第42話 帰る家



 すっかり暗くなった頃、成瀬さんと共に帰宅した。


 今日一日はとても濃い日だった。朝一で大和との話し合いがあり、その後すぐ高橋さんとのゴタゴタ。私は金曜休んだ分も仕事が溜まっていて忙しかったのに、昼にもなるとほかの女性社員たちに囲まれて質問の嵐だった。みんなあの成瀬さんとなぜ付き合えたのか鼻息荒くして聞いてきた。


 彼がとんでもなく生活力がない人間、というのは言えるわけもなく、笑って話を濁すしかなかった。とりあえずあまり料理はしないので、ご飯の差し入れをするようになった、とだけ言っておいた。みんな羨望の眼差しで見てきて、ああやっぱり成瀬さんってすごい人なんだな、って再確認。


 残業もして夜二十時を過ぎたころ、成瀬さんに声を掛けられて一緒に帰宅した。背中に突き刺さる視線が痛くてたまらなかった、背中に内出血出来てるかもしれない。


 電車に乗り最寄り駅に降りると、自然と成瀬さんのマンションに向かっていた。それがなんだかずうずうしい気がして恥ずかしく、私はそわそわしながら成瀬さんの隣りを歩いていた。


 寒さがぐっと強まり白い息が上がる。住宅街にポツンポツンとある街灯は、ほんのり照らすくらいで心もとない灯りだった。人気のない静かな道を二人分の足音が響く。


「うーさぶ! 夜はこたえるなー」


 成瀬さんは肩をすくめて言った。そして思い出したように言う。


「あ、やばい、飯どうしよう? 帰りに何か買って行こうか」


「は、はい」


「はは、佐伯さんが一緒だとちゃんと飯食うからいいねー」


 やっぱり当然のように私も一緒にあの部屋に帰ることになっている。でも果たして、いつまでお邪魔してればいいんだろう。大和のことも一応片付いたしなあ。


 そんなことをぼんやり考えていると、成瀬さんがこちらを覗き込んだ。


「どうした、ぼーっとして」


「あ、いいえ! 今日は色々あって、疲れたなって。まあ私より成瀬さんですが」


「そうだねー疲れたねー」


「本当にありがとうございました」


「いいってそんな何度も。ぶっちゃけ高橋さんは上司の報告まで考えてなかったんだけどね。裏でそそのかしてるのがあの子って分かった途端我慢できなくなった。まあでも、仕事中の態度はどのみち問題あったから、いずれはああなってただろうね」


「女子社員たちの中の成瀬さんの株が爆上がりです……」


「いや、俺もそこまでは気づいてなかったし。やっぱり女性はよく見てるよね」


 確かに、男性社員はみんなメロメロって感じだったもんなあ。今回こんなことになって、高橋さんをちやほやしてた人たちは気まずそうにしていた。


 あっと思い出したように、成瀬さんが言った。


「佐伯さんの元カレ、多分すぐいなくなるとは思うけど、まだまだ油断禁物な」


「あ、そうですね……」


「佐川部長は理解あるし決断力もあるからよかったよ」


「成瀬さんのプレゼンのおかげでもありますよ!」


「はは、プレゼン! あ、そういえば佐伯さんのアパートも引き払って荷物持ってこなきゃねー俺も手伝うから」


「ええ、そうです……え!?」


 驚きで足を止めてしまった。数歩先に進んでいた成瀬さんがこちらを振り返る。きょとん、として私を見ていた。


「え、どうしたの?」


「い、いえ、引っ越しはもういいか、と思っていて」


「引っ越し、っていうか、俺の家に来るでしょ?」


「え?」


「え?」


 お互いぽかんとしたまま時間が流れる。


 ちょっと待って、アパートを引き払って成瀬さんのおうちに? 今は身を隠すということもあって泊まらせてもらってるけど、いずれはまたあのアパートに帰るつもりだったのだが。


 成瀬さんは不思議そうにしていた。


「だって言ったじゃん、まだまだ油断しちゃだめだよ。あいつ逆恨みしてまた来るとも限らない」


「あ、それもそうですね……」


「だから俺の家に来ればいいじゃん。あ、狭いかな? それならまた二人で引っ越し先探そう。佐伯さんしばらく一人で外出禁止ね。出勤も退勤も俺と一緒に。友達と遊びに行くときとかも送り迎えするから」


「え、ちょ、ちょっと待ってください追いつかない!」


「うそ、佐伯さんもそのつもりだと思ってたよ」


 それってつまり、もう同棲なのでは!?


