第38話 ギブアップ

「それにしても、帰ってきた瞬間はこうぐっとくるもんがあったよね」


「え?」


「おかえりなさい、なんて今まで言われなかったじゃん? いいよね」


「あ、それは私も思いました」


「一人暮らしはこうはいかないからね。

 あ、そうだ薬局でリンスも買ってきた」


「わあ、ありがとうございます! 覚えててくれたんですね」


 朝起きて痛感する髪の痛みっぷり。私は本当にありがたくて手を合わせる。彼は一度ふうと大きく息を吐きだすと、すがすがしい表情で言った。


「多分、準備は整ったよ」


「え、なんのですか?」


「完璧とはいえないけど、佐伯さんの元カレの対処」


「そのために今日出かけてたんですか!? でもどこに?」


 まさか私のためだったなんて。しかし一体何をしていたというのだろう、警察に相談とか? いや、それならば本人である私が行かないと駄目だろうしなあ。


 成瀬さんはにこりと笑って見せる。


「まあ、ゆっくりそれは話すね。ただ一個、佐伯さんに覚悟してもらいたいことがある」


「覚悟? なんでしょう」


「俺と付き合ってるってこと、みんなにばれてもいい?」


「え!」


 聞かれて思い出した問題。そうだ、あの成瀬さんと付き合うだなんて、私は色んな人から好奇の目で見られるし嫉妬もされるだろう。以前はそれを恐れ、ご飯を届ける関係すらバレたくないと思ったものだ。


「佐伯さん、ずっと気にしてたでしょ。でも隠し続けるのは無理があると思うんだ、それに隠してたら守れるものも守れない」


「……」


「あと、俺が自慢したいのもある」


「自慢って! 逆ですよ逆! 自分の立場分かってるんですか!?」


「ええ? 何で。こんな最高の人が付き合ってくれてるんだよ、自慢しちゃうよ」


 肩をすくめてそう言う彼に、普通の感覚がずれているなあと再確認しながら、私は答えた。


「自慢は置いておいて……。

 大丈夫です。付き合ってるってバレても。前はそれを恐れてましたけど、今はそれより幸せなことがいっぱいだし、心強いんです。だから、全然気にしません」


「よかった。これで色々守れるかな」


「……ありがとうございます、すみません、その私のために」


「どうして佐伯さんが謝るの? 全然悪くないじゃん。それに謝るのはこっちだよ、もっと早く話を聞いていれば一人で悩まずに済んだのに。

 お詫びに精いっぱい頑張る、頼ってね」


 優しくそう言った声色は、うっとりしてしまうほど温かで聞き心地がよかった。彼を見上げながら、私は嬉しくてただ微笑み返した。


 彼が一体何を考えているかはまだ分からないけど、その内容は重要じゃない気がした。成瀬さんが私のために色々考えて、守ろうとしてくれてる。その事実が嬉しくてたまらなかった。普段ソファから一歩動くのも嫌なくせに。


 笑い返したとほぼ同時くらいに、突然成瀬さんが私の頬に手を触れた。急に感じたその体温にびくっと反応した瞬間、心の準備も追いつかないまま、彼の口が私の唇を覆った。全く予想外の突然のキスだった。


 体はがちがち、驚きで息も止まり、ただ棒のように立ち尽くした。


 しばらくして離れた成瀬さんは、優しく口角を上げている。私はと言えば顔を真っ赤にして、パクパクと金魚のように口を開けている。


「はは、凄い顔真っ赤」


「い、いや、タイミング、ここですか? きゅ、急すぎて」


「うん、だってめちゃくちゃ我慢してたからね。そこにおかえり、なんて出迎えられたら反則技」


「だからって、び、びっくりしました」


「うん、顔みて分かるよ」


 そう笑った成瀬さんはさらにそのままキスを重ねた。もはや頭はパンクしていた。角度を変えて食べるように繰り返されるキスに、力が抜けていく。生活力がない彼とは別の顔を見た気がする、一体成瀬さんはいくつ顔を持っているんだろう。


