二の巻 秋に咲く桜に精霊の宿ること その六

 ゆさが走り去る後ろ姿を見送って、村瀬喬吾むらせ きょうごはまた桜の木に目をもどした。

 さきほど桔梗屋が太い幹になにかの札を貼ると、喬吾にもはっきりとわかるほどの奇妙な感覚がした。桜の精気がとたんに失われたような感じであった。

 男衆がひとり桜に近寄って、手に持った斧を振るい始めた。

 振るった刃が樹皮を割った。

「おお」

 十数人の男衆たちからどよめきがあがった。

「なにしとるんや、お前さんも反対側から斧で伐らんかい」

 もうひとりの斧を持った男衆に桔梗屋が命じると、言われたとおりにその男も斧を使いだした。

「いける、これはいけるで」

 桔梗屋はひごろの有徳人ぶった表皮をはがして捨てたみたいに、嬉々として叫んだ。太りじしの体をゆすり、脂ぎった顔に満面の笑みを浮かべて。

 ――アホか。

 喬吾はそっと鼻をならし、雇い主を内心でののしった。

 なにがそんなにうれしいのか。桜の木いっぽんになぜそこまで執着する必要があるのか。喬吾にとってみれば、桔梗屋などはただ金を持っているだけで中身は低俗な、くだらない生き物にしかみえない。または、欲にまみれた化け物と言おうか。

 しばらくすると、斧を振るっている男のひとりがあっと叫んだ。斧から片手をはなして、痛そうにふらふらと振った。急に木が硬くなったようすだった。同時に、

「やめてくれ!」

 道の向こうから、あの老人――清六が叫びながら走り寄ってきた。老人が病気だということは喬吾も耳にしていた。なんの病気かまでは知らないが、病は重篤なようで、もうみすぼらしいまでにガリガリに痩せた清六が、必死に走って近づいてくる。

 それでも男たちは斧を振るい続けた。木がふたたび硬くなったようではあっても、以前とは違って、少しずつ刃が喰い込んでいっている。

「やめてくれ、あんさんら、血も涙もないんかい!」

 かすれた声でわめくように言いながら、清六が斧をふるう男にすがりついた。すがりつかれた男は容赦なく清六を突き飛ばした。突き飛ばされた拍子に清六は道に転がり倒れた。

「もう堪忍せえへんで、老いぼれっ」目をむきツバを飛ばし、桔梗屋がののしった。「かまへん、もうこの死にぞこないどうなろうと知ったこっちゃない、足腰たたんようにしてやれやっ」

 へいと息を合わせて答え、男衆の全員が清六に走り寄って、取り囲んだ。たちまち、殴る蹴るの暴行が始まった。痩せ衰えた清六の体が、男たちの間で鞠のように転がっている。

「わしは……、わしは、ええんや。桜だけは、桜の木だけは伐らんといてや。たのむさかい」

 清六は気丈に、桔梗屋に、男たちに訴えかけた。

「アホや」

 今度は声に出して、喬吾はののしった。

「ほんま、アホや」

 桔梗屋もアホなら、清六もアホだ。こんな桜などは放っておいて、残った余生を静かに暮らしたほうがよっぽど得でかしこい生き方だろうに。

 殴られ、蹴られる清六の姿をじっと見つめる喬吾の心に、ふと、ゆさの顔が横ぎった。

 ――か弱い老人をいじめるクソだあけ。

 尾張なまり丸出しで、喬吾を冷淡にののしったゆさの顔が、まばたきをするたびに、ちらちらとまぶたの裏にうつる気がするのだ。

「ああ、たわけだ。俺はクソだわけだ」

 喬吾は、自分を痛めつけるようにつぶやいた。指の爪が手のひらに喰い込むほど強く握りしめ、裂けるほど唇を噛みしめた。

 そして、喬吾は男たちをかき分けて、清六の前にたった。

 いきりたつ男たちは、打擲ちょうちゃくする手足をとめて、喬吾をにらんだ。みんな、今にも食ってかかってきそうな目つきだった。

「お前ら、それでも人の子かっ!」あらんかぎりの声で喬吾は叫んだ。「この爺さん、もう死にかけとるやないかい、堪忍したれやっ」

「なんや、サンピン」なかのまとめ役の男が凄味をきかせる。「この生意気なドアホもついでにシメたれや」

 男衆の半分が喬吾に向かってき、もう半分が清六を痛め始めた。

 喬吾は何人かを殴り飛ばしたが、抵抗できたのはそれだけだった。たちまち男たちの拳とつま先の波に飲み込まれてしまった。鈍く、体の芯まで響くような痛みが全身に走った。

 喬吾はもう、自分の身を守るのはあきらめ、ただ清六を抱くようにしてかばった。清六はすでに意識をまったく失っている。

 背中に脇腹に、喬吾は暴力をうけつづけた。人を痛めつけてもまったく心を痛めることのない人間の力の振るいかたであった。

 いつか清六から引きはがされ、喬吾は男たちにさらに殴られた。口が切れ、体のどこかが裂け、吐いた血か肌から流れる血かわからないが、地面も着物もいつか真っ赤に染まっていた。

 やがて、意識が遠のき始めるのがわかった。

 眩しいほどの午後の陽射しに、陰になった男たちの姿だけが、ぼやけていく視界にうつった。

 ひょっとしたらこのまま冥土に旅立ってしまうのではないか、とさえ思えてきた。

 喬吾を押しつぶすように覆いかぶさってくる男たちの影が、突如、どっと割れた。男たちはなにか怒号を発しているが、何を言っているのだろう。

 ただ、静かで、しかし力強い男の声が、そのあとに喬吾に語りかけてきた。

「よくやった。軽薄男」

 ゆさのそばにいた、新選組の男だった。

「これからは、私たちが引き受けます」

 棒を持った少年が、頼もしげに言う。

「遅えよ」

 喬吾は朦朧もうろうとしながら、小さく悪態をついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る