 頭の中がぐるぐると混乱する。だって、成瀬さんとは気持ちが通じ合ったばかりで、お付き合いしてる期間だってまだたった三日じゃないか。いや、確かに彼が言うように危険から逃げるには当然の対応とも言えるけど、さすがに成瀬さんの負担が大きすぎる。


 私は首を振った。


「今のアパートさえ引っ越しちゃえば、大和も訪ねてこれないですよ」


「ダメダメ。何かあったどーすんの」


「でも」


「俺と一緒に暮らすの、いや?」


 私の顔を覗き込むようにして、悲し気に聞かれた。どきっと胸が鳴る。そう言われれば、私は否定することしかできないではないか。


「いやじゃないです!」


「大丈夫、言ったと思うけど俺それなりに家事も頑張るつもりだから! 完璧は無理かもだけど、佐伯さんに頼りきりじゃないよ」


「そんなことを心配してるわけじゃないんです」


「じゃあ、何?」


「……単に、心の準備っていうか。成瀬さんは私をよくしっかり者、みたいなこと言ってくれるけど、私だってずぼらで適当なとこあるんですよ。まだそんな私を見せる勇気が出ないんです」


 俯きながら小さな声で言った。


 なぜか成瀬さんも私を好いてくれて今付き合えてるわけだけど、そもそも私たちは釣り合ってない。散々大和や高橋さんも言ってたけど、正直納得してる自分もいる。


 外に出た成瀬さんはかっこよくて、仕事も出来て人望もある。私はよくいる一社員だ。


 俯いた私の手を、成瀬さんが突然握った。ひんやりした冷たい手だった。顔を上げると、彼はにこっと笑い、その手を引いて歩き出す。


「悲しいな。俺は初めから結構佐伯さんにはさらけ出してるのに、佐伯さんだけ見せてくれないのは」


「そ、そりゃ私は」


「こんな俺が、佐伯さんの何を見て幻滅するっていうの? 飯もちゃんと食えない、掃除も人に任せてゴミ出しも出来ない、毛玉ついた服着てテーブルも持ってない。めんどいときは風呂もさぼる。はい、佐伯さんこれよりすごいエピソードある?」


「………………」


 ないわ。


 考えたけど出てこなかった。私もずぼらだけど、例えば食べた食器は次の日まで洗わないとか、日曜日はパジャマのまま過ごしちゃうとか、休日のお昼はお酒とカップラーメン食べてるとかそんなのだもんね。可愛いエピソードに思えてきてしまった。


