんだ。本人は絶対にみとめないがな。にもかかわらず、隊のもんがたわむれに、そいつの胸や尻をさわると、腕の関節を抜かれるわ、捻挫させられるわ……。自称男なのにだよ、ちょっとさわっただけなのにだよ。しかも剣をとっては大の男たちにまったくひけはとらない。稽古で骨にヒビを入れられるなんてのはしょっちゅうでな。まあ、他のやつらもからかい半分で挑むのがいかんのじゃが」

「で、私たちにその人をどうしろと?」

「こっちで面倒をみてくれ。考えてごらんよ、男所帯のなかに女がひとり。手をだせば半殺しにされかねないのに、手を出したくなるほどの美しいエサが目の前にぶらさがっているんだ。隊の連中はたまったもんじゃあないよ」

 ふうむとうなって、ゆさは考え深そうに快晴の空をみやった。

「その人は今どこに?」

「ちょうど道場で朝稽古でもしとるんじゃないかな」

「わかりました」すっくとゆさは立あがり、「いちどその人を見てみましょう」

 そうして、ならんで話を聞いていた男たちにむかって、

「なにやっとるの、はよしやあ。とっとと道場にいくよ」

「でしたら、私はここで待っております」と昨夜ここに泊まった陰陽師の詠次郎がおずおずとした調子で言った。

「なに言っとるの。遠慮せんといっしょにやあ。あんたも、もううちらの仲間だでね」

 仲間という言葉の意味を、ただの友達、と詠次郎は受け取ったのだろう、かまわないのでしたら、と軽く応じた。だが、ゆさの言う仲間の意味が、ただの友達、でないことを、三人の男たちは知っている。加茂詠次郎の運命がもうすでにゆさの掌中ににぎられてしまっていることを、みな心で憐れんで、静かに瞑目した。


 屯所の道場を、庭からよろず課一行がのぞくと、いままさに、水島夜十郎という自称男が、筋骨隆々のヒゲもじゃ男と対峙しているところであった。何人かの隊士たちが、道場の端に居ならんで興味深々といった顔つきで、その対決のゆくえを観戦している。

 ヒゲ男は、構えを正眼から下段へ、下段から八双へとせわしなく変化させているのに、水島は正眼につけたままじっと動かぬ。ヒゲ男が胴間声で気合いを発しても、微動だにせぬ。

 水島夜十郎の背丈は、結之介と同じくらいであろうか。女だとするとちょっと背が高いほうだ。髪を後ろで結って、ふさをゆらして、とがった大きな目で相手を見すえるその姿は、役者も顔負けの美少年に見える。

 やがて、ヒゲ男がじれたように裂帛の気合いとともに、木刀を振り下ろした。水島はそれを軽く跳ね上げて、跳ね上げつつ一歩踏みこんでヒゲ男の小手を打った。

 ぬう、とヒゲ男はうなって、

「ちょこざいな小娘めっ」

「誰が小娘か。僕は男だ。負けた腹いせに人を女あつかいするとは、あきれるな。さあ、遠慮せずに、かかってきたらどうだ」

「手加減してやったというに、図に乗りおって!」

 ヒゲ男は上段に木刀を構える。

「まてまて、そこまでだ」

 すかさず井上源三郎が間に入った。

「とめんでください、隊長!」ヒゲ男はすっかり頭に血がのぼりきっている。

「まあまあ、稽古で怪我をしても、させても、つまらんだろう。おたがい頭を冷やせ」

 さとすように言われて、ヒゲ男も木刀をおろした。

「あれはなかなかのもんだな」顎をなでながら一心が感嘆した。

「っていうか、あれ、アレなんちゃうん」

「ええ、確実に、アレですねえ」

 喬吾と結之介はすでにあきれ顔である。

 井上にうながされて、おたがい礼をして、水島とヒゲ男は別れて道場の隅に向かう。

「水島、お前はちょっとこい」

 呼ばれて縁側に出てきた水島の目が、庭からこちらを観察しているゆさたちを認めた。

 たちまちその端正な顔がひきつって、

「ぼ、僕は、狛笛童子じゃないぞ!」

 聞いてもいないのに、みずから正体をあかすのであった。

 ゆさの口の端がにっとゆがんだ。

「ふふふ、ついに正体をつかんだわ。あなたが毎夜おかしな格好で京の町を走り回っていることを、隊じゅうに知らされたくなければ、私たちと来てもらいましょう」

 水島は、渋い顔をしてちょっと考えてから、ちいさくうなずいたのだった。

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