第44話 成瀬の憂鬱2



「ごめんね、お待たせ」


 そう声を掛けたとき、俯いていた彼女が顔を上げた。ぱっと揺れた髪と、少し赤く染められていた頬をみて、なんとも言えない気持ちになった。


 私服姿はあまり見る機会がない。メイクも、普段と違う気がする。ああ、こんな自分と出かけるために着飾ってくれたのか、と思ったら、息が止まるかと思った。


 いや落ち着け自分。別に俺のためにおしゃれしてきたわけじゃないだろ。


 突っ込みながら、とにかく可愛いと心の中で呟いた。めちゃくちゃ可愛かった、なぜもっと早く外出に誘わなかったんだろう? 普段も可愛いけど私服はまた違った可愛さがある。隣を歩く姿をじっと見てしまい、見すぎだろうかと反省する。


 今日は家具を買って、そのまま解散なんて絶対阻止したい。買い物に繰り出そうと思っている。実際まともな服をもう少し増やしたい。それに、近くに美味しい店を調べ倒したので食事もする。一分一秒でも長く外にいたい。そう計画を立てていた。


 あんなに外に出るのが嫌いな自分が、外にいたい? 笑ってしまう。過去の俺に見せても信じないだろうな。


 二人で話しながら歩く。家具屋に入り、テーブルを購入。お互いの部屋に合うものを選び合う、という不思議な構図に発展したのもなんだか嬉しい。しかし思えば、さすがに佐伯さんの部屋がどんなものかは知らないので、後で写真でも見せてもらうことにする。どんな部屋なのかな、と想像して楽しんでる自分、中学生男子か。


 初めて外食をする。美味しそうに食べる相手は可愛すぎて暴力。


 買い物をする。服を選ぶ相手は可愛すぎて死ぬ。あれ、俺やばい人かな?


 困ったことに、朝確信していた気持ちはこの一日でなお間違いのないものになった。何をしていても楽しくて可愛くて、こんなふうになるのは生まれて初めてだと思った。もしかして今までの相手は、あんまり好きじゃなかったのか。


 気持ちを確信したならやることは一つだ。口説きにかからねばならない。


 そこまで考えて自分を止めた。飯すらまともに食えない男から言い寄られて、頷いてくれる相手がこの世にいるだろうか? まだだめだ、せめて人間ですと胸を張って言えるぐらいの生活を送れなければ、告白する資格もないだろう。


 絶対に逃がしてはならない。


 まずは家事代行をやめ、自分で掃除をするところから始めてみるか。ゴミはちゃんと毎週だそう。自炊はさすがに厳しいけど、買ってきた弁当とかを食べるようになるだけでも、きっと相手から見れば違うはず。


 自分が変わってみないと動けない、そう思っていると、佐伯さんからとんでもない提案があった。


「夕飯食べていきませんか!?」



 さあもう帰りか。これ以上は引き止められない、仕方がない。帰ってゴミをまとめようか、なんて考えていたところに、この発言である。


 彼女のアパートまで送り、もう解散して帰宅するだけのはずだった。なのにそんな爆弾が落とされ、俺は固まってしまった。


「だって、私の部屋のテーブルを選ぶ約束です」


 言われて、ああ、と納得した声を出したが、心の中で大騒ぎが起きていた。祭りだ、でかい祭りが開催されている。


 いや自覚しちゃった俺部屋に呼んじゃう? 耐えられる? 耐えられるの? だってこの様子じゃ絶対そういう意味で呼んでないでしょ、むしろ全然意識してませんよ近所の子供にご飯食べさせるぐらいの気持ちで呼んじゃってますよー男として見てませんよー危機感もゼロですよー


 ほんとにさ!!


 眩暈が起きそうなのを必死に堪えて、断る理由もないので平然と上がって見せる。信頼してもらっているのに、羽目を外したらそこで終わりだ、絶対に俺は裏切ってはならないのだ。


 初めて入った佐伯さんの部屋は想像通りだった。あまり飾りすぎず、ほどよく生活感がある。緊張するとともに、心地よさがものすごくて、自然と寛いでしまう。緊張を紛らわせるためにお笑いのテレビなんかつけて眺めていると、初めて来たとは思えない感覚に包まれた。んで、横を見れば料理してる佐伯さんの後ろ姿。天国かな?


 油断してテレビのお笑いに夢中になる。けれどもその後、ふとしたことで佐伯さんの顔がぱっと近づいたとき、恥ずかしそうに顔を赤くさせた彼女を見た途端、どうにもこうにも抑えきれない欲が生まれてしまい、あと一歩で手を出しそうになる。


 落ち着け、落ち着け自分。まだ早い、まだ早い。ちゃんとした人間になってから言えってば。


 必死に言い聞かせて何とか堪えた。拍手を送りたかった。多分、男ならこの賞賛を分かってくれるはず。


 結局彼女と本日二度目の食事をし、大好物のカレーをたらふく食べ、もうこれ以上ここにいたら本当にまずい、と危機感を持ったところで帰宅した。


 男としては見られていない、でも多分、脈はゼロじゃないと感じた。


 近づいたときに嫌そうな顔はされなかった。恥ずかしそうに真っ赤になり、戸惑っている様子は、俺が男だと思い出したからかもしれない。嫌われてはない、きっと。時間はかかるかもしれないが、意識してもらうことから始めなければならない。


 そのためには……


「って、しまった、カレー貰い損ねた」


 二人で部屋にいることがあまりに緊張するので、そそくさと部屋を出てきたのがいけなかった。残ったカレーを頂こうと話していたのに、すっかり忘れていたのだ。


 自分は再度あのアパートに戻った。玄関先で渡してもらえれば、そう理性との戦いも必要ないだろう。そう安易に思い帰ったところで、信じられないものを目にしてしまった。


 嘘だろ?


 昼間、絶対に戻りません、と言い切っていた元カレと、玄関先でキスを交わしている場面だった。目の前が真っ暗になった気がした。


 相手の顔をひっぱたいてくれたりしたらほっとしただろうに、彼女は何もしなかった。会話を何か短く交わした二人は、そのまま別れていく。慌てて隅により、男に見られないようにするのに必死だった。


 心臓が止まるんじゃないかと思うほど痛い。なぜ? だって、もう戻らないって…


(あんなのやっぱり口だけで、心では未練があったのか……)


 浮気なんてする男、絶対に幸せに出来ないと思うのに、彼女がそれを選んだのなら俺に口出し出来るはずがなかった。


 脈がないわけじゃない、なんて思っていた自分が滑稽で笑ってしまいたかった。




 

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