第34話 驚きでひっくり返る


「…………」


「思えば不思議ではあったんだよ。佐伯さんの作る物だけに対しては最初から全然抵抗がなかった。前も言ったように、関わったことはなくても君の働く姿を見ていたから信頼していた。でもそれは思っていたよりずっと特別なものだったのかも。

 いつも丁寧に仕事をして、ミスをしたときは泣きそうになりながらも必死に前を向いて頭を下げていた。プライベートでは優しくて世話焼きで、俺の本性も仕事中の姿も区別せずに接してくれる」


「成瀬、さん」


「佐伯さんじゃなかったら外出もあんなに楽しくないし、そもそも鍵だって渡してない。全部は佐伯さんだから。君は特別なんだよ。

 でも俺こんなんだし……だらしなくていつも佐伯さんに叱られてるしさ。異性として見られてないのは自覚してたんだよ。平気で部屋に呼ぶしさ」


 やや拗ねたように口を尖らせた彼を見て、私は慌てて反論した。


「それはこっちのセリフです! テーブルは私の部屋を見て決めるって言ったの成瀬さんですし!」


「俺家に行くなんて一言も言ってないよ。写真とか撮ってきてもらって見せてもらおうと思ってただけ」


 確かに、と得してしまった。思えば彼は一度も直接私の部屋を見る、なんて言ってはいない。私が勝手に早とちりして呼んでしまっただけなのか。


 いや、私が彼を家に呼んだ理由はそれだけじゃない。もっと一番大きな、そして大切な理由があったんだ。


 膝の上に置いた手をぎゅっと握って拳を作った。


「……いえ、違います。テーブルを選んでもらう、なんて口実です。成瀬さんと出かけたのが楽しくて、あのまま解散したくなかっただけなんです」


 蚊の鳴くような声だけれど必死に伝えた。瞬時に、成瀬さんの目が真ん丸に開かれる。


「私こそ、部屋に誘ったけど成瀬さん凄く寛いでるし全然意識されてないし、異性として見られていないんだって落ち込んでたんです。で昨日は告白してすっきりしてやろう、と思ってました。高橋さんの存在で心がくじけてしまいましたが」


 私がそこまで言った瞬間、突然成瀬さんは後ろに倒れ込んだ。ごちんと頭部が床にぶつかった痛そうな音がする。何が起こったか分からなかった、地震でも起きたのかと思ってしまった。だが違う、単に成瀬さんが一人でひっくり返ったのだ。


 急なことに私は驚き、慌てて彼の横にしゃがみ込んだ。


「な、成瀬さん!?」


 彼は未だ目を見開いたまま天井を呆然と眺めていた。そして人形のように表情を変えずに言った。


「ちょ、待っ、状況、追いついてない」


「あの」


「俺はてっきり、佐伯さんが結婚するんだ、って思って今日、臨んだというのに、こんな展開、受け入れきれない」


「こっちのセリフですよ!」


 悲痛な声を上げつつも、こんな時だというのについぷっと吹き出してしまった。だって人が驚きでひっくり返るの初めて見た。さすが成瀬さんだな。


 彼は笑う私を恨めしそうにみた後、大きくため息をついた。少し間があって、決意したようにのそりと起き上がった。そして振り返り、私を正面から見つめる。ガラス玉みたいな目に自分の顔が映っていた。何かを期待するような、恐れているような、不思議な表情をした私だった。


 成瀬さんが静かな声で言う。


「佐伯さんといるといつも楽しい。飯は異常に美味いし一緒にいると落ち着く。佐伯さんが元カレとヨリを戻すんだ、って知った時は絶望だった。

 俺、これからはもっとちゃんとする。代行に頼まないで掃除頑張るし、ごみも出す。料理……は厳しいかもしれないけどご飯も食べるし髪だってちゃんと乾かす。頑張るから、付き合ってくれませんか」


 真剣そのもの、でも一部子供が親と約束事をしてるみたいな笑っちゃえる内容。


 でも私は笑えなかった。


 今までの成瀬さんを見てきて、彼がちゃんとした生活を送るなんて相当の覚悟だと分かっているからだ。それだけ頑張るって、彼は誓ってくれている。


 胸がいっぱいになった。ああ、こんな告白で感動しちゃうなんて、世界中を探しても私だけだと思う。


「……髪は、乾かさなくていいです」


「え?」


「私、成瀬さんの髪を乾かすの結構好きですから」


 そう返した途端、彼は目を細めてふにゃっと笑った。子犬みたいな、子供みたいな笑い方だった。正面からその笑顔は破壊力が凄くて、つい視線をそらしてしまう。


 どうしよう信じられない。成瀬さんが私を好いていてくれたなんて、全然信じられない。


 彼は嬉しそうに、そして恥ずかしそうに言った。


「遠回りしすぎたな。さっさと佐伯さんと話せばよかった。いや、部屋に呼ばれた時に我慢しなければよかったのかな」


「我慢!?」


「そりゃそうでしょ、我慢してたよ。簡単に理性飛ばしたら嫌われるって思ってたし」


「でもすごく寛いでるように見えましたよ?」


「んー居心地がいい部屋って言うのは嘘じゃないよ。それと同時に、佐伯さんが近くに来たらやばかったよね。

 襲ってよかったんだ?」


「おそっ……!」


 いたずらっぽく笑って言う彼に、一気に顔を真っ赤に染め上げた。いや、でも否定はできない、部屋に呼んで何もなかったと拗ねていたのは自分なのだ。思えばなんて大胆なことを言ってしまったのだろう。


 あわあわと焦っていると、すっと成瀬さんの顔が近づいた。あ、長いまつ毛に、生え際に見える小さなほくろ。私の部屋で一度近づいてきたあの時と、同じ距離にいる。


 緊張で固まってしまったが、私は目を閉じた。口から心臓が出そう、という表現は今使うべきなんだと学んだ。

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