二の巻 秋に咲く桜に精霊の宿ること

二の巻 秋に咲く桜に精霊の宿ること その一

 柘植一心つげ いっしんという男はもとは江戸北町奉行所の与力であったのが奉行とケンカしたあげくに辞表を叩きつけて京に出てきたというくらいで、一心というその名があらわすとおり一途すぎるほどに一途な若者であった。

 ゆえに、融通というものがまるで利かない。

 新選組の十番隊に属していたのだが、あまりの生真面目さに周囲とのそりがまるであわず、浮いたような存在でいたのを、宇津美うつみゆさ・・が目にとめてスカウトした。いや、正しくは彼女が親戚である土方歳三に手をまわして、強引にこちらにひっぱってきた。

 軽薄な隊の雰囲気が気に入らず鬱憤がたまっていたのか、この詰め所に移って来てから一心の顔はどことなく明るくなったようだ。家の掃除ばかりで仕事らしい仕事もないのに渋い顔をひとつしないし、いがいと杉原結之介すぎはら ゆいのすけとも馬が合った。少なくとも、雑談を楽しめるくらいの関係にすぐになれた。

 今日も、まだ掃除の終わらない新選組特殊任務部よろず課の詰め所たる、古びた隠居所の清掃にいそしんでいるうちに、なにかの話が流れていって、儒教は正しいのか、なぜ庶民に浸透しないのか、などという、普通の人間が耳にしたところで退屈であくびがでそうな問答を重ねていた。

「そうだな、俺は孔子の論語というのもすべて正しいとは思わんが、知識として持っていれば行動の指針になるだろう」

 そう言い出した一心に、結之介は、

「柘植さんは四書五経をずいぶん勉強なされたのでしょうね。私なんぞは途中で脱落した具合でして、孔子と孟子の区別もつきやしません」

 と、戸のさんにたまった埃を雑巾でこすりとりながら答えた。

「まあ、端的にいえば、孔子は上に立つ者の思想だな。孟子はもっと庶民よりだ」

 一心は大きな体をまるめるようにして、床を磨いている。彼の背丈は大きく、立ち上がると、中肉中背の結之介よりも頭ひとつ分くらい高い。

「庶民よりのわりに、孟子が庶民に浸透しないのはおかしい気がしますね」

「町の風紀が乱れるのは、庶民が四書五経を学ばないからだ。子曰く、と教える手習い塾(寺子屋)もあるが、町人の子供たちは右から左でたちまち忘れてしまう。もっと本格的に浸透させるべく勉学を奨励しなくてはならない。そんな話をなにかの折に奉行所でもしたことがあるが、みな鼻で笑って相手にせんのだ」

「町人のくらしには儒教は必要ないんでしょう」

「あったほうが、人間にしっかりとした骨子が入るだろう」

「軟弱でいいんですよ、きっと。その方が世渡りをしやすいんです」

「なんかなっとくできんな」

「世の中の仕組みというのは、我々が思っているよりも、ずっとくだけているんです。論語では君子を是として小人を非としますが、人間は本来小人なのかもしれません」

「ずいぶんわけしりなんだな」

「そういうわけでは……。まあ、郷里の寺の和尚さんの受け売りですよ」

 ところへ、

「論語でしょうと孟子でしょうと、そらんじていても性根の悪い人はいくらでもいるわ」

 そんなことを言いながら、ひょいっとゆさが話に首を突っ込んできた。ふたりは庭に背を向けていたのでいつから彼女がそこにいたのかまったく気がつかなかったが、どこかから帰って来たところらしく、沓脱のうえに立ってこちらをみている。

「ようは、いくら学問ができても思いやりのない人は三流ということですわね」

「突然あらわれて、勝手に話をまとめないでくれるかな」

 結之介があきれて言うのへ、

「そんなことより、仕事がみつかりそうだわ。ふたりとも、すぐに行きましょう」

「仕事、それはありがたい」一心がほっとした様子で、「こっちに配属変えになって、もう五日たつのに、部屋の掃除と近所のゴミ拾いばかりでは、心も体もなまってしまう」

「よろず課は、依頼があってのよろず課ですもの。でもいくら待っても依頼が舞いこまないんですから、もういっそのことこっちから出向いて仕事を拾いにいくことにするわ」ゆさ、意気軒高である。

 ゆさに追い立てられるようにして支度をして、ゆさ、結之介、一心の三人は詰め所を出て千本通を北へと向かった。

 二条城を過ぎ、京都所司代屋敷を過ぎ、諸藩の藩邸(御用屋敷)が密集する地域の、その手前を西に折れてしばらくいくと、田畑と町家の混在する景色に変わっていった。

「新選組の羽織を着てくる必要があるのかな」結之介が羽織についた埃をはらいながら聞いた。

「良いことをするのは人の前で。これも孔子さまの教えだったわね。あら違ったかしら。まあともかく、良いことをするんだから目立たないと意味がないわ」

「しかし、ずいぶん遠くまでくるのだな」

 たまりかねたように一心がゆさにたずねた。気づけば、もう三十町(三キロ)ほども歩いてきている。

「北町奉行所の与力をされていたんでしょう。江戸の町を歩き回って、これくらい歩くのなんて慣れっこなんじゃないんですか」

「与力というのは、そんなに町の見回りなぞはしない役目だよ。町廻り同心というのがそれをしていて、俺は吟味役をしていただけだ」

「二十二で与力とは、ずいぶんはやいご出世ですね」と一心に聞いたのは結之介で。

「なに、俺の才能が豊かで抜擢されたというわけではないさ。同職だった父が捕り物のなかで負傷してね。その傷がもとで体が不自由になってしまったんで、跡をついだわけだ。ほんらいなら、まだ見習い身分なものだから、同心たちもほとんど俺を小馬鹿にしていうことをきいてくれなかったな」

「ごくろうされたんですね。おさっしします」

 ゆさがたちどまって辺りをきょろきょろとしはじめた。

「さて、そろそろのはずだけど」

 ふと、結之介は息苦しさをおぼえた。

「なんだろう、息がつまるというのか、胸が押さえつけられるようだ」

「杉原もか。俺もさっきから妙な感覚がきざしていたんだ」

 ふりかえったゆさが、なぜか満足げに笑みを浮かべてふたりをみて、つぶやいた。

「私の目に狂いはなかったということね」

 ふたりが聞きとがめるように、ゆさをみたが、ゆさはまるで気にもとめずに、

「あ、みつけた、あれがきっとそうだわ」

 ちょっと北へ歩いて町家の陰から出ると、半町(五十メートル)ほど北西の畑の片隅に、桜の古木があるのが目に入った。

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