二の巻 秋に咲く桜に精霊の宿ること その五

 京の市街地に立ってるとは思えないほど、桔梗屋の裏庭は広く、池があって苔むした石がしつらえてあって、塀に沿って松や梅や椿などが配されている。

 その庭が見渡せる客間に、侍がこの店の主を前に悠然と座っていて、部屋の隅には侍の供のような若者がひとり、端然としてひかえていた。

 侍は、二十代後半と見え、総髪を後ろで結びんで長くたらしたふさを部屋に吹き込む秋風に揺らし、白い羽二重を着流しにして、キザな、まるで役者のような居住まいであった。

 すらっとした侍とは反対に、かたわらの少年は小柄で丸い顔の赤い頬をして、きつい性格があらわれたようなとがった目を持っていた。蒼白のつややかな御召おめしを着て仙台平せんだいひらの袴をはいて、見ようによってはちょっとした大身の御曹司のようだ。

「桔梗屋、あの桜はまだ始末できんようだな」

 侍は、その着物のような白い顔の、整然と並んだ柳のような目を柔和に微笑ませ、優しくしかし鋭い刃物をつつんだような言い方で言った。

「那須様、こ、これは、なんとも手厳しいことをおっしゃる」桔梗屋はひきつった笑みを浮かべて、冷や汗を流し、「これがなんとも一筋縄ではまいりませんで。それに新選組も首をつっこんでまいりまして」

御前ごぜんはずいぶんれておわす。あの桜があのままあそこに立ち続けるかぎり、御前のご胸中に平穏はおとずれぬであろう」

 御前、と聞いて桔梗屋は緊張でこわばった肩をぴくりと震わせた。

「もう時間はないと思え」

「はは」頭をさげた桔梗屋の額から流れる汗が、畳に一滴二滴とこぼれ落ちた。

 そうして那須という侍は少年に目配せをすると、少年は懐から袱紗をとりだして、床に広げた。

 袱紗には大小の何枚かの呪符が包まれていた。

「この大きい呪符は桜の幹に貼ってください」

 少年が慇懃に言った。慇懃ではあったが、自分よりずっと歳うえの桔梗屋を見くだすような言い方だった。

「残りの小さな札は、お使いの男衆に。中くらいのは一番屈強な男に。心臓のうえに貼っるようにしてください。それでこの一件はうまくかたがつくでしょう」

「は、はあ」

「案ずるな、桔梗屋」

 整った顔の薄い唇の端を、那須という侍はわずかにあげた。

「御前はけっしてお前を見捨てることはせぬ。ただ、ご気分を害さぬようにだけは気をつけろよ」

「はは、御前様のご期待を裏切らぬよう、粉骨砕身あいつとめまする」

「うん、はげめ」

 ふたりが去ると、ひとり部屋に残された桔梗屋は札をじっと見つめ、歯を噛みしめ、体を震わせた。

「若造どもめ、下手したてにでておれば図に乗りおって」

 そして目をなにかを睨むように虚空に向けた。

「今にみておれ。ことが成就した暁には、御前様に取り入って、やつらの鼻をあかしてくれる」


 清六の住まいは、小さいが戸建てで、桜の辻から東へ半町ほど入ったところにあって、南の通りに面した窓からは桜の木の様子もうかがうことができた。

 ゆさは、奥の部屋の布団のなかの清六の、頭におかれた手ぬぐいをとって、桶の水につけてしぼると、また彼の頭の上においた。清六は気持ちよさそうに吐息をついた。

「もう、無理はしないでください」

「いや、恥ずかしい。ちょっと外で立ってただけなのにこのざまや」

 ゆさが清六のもとに通うようになって、もう五日ほども過ぎていた。その間、清六の話相手になってやったり、部屋の片づけをしたり食事をこしらえてあげたりして、なにくれと世話を焼いてきたが、なにか彼から不審な様子がみられるかというと、そんなものはまったくなにも見つけることはできなかった。

 昨日、桔梗屋の男衆が何人か来て、桜を蹴ったり殴ったりしていたのを、清六は通りから監視するようにじっと見ていた。そうとう腹に据えかねていただろうが、食ってかかるようなことはせず、ただ黙って威圧するように立っていた。一刻(二時間)ばかりのことであったが、季節の変わり目ということもあったであろう、今朝になって熱がでてきたのだった。

「わしゃあ、娘を小さいうちになくして、女房も十年前に先立っていってしまった。こうしてゆさちゃんに世話をしてもらっていると、なんだか娘が生き返ったようでな。死ぬまぎわになって、いい冥土の土産話ができたよ」

「馬鹿言わないでください。もう一度、桜が咲くのをみるまで死ねないと言っていたじゃあないですか」

「それもなんだかはかない夢に思えてきた」

 ゆさは返す言葉が出てこなかった。

 清六はもう重湯くらいしか口にすることができず、胃の腫瘍が悪くなるよりも、栄養が足りなくなって衰弱しているようにさえ思えてくる。

 いつの間にか清六が小さないびきをかき始めたのを潮に、ゆさは立って裏の井戸で水を汲みなおし、もどってくると、ふと表から騒々しい気配が入り込んでくるような気がした。

 表に出て桜のほうを見やると、斧やのこぎりを手にしたヤクザ者たちが集まっていて、桔梗屋が桜に札のようなものを貼りつけているのが目に入った。

 ――これはいけない。

 ゆさは直感した。ほうっておいたら、とんでもない結果になりそうだ。

 さいわい清六はうたたねをしている。このまま彼が目を覚まさないうちに、どうかしてことを片付けたい。

 入り口の戸を静かに閉めて、ゆさは桜のもとに向かった。

 辺りを見回したが、桔梗屋を見張っているはずの結之介と一心が見当たらない。きょろきょろしていると、ヤクザ者たちのなかにいた村瀬という浪人と目があったが、気にもとめずにゆさは壬生のよろず課詰め所を目指して走った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る