一の巻 少年が少女と出会って胸ときめかせること その三

「誰です?」たまりかねたというふうに斎藤が聞いた。

「以前何かの座興に話したことがあっただろう。尾張の犬山に嫁いだまたいとこ・・・・・の話」

「ああ、たしか尾張の神社に縁があって嫁いだはいいが、夫婦喧嘩をするたびに、はるばる尾張から武州日野までかえってくるという、剛毅なまたいとこ」

「その剛毅な女の娘だ」

 その剛毅な女の娘は遠慮もなく、沓脱石くつぬぎいしに下駄を脱いで上がってきた。

「誰が上がっていいと言った」

 土方の刺すような言葉にひるみもせず、敷居をまたいで座って斎藤に向けて、

「宇津美ゆさ、と申します」

 そういって指をついて頭をさげている。

「これはこれは。三番隊の隊長で斎藤一と言います」

「おや、よく見れば昨日の」

「昨日?」

「ちょうどよかったわ。いま門番をされているかた、あなたの部下なのでしょう」

「門番?」

「見た目はこれといって特徴もない、しごく凡庸な姿形で、寝てるんだか起きているんだかわからない顔をした、いつも棒を小脇にかいこんでいる」

「ああ、杉原のことかな」

「そうその杉原さん、ここに呼んでいただけないかしら」

「杉原を?なんで?」

 とまどう斎藤と平然とした顔のゆさの間に割って入ったのは土方だった。

「誰だそいつは」

「棒術の腕前はそこそこですが、グズで諸事気が利かないものだから、隊務ではたいして役に立たない男です」土方の問いに斎藤が答えて、ゆさにむかって「それをなんで?」

「それはここに彼が来てからお教えします。ともかくお連れになってください」


 斎藤に連れられて結之介が副長部屋の前までくると、八木氏が縁側に腰かけて茶をすすって、中から聞こえる会話に、楽し気に聞き耳を立てていた。

「この前会ったのは二年前だったか」と土方が聞くのへ、

「はい、十三のときでした」明朗な娘の声が答える。

「その前は」

「十で、その前が八つで、その前が五つで」

「最初に会ったのがまだ乳を飲んでいたころだったな。娘を連れて何度も何度も江戸と尾張を行ったり来たり。無茶苦茶な女だな、お前の母親は」

「どうです」

「なにが」

「ずいぶん女らしくなったでしょう、わたし?」

「け、まだけつの青いのもとれてねえだろう」

「ま、失礼な」

 そんな気をどこにも置いてないような会話が廊下まで聞こえてきていた。

「つれてきましたよ」

 そう言って斎藤が部屋へ入っていく。結之介は縁側に膝をついて、

「杉原です。お呼びによりまかりこしました」

「うん」と土方はうなずいて、「そうかしこまらんでいい。この娘がお前を呼べというんでな」

「はあ」

 きょとんとして結之介はゆさをみた。

「宇津美ゆさです」にっとゆさはほほ笑んだ。

「杉原結之介です」

 自己紹介が終わって、話の接ぎ穂が見つからず結之介が困惑していると、

「それで」と土方が、「この男を呼んでなにをするというんだ」

「それは、ご覧いただいたほうが手っ取り早いでしょう」

 一同、意味がわからずゆさを見つめた。

「昨日の大暴れした隊士さんはどちらに?」

「縄で縛って土蔵のなかだが」斎藤が答えた。

「では、そこに連れて行ってください」

「ばか」とたしなめるように言ったのは土方で、「これは新選組の隊内の問題だ。部外者にかかわらせられるものか」

「あら、副長の親戚ですよ。部外者ではありませんわ」

「部外者だ」

「いいんですか」

「なにが」

「母から聞いてますよ。あの話をここで言いますよ」

「何の話だ」

「いいんですね、言いますよ。最初に母が武蔵の日野に帰った、その夜」

「くっ」と話をさえぎって土方、「わかった」

 あまりにあっさり折れた。隊規を曲げるほどの土方の秘密とはいったい……。

「見せるだけなら問題はないだろう。いいな、行って、見るだけだぞ」

 そうして土蔵に皆で向かった。なぜか八木源之丞氏もついてきているのだが、土方も斎藤も黙認している。

 土蔵の観音開きの扉がぎしぎし言いながら開けられ、入り込んだ光が刺激でもしたのか、野生の猿のような叫び声が奥からあがった。

 森田という隊士は腕は縄でしばられて柱に一本の紐でつながれていたが、足はしばられていず、きゃんきゃんと耳障りな叫び声をあげながら、みなのほうに走ってくる。つないだ紐の限界までくると足をとめ、それでも綱が切れんばかりにひっぱりながら向かって来ようとする。歯をむき出しに噛みしめて、噛みしめすぎて歯茎から血が出ているようだった。

 暗い土蔵に差した明かりのなかに、細かい埃がキラキラと光りながら舞い落ちている。

「まるで、猿か狐の化け物にとりつかれたみてえだな」伝法な調子で土方は言った。「危ねえから近づくなよ」

 だが、ゆさは土方の忠告などまるで耳に入らぬようすで、森田にちょっと近づいて、

「では、結之介さん、こちらに来てください。そうそう、もうちょっと端のほうへ、森田さんに噛まれないくらいに近づいて立っていてください、そう、その辺で。ほかのみなさんは、入り口の辺りでご観覧ください」

 そうして、ゆさは目をつぶり、胸の前で二回柏手を打った。

 森田の獣じみたうなり声以外は、みな息をひそめて静まりかえって、冷たく寂寞とした蔵のなかは、なにか外の世界とは断絶された異空間のようであった。

「かけまくもかしこき、伊邪那岐いざなき大神おおかみ、筑紫の日向の橘の、小門おど阿波岐原あわぎはらに、みそぎはらえたまいし時になりませる、はらえどの大神たちに、もろもろの禍事、罪けがれあらんおば、はらえたまい清めたまいともうすことを聞こしめせと、かしこみかしこみもうす」

 悠々とした声でゆさが祝詞をあげはじめた。

 そしてちょっと間をあけてから、ゆさは静かな調子で歌い始めた。いや実際は祝詞を読みあげているのだろうが、まるで春の草原を吹き渡る風がしらべをかなでるように言葉を発するのだ。

「熱田の宮の末にある、宇津美の名をもってかしこみてこいねがう。中つ国に降りたるスサノオノミコトの力をもって、荒魂あらみたまかれし人をはらいたまい清めたいまい、安らかなる魂をこの身にもどしたまえ。かしこみかしこみもうす」

 そして柏手をひとつ、えいと打つと、森田の身体からまばゆい光が発せられ、ばっとはじけた。はじけた光はすぐに収束し、火の玉のような形をなした。

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