第33話 手が込んだカレー
未だテーブルは届いていなかったので、広々としたリビングにはソファだけが寂しく置かれていた。私はとりあえずそこに腰かけてみる。成瀬さんもやや距離を取ったまま隣に座り、私たちはお互い俯いた。
だがすぐに、成瀬さんが私の方を見て尋ねた。
「えっと、本当に結婚しないの?」
「しません! 一体誰から聞いたんですか?」
「高橋さんだけど」
出た! 私は心の中でついに彼女を殴った。妄想だけなら許されるよね、殴り飛ばして五メートルくらい飛ばしてやったぞ。
いやそもそも、高橋さんの話だけを鵜呑みにした成瀬さんも悪い気がする。
「それは誤った噂です! どうして信じたんですか、私は一緒にイタリアン行った時、もう戻ることは絶対にないって断言しましたよね」
「高橋さんの話だけだったら俺も信じてなかったよ。
ただ、見ちゃったから」
「え?」
「……先週出かけた帰り、カレーを貰うの忘れたことを思い出して引き返した。そしたら、佐伯さんと……」
そこまで言われて気が付いた。はっとして手で口を覆う。
もしかしてあの玄関先で大和にキスされた件だろうか?
思えば、あの時何か視線を感じた気がしたのだ、だからドアを開けて最後もう一度確認してみた。でも辺りには誰も見えなかったので気のせいかと思っていたのだが、まさか成瀬さんに見られていたなんて!
彼は言いにくそうに言う。
「その時、佐伯さん別に嫌がるそぶりとかもなかったし」
「ああああれは! 復縁を迫られて、なぜかプロポーズまでしてきた大和が最後不意打ちでしてきたものです! 私が何もしなったのは、大和に思い知らせたかったんです、お前のキスなんか泣く価値も怒る価値もない、それぐらいもう眼中にはないんだって! だから私、キスされた後言い放ったんですよ、これで満足したか? って!」
早口で説明する。そうか、傍から見れば、家から出てきた挙句キスされて何も拒絶しない、つまりは受け入れていると思われるのか。だから成瀬さんは私と大和がヨリを戻したのだと思ってしまったのだ。高橋さんから聞いた情報も信じてしまったに違いない。
成瀬さんは大きくため息をついて俯いた。どこか小さくなっている。
「まじかよ……俺てっきり……」
「ご、ごめんなさい」
「んでタイミングよく佐伯さんから話したいことがある、なんて言われたから、てっきり結婚するのでこの関係はおしまいですって言われるのかと思って。しかも引越しするみたいだし、ああ本当に結婚するんだ、って。凄くダサいけどそう言われるのに心の準備が出来てなくて、ちょっと避けるように……」
「じゃあ、やっぱりわざと私を避けてたんですか」
「ごめん、会ったら終わるのかと思うと、なかなか勇気が出なくて」
そう小声で言った成瀬さんが私をちらりと見てくる。叱られた子犬みたいな顔で、ついうっと言葉に詰まった。だがまだ聞きたいことがあった私は、その顔にほだされず続けた。
「で、でも高橋さんはいいんですか!?」
「は?」
「二日も連続で二人でご飯いくなんて……」
「え? 誰から聞いたの?」
「聞いたって言うか、見ました」
低い声で咎めるように言うと、向こうはあっけらかんとした顔で首を振った。
「見たなら分かってるでしょ? 二人じゃなかったよ」
「……へ!?」
「あの子と、今指導係してる村田と三人。村田は初め高橋さんの指導係だってやる気マンマンだったんだけど、どうも仕事を覚えられないって困ってるらしくてさ、上司にも頼まれて三人で飯食いながら話してたわけ。あれも一種の仕事」
「三人!? でも確かに」
言いかけて光景を思い出した。確か、街中で高橋さんの声を聞いて振り返った。丁度居酒屋に入っていく成瀬さんの後ろ姿と高橋さんを見たけど……。
あれっ、もしかして、成瀬さんの前に村田さんがいたのか? 先に店に入って姿が見えなかったということ?
勘違いに気づき、今度は私が首を垂らして落ち込む番だった。てっきり、二人でご飯に行って距離が縮まっているのかと思っていた。だが成瀬さんはなぜかやけに嬉しそうに私の顔を覗き込んでくる。
「もしかしてたまたま見て、勘違いしてた?」
「……はい」
「二人でご飯いってるかも、って?」
「それで、仲良くなったんだ、って」
「俺人の財布漁る女はちょっとなあ」
私は顔を持ち上げて首を傾げた。成瀬さんは腕を組んで苦い顔をする。
「免許証が紛れ込んでたなんて嘘だよあれ、だって俺絶対財布に戻したもん。思い返してみれば、そのあと村田は仕事の電話で一旦外に出て、俺はトイレに行ったタイミングがあったからさ。その時取り出したんだと思う、間違いない」
その光景を想像してゾッとした。でも高橋さんならやりそう、だとも思った。免許証を届けたという名目で男の部屋を訪ね、なんだかんだ上がらせてもらえればこっちのものだ、と思っていたのかもしれない。大和のように。
私はさらに尋ねた。
「じゃあ、ご飯作ってもらったわけじゃないんですか!? だって、カレーの香りが」
「え? ああ」
「成瀬さんの好物、リクエストしたのかな、って」
「違う違う、たまたまだよ。今日家に帰ったらドアノブに掛けてあった。鉢合わせなくてよかったよ」
そう言って成瀬さんは一度立ち上がる。キッチンの方へ向かったと思うと、冷蔵庫を開けて何かを取り出す。小さな紙袋のようだった。それを持ってきて私の正面に立ち、差し出す。受け取り覗き込んでみると、なるほど確かにカレーらしきものがあった。
蓋を開けてみる。私の作る、ルーを溶かすだけの物とは違い、スパイスなどを使った本格的なもののようだった。なるほど、料理が得意というのはあながち嘘ではないらしい。だがそこであ、と小さく声を漏らした。カレーはどう見てもほとんど口が付けられていなかったのだ。
成瀬さんは私の手からカレーを手に取り再度袋にしまいながら言った。
「正直迷惑なんだけど、食べ物を無駄にするってことが気になって頑張って食べようと思ったんだよ。でも、駄目だった。一口も食べられずギブアップ」
苦笑いしながら袋を床に置く。そしてそのまま、私の正面にしゃがみ込んだ。
成瀬さんが見上げる形で私を見てくる。ドキリと胸が鳴った。真剣なその眼差しに吸い込まれそうな錯覚に陥った。心臓の音がうるさくてうるさくて、成瀬さんの言葉を聞き逃してしまわないか心配になった。
「俺は佐伯さんが作ったものしか食べられないみたい」
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