 しばらくして解放された私は、涙目で彼を非難した。


「突然過ぎて全然ついて行けません!」


「何言ってんの、昨晩散々人を煽っておいて」


「あ……それ、は」


「今更撤回はなしだよ?」


 やや首を傾けて挑発するように言ってくる成瀬さんに、つい後ずさりした。嫌なわけじゃない、ただどうしていいか分からないだけ。


「なんていうか、成瀬さん、普段犬っぽいなって思ってたのに、全然違う顔してます!」


「だろうねえ、犬っていうか狼だよねえ」


「おおかっ……」


「ほら、俺薬局行ってきた、って言ったでしょ?」


 はっとして、床に置かれた白いビニール袋を見た。そうだ、私が頼んでいたコンディショナーを買ってきてくれた成瀬さん。それは、つまりあの中には、コンディショナーだけじゃなく……




 ずいっと彼が顔を寄せてくる。いつもとは違う、雄の顔。


「明日休みだし、今日は朝まで起きてても大丈夫だね」


「朝!?」


「まあまずは飯とか風呂とか入ろうか」


 涼しい顔をしていう彼に、ああ一体いつまで私は成瀬さんに振り回されるんだろう、と一抹の不安を抱いた。私はいつだって、彼には敵わない。









 ふと目を開けると、電気が消えた暗闇が見えた。ぼんやりとしつつ、頬に柔らかな枕が当たっている感覚を覚える。うつぶせの状態だったのだ。


 いつのまにか寝ちゃってたのか。


 そう気づき頭を上げようとしたところで、視界に揺れる液体が見えた。水の入ったペットボトルを差し出していたのは、誰でもない成瀬さんだった。彼はベッドの上に腰かけ、微笑みながら私を見下ろしていた。


「あ……ありがとうございます」


 そうお礼を言って腕を伸ばした時、自分の肌色の肩が見えて、慌てて布団を引きあげた。そんな私をなぜか笑いながら見、彼はもう一本の水を自分も飲みだした。心地よさを覚えるほど勢いよく水を流し込む横顔を眺めながら、私も受け取ってこそこそと飲む。CMに出て来そうなぐらいの飲みっぷりと綺麗な横顔を、なんとなく恨めしい気持ちで見つめた。


「なに? じっと見て」


 ペットボトルを床に置いて成瀬さんが尋ねる。サイドテーブルなんてものがない部屋なので、私も倣って床に水を置いた。布団に肩までしっかり入りつつ、答える。


「成瀬さんって、普段はソファから一歩も動けない人間のくせに、体力あるんですね?」


「はは、営業は体力勝負みたいなとこあるから」


 一人涼しい顔をしてるのが憎らしい。彼は面白そうに言った。


「同じ営業なのに意外と佐伯さんは体力ないね? もっと鍛えないと」


「私は普通ですよ!」


「まだまだ」


 そう言いつつ、彼もベッドにもぐりこんでくる。ぎしっと軋む音がした。一人用のベッドに二人一緒に寝るのは、明らかに定員オーバーだ。


 狭い中で体を小さくさせ、お互い落ちないように必死になる。それがなんだかおかしくて、どちらともなく笑った。


「すみません、私のせいで狭くなっちゃって」


「とんでもない。俺こそこの前の家具屋ででかいベッドでも買っとけばよかったよ」


「でもあの頃は付き合うなんて全然思ってませんでした」


「それは確かに。でもお互い意識してたのかなーと思うと、さっさと動かなかった自分が恨めしいね」


 暗くても、目が慣れて成瀬さんの顔はそれなりにハッキリ見えた。こんなに近くで彼を見ている。


 やっぱり不思議。未だに、嬉しさよりも信じられない気持ちの方が強い。目が覚めたら全部夢だったんじゃないか、と思ってしまうくらい。


 あの成瀬さんとどうしてこうなってるんだろう。仕事中は誰も敵わないくらい凄い人だし、プライベートは恋愛なんて出来そうにないグダグダ人間で、どちらにせよ私と付き合ってくれるなんて考えられない。