 私の顔を見て成瀬さんが笑う。


「ね? 言っておくけど、佐伯さんが俺を好きになってくれたことの方が奇跡なわけ」


「そ、そんなことないですよ」


「俺からしたらそうなの。

 佐伯さんもそのままを出してほしい、俺絶対幻滅しないから。てゆうか正直に言うけど、佐伯さんを守りたいのもあるけどもっとずーっと一緒にいたいわけ」


 白い歯を出して恥ずかしそうに笑う成瀬さん。そんな笑顔、反則だ、と思った。胸がきゅううって痛くなる。


 こんなの、頷くしかないじゃないか。


 いつだってこうだ。私は成瀬さんに弱い。振り回されて、結局なんでも許してしまう。こんなに弱くて大丈夫なのかな。


「分かりました……よろしくお願いします」


「やった!」


 成瀬さんがわっと喜んだ。つないだ手は随分温かくなっていた。


 彼は子供みたいに嬉しそうにしながらその手を握りなおす。私は丸め込まれてばかりは駄目だ、と思い慌てて厳しい声を出した。


「で、でもちゃんとルール決めましょう!」


「勿論! 俺掃除とかちゃんと頑張るよ」


「出来るんですか……?」


「佐伯さんがいてくれたら頑張れると思う。あ、一緒に暮らすなら佐伯さんの親に挨拶とかしなきゃねー」


「!? もうですか!?」


「今度予定あわせよう。

 あ、それとさ」


 低い声で成瀬さんが言いだしたので身構えた。一体何が飛び出してくるやら。


 少し眉をひそめた彼は真剣なまなざしで言う。


「元カレさ、名前で呼んでたよね?」


「え? まあ、そうですね。一年付き合ってたので」


「佐伯さんも大和、って呼んでたよね」


「は、はい」


「ずるくない? 俺未だに苗字なんだけど」


 不快そうにそんなことを大真面目に言ったので、私はつい吹き出してしまった。何か大きな問題があるかと思っていたのに、そんなことだったなんて。


「え、笑うとこ?」


「すみません、怖い声で言うので何があるんだろうって身構えてたので」


「俺にとったら重要だよ?」


「えっとじゃあ、下の名前で呼んでください」


「志乃」


 自分で言ったくせに、呼ばれた瞬間、笑いなんて引っ込んだ。そして代わりに、痛いほどに暴れる心臓をなだめることに必死になった。


 初めて呼ばれた、成瀬さんから。好きな人から呼ばれるととても特別な名前に聞こえる。今まで何万回も聞いてきた名前なのに、初めて付けられたみたい。


「……はい」


「じゃ、そっちの番」


「……け、」


「け?」


「け、け、

 うわー! すみません、もうちょっと時間ください!」


 手で顔を覆ってしまった私を、今度は成瀬さんが笑った。夜道に笑い声が響く。


 そうこうしてるうちに、見慣れたマンションが現れた。散々通ったあのマンションだ。


 これからは私の帰る家になるだなんて、いまだに信じられない。すべては熱を出して倒れた成瀬さんを看病した、それが始まり。


 いつでも玄関に置かれたパンパンのゴミ袋。テーブルすらないリビング、水しか入ってない冷蔵庫。


 まさか自分がここに住むなんて。


「うーさむ。早く入ろう」


「はい」


「あ、やべ、コンビニ寄り忘れた」


「フライパンもないんじゃ何も作れませんしね……」


「仕方ない、何かデリバリーしよ。そうだ、今度佐伯さんの家から鍋持ってきたらさ、カレー作って」


「またカレー!!?」


 私たちは笑いながら中に入っていく。丁度一階に止まっていたエレベーターに乗り込み行き先ボタンを押す。静かに上昇する中で、私は言った。


「カレーって凄く簡単なんですよ、あ、高橋さんのやつは多分手が込んでますけど」


「そうなの?」


「何か悔しいから、今度私も手が込んだカレー作りたいです。成瀬さんは簡単でいいよって言うだろうけど、やっぱりたまには頑張りたいって言うか」


 そう私が気合を入れて言っている途中、突然口を塞がれた。


 成瀬さんが無言でキスを落としてきたせいで言葉を止められる。エレベーターの上がる音だけが耳に入ってきていた。


 彼が離れたと同時に、私は顔を熱くさせて怒る。


「成瀬さんのタイミングが分かりません!」


「え? そう? 分かりやすいよ、可愛いなって思った時」


「かわ……?」


「うん、こうやって顔赤くして怒ってるときとかね」


 そう意地悪く笑った成瀬さんは再び私に唇を押し当てた。


 全然想像と違った。


 あの普段やる気のない成瀬さんからは考えられないほど、彼は意外と恋愛に熱いし積極的だ。信じられない、ソファから離れられない彼と本当に同一人物?


 チン、と高い音がした。扉が開かれる。成瀬さんは残念そうに顔を離した。


「着くのはえーな」


「……普通だと思います」


「はは、そっか。じゃ、続きは家でってことで」


 そう笑った彼は私の手を引いてエレベーターから降りた。えらく上機嫌で、私もついつられて笑ってしまう。


 ああ、可愛いな、なんて思ってしまうから、多分もう私はもう戻れないのだ。ダメダメのくせに私を惹きつけて離さない彼の魅力に、とことん沼ってる。




お付き合い頂きありがとうございました!

あとはちょっと番外編載せますー!

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