第36話 何もない家


 家に戻った時、時刻は二十二時を回っていた。何もないあのマンションに戻ってくる。私は心臓を痛いほどに鳴らしながら帰宅した。持ってきた荷物をとりあえずリビングの隅に置き、ちらりと成瀬さんを振り返る。


 彼は特に意識している様子はなかった。むしろ他ごとを何か考えているように真剣な表情でいる。私一人舞い上がっているんだろうか。


「あ、あの、成瀬さ」


「そうだ、お風呂先入ってね。あ、風呂沸かしたいかな? 俺いつもシャワーでさ」


「でしょうね、成瀬さんが浴槽洗ってる姿想像つきませんから」


「そこのところは任せるから、どうぞお先に」


 自然な言い方でそう言われ、私は小声でお礼を言った後着替えを持って洗面所に行った。まあとりあえずね、お風呂ぐらいは入らないとね。


 物が圧倒的に少ない洗面所で服を脱ぎ、そっと浴室へのドアを開けてみる。よくあるタイプの風呂場なのに、自分はなんだか恥ずかしくてたまらなかった。顔が熱い自覚がある、何を一人で盛り上がっているんだ私は!


 とりあえずお湯を出して温まる。さてシャンプーを、と思ったところで、昨日は沙織に借りたので自分は持っていないことに気が付いた。


 となれば……


「お、お借りしてもよろしいでしょうか……」


 一人で返事のない質問を述べた後、置いてあったシャンプーを手に取った。特にこだわりもなさそうな、メジャーなところのシャンプーである。多分、薬局とかに一番目立つところに置いてあったから買った、とかだと思う。


 ああでも、普段成瀬さんが使ってるシャンプーを借りるのって、なんか一気にこう、特別感が増すというか。私はにやける顔を抑えながら頭皮を洗いまくった。力が強すぎて皮膚を傷めるかと思った。それぐらい気合の入ったシャンプーだ。


 それをお湯で洗い流し、気分が高揚したまま棚を見たとき、一気に冷静にさせられた。


 コンディショナー……ない。


 シャンプーしかない!


 棚に置いてあるのは本当に必要最低限のもののみ。そりゃそうだ、あの成瀬さんがコンディショナーなんてしてるわけないじゃないか! めんどくさいもんね、ひと手間増えちゃうもんね! ってことは、シャンプーだけであの髪質を持っているのか? それ、狡い。


「うわあー! コンビニで買ってくればよかったあ!」


 私は半泣きでそう呟いた。

 

 もしかしたら大事な夜になるかもしれないのに、髪の毛キシキシだなんて! めそめそしながら体を洗い、お風呂から出る。服を着た後、以前一度使ったことがあるドライヤーを利用して髪を乾かした。水分が飛べば飛ぶほどわかる、コンディショナーの愛おしさ。指通りも悪いし広がってる。ああ、でもこれは自分のミスだなあ、成瀬さんが持ってるわけないって安易に想像ついたのに。


 私はがっくり気分を落としながらリビングへ戻った。入浴する前の気分の盛り上がりはどこへ行ったやら。


 てっきりソファで寝ているのかと思いながらドアを開けると、成瀬さんは珍しく寝そべっていなかった。彼はソファの上に胡坐をかき、ノートパソコンを膝の上に乗せていた。私を見てニコリと笑う。


「あ、おかえり」


「お、お先に頂きました……」


 成瀬さんが家の中なのにちゃんと起きてるなんて、珍しい。こう見ると仕事中の成瀬さんを思い出してドキドキしてしまった。軽快なリズムでキーボードを叩いている。仕事の残りだろうか。


「成瀬さん、コンディショナー持ってないんですね」


「あーそういえばそうだったね、なくて困った?」


「困りました、髪の毛に指が通りません! 成瀬さんはどうしてそんなにサラサラヘアなんですか!」


「はは、俺は短いからねーごめんごめん気づかなくて。明日薬局で買ってきてあげるよ」


 当然のように明日もここにいることが確定している。まあ分かっていたことだけれど、やっぱり成瀬さんの家に何泊もするなんていまだに心の準備が追いついていない。


 もじもじしている私をよそに、彼はあっと声を上げて顔を上げた。


「飯まだ? えーとなんかあったかな」


「成瀬さんこそまだですよね? 以前私が持ってきておいた冷凍の物とか何かありませんかね」


「残ってるかも」


「見てみますね」


 簡単に何か作りますね、なんて言えないのが特殊なところだ。成瀬さんの家には当然ながら食材なんてないし鍋すらないからね。チャーハン一つも作れない家ってのも珍しいものだ。


 私は悩んだけど、捨てるのも勿体ないから高橋さんのカレーを頂くことにした。ぱっと見本格的でおいしそうだったしね。成瀬さんに食べてもらうつもりだったなら大分気合入ってるだろうし、食べ物を粗末にするのはよくないことだ。


 レンジで温めながら、ちょっと新婚ぽいかも、なんてにやにやしてしまう。だが温め終えた食事をお皿に移し替えようとして、戸棚には白いお皿一枚しかないことに気が付いた。そういえば、百均で買った一枚しか持ってないって言ってたっけ。


 仕方ないのでタッパーのまま持っていく。テーブルも届いてないので、二人で床に座り込んだ。パソコンを置いた成瀬さんも正座して手をあわせ、頂きますと挨拶している。


 その光景に、ついぶはっと噴き出してしまった。不思議そうに私を見てくる。


「いや、引っ越し初日でももう少しましな生活しますよね……!」


「そう? 俺毎日こうだから何も思わなかった」


「いえ、成瀬さんの家に来たなあ、って実感しました」


 コンディショナーもないし調理器具も食材も、お皿もテーブルもない。何これ、人間とは程遠い生活な気がするけど、なぜかわくわくして楽しかった。例えば子供の頃、家で食べるご飯より秘密基地で持ち寄ったお菓子を食べるときのような、そんな非日常感。


 二人で笑いながらご飯を頬張る。あっという間に食べ終え、一息ついた。カレーは見かけ以上に美味しかった、これは素直に認めることにしよう。高橋さん料理本当に上手いんだな。


 だが同時に、それだけ美味しくても成瀬さんは食べれなかった、という事実が嬉しかったのだ。もしかして、それを痛感したくて食べたのかも。性格悪いかな、私。

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