「なんか信じられないよね」


 私が考えていたところにそんな言葉が聞こえてきたので驚いた。こっちが言おうとしていたセリフなのに、心を読まれたみたいだ。


 成瀬さんは仰向けになり、天井を見つめながら言った。


「あのさー佐伯さんって一体俺の何がよかったの? 絶対変じゃん、俺ダサいとこしか見せてない気がするんだけど」


「ええ?」


「ちゃんと食べなさいとか、明日はゴミの日だから出しなさいとか、髪乾かしなさいとか、そんなことばっか言われてたのに」


 つい吹き出してしまった。そう言えばそうだ、まるで母親と子供の会話みたい。だけど、私が抱いたのは母性ではない。いやそれもちょっとあったかもしれないけど、それだけではない。


「私が悪者になった時、庇ってくれました。失恋で悲しんでるときも励まされました。落ち込んでるとすぐ気づいてくれました。

 仕事の時とプライベート、違うところも大きいけど、ちゃんと成瀬さんだなって感じる部分もたくさんあります」


「それ前もちらっと言ってくれてたけど、佐伯さんは変わってるよ」


 成瀬さんはぐるりと体制をかえ、私の方を向く。どこか優しい目で私を見ている。


「俺さ。今まで全部このプライベートなところ見せて幻滅されてきたから、その面倒を見てくれた挙句、好きになってもらったのなんて初めてなわけ。そりゃひっくり返って驚きもする」


「あは、確かにひっくり返ってましたね。まあ確かに普段の生活は凄いですが……今までの人はびっくりしたんですかねえ?」


「でも思えば、じゃあ直す! って言いきらなかった俺も悪い。多分、そこまで好きじゃなかった。

 だから初めてなんだよね、この生活を頑張って何とかするから、付き合ってくださいって自分から言ったの」


 どきりと胸が鳴った。布団の中で、彼が私の手を探し当てる。


 ゆっくり遊ぶように、指を絡めて握られた。


「佐伯さんは元カレと付き合ったこと凄く後悔してるかもしれないけど、でもそれがなかったら俺たち始まってないかもしれないから、俺としてはありがたい気持ちもあるから複雑」


「確かに、大和の浮気にショックを受けてなければ仕事のミスもしなかったし、高熱で倒れた成瀬さんを看病する羽目にもなりませんでしたね!」


「そう思うとすごいよね、どこかでちょっと違ったらこうなってないのかって」


 熱い手が強い力で握ってくる。私もそれをしっかりと握り返した。


 未だに夢心地の私に、現実だよと教えてくれるようだった。少しだけ汗ばんだ手のひらが、酷く尊い。


 私たちはお互い顔を見合わせて微笑んだ。と、私は握られた手をそっとほどこうとする。


「すみません、寝る前にシャワーお借りしていいですか」


「え? 今何時だろ」


 成瀬さんがスマホを取り出して確認する。暗い部屋にぱっと光が生まれ、彼の顔を照らした。よく見えるようになった成瀬さんの顔は、時計を見てにやりと笑った。


「まだ二時じゃん」


「もう二時ですか」


「朝までまだまだあるじゃん」


「え?」


「あーやすみでよかったー」


 そう言って彼は私の手を強く引く。体を起こしかかっていた自分はそのままベッドに押し付けられた。まさかと思い、つい懇願する。


「ちょっと待ってください! ギブアップ! 頼みます!  もう寝ましょう!」


「うそ、こんな場面でそんな頼みする?」


「イエスギブアップ!」


「ノーノーまだまだ」


「その体力ご飯食べることに使えませんか?」


「不思議だねえ、使えないんだよねえ」


 本当に不思議そうに言った成瀬さんは、私においかぶさって動けないようにしてしまった。私はムードのかけらもない『ギブアップ』を連呼したが、聞き入れてはもらえなかった。






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