第30話 棘をつけなければ話せない病気?
告白してすっきりしよう、と意気込んでいたくせに、そんな気合は完全に消失していた。先ほどまでの勢いは一体どこへ行ったのか、私はもはや立ち直れないところにまで来ていた。
「それで……なんで佐伯さんがいるんですか? 家に入ろうとしてませんでした?」
どこか冷たい声がした。高橋さんの鋭い視線がこちらに来るのを感じる。私はどう答えようと口ごもるが、成瀬さんが冷静に答えた。
「それには理由があってね、俺はちょっと佐伯さんに頼みごとをしてるんだ」
「頼み事? それってなんですか?」
「俺仕事が終わるとすごくだらしなくてね。疲れから食事さえもさぼっちゃうくらいで。それを偶然知った佐伯さんにご飯を差し入れしてもらってるんだ。ただそれだけのこと」
淡々と説明されたそれには嘘は一つもなかった。簡潔で分かりやすい話し方。けれどその話し方は、私に追い打ちをかけるようだった。『ただそれだけのこと』。そう、ただそれだけの関係だった。特別なことは何一つない。
でも彼の口からそれを直接聞いてしまうと、もう駄目だった。お前なんか恋愛対象なんかじゃない、そう突き付けられた。
いや、何を悲しんでいるんだ。私が散々、会社の人にはバレたくないと言っていたんじゃないか。だから成瀬さんも、平穏に終わらせようとしてくれてるのに。彼と特別な関係と勘違いされたら、明日から大変だから。
「というわけで、頼みごとを聞いてもらってただけ。でも周りにばれるととやかく変な噂を流されたりしそうで嫌だったから、黙ってたんだ。だから高橋さんも悪いけど誰にも言わないでくれる?」
「なーんだ、そういうことですかあ! そうですよね、なるほどなるほど。それで佐伯さんがいたってわけですか」
高橋さんは納得したように私を見た。その視線はどこか笑いを含んでいるような、見下しているようなものだった。それを不愉快に思う余裕すらなく、私は黙っている。
「でもー成瀬さん! それってよくないですよ?」
「え?」
「佐伯さんだって忙しいんですよ? お仕事だって大変だろうし、あんまり甘えてちゃだめです。そういうのは特別な人にしてもらわないと」
わざとらしく頬を膨らませて高橋さんは言う。私は何も口を挟めない。一体どう話せばいいのか全然頭が回らないのだ。変な言い訳をしたら、明日会社中に言い振り回されていそうだし、平穏に終わるように成瀬さんが頑張ってくれてるのに台無しにしかねない。
成瀬さんは少し間を置いて視線を落とした。長いまつ毛がちらりと揺れる。そして声色を変えないまま答えた。
「うん、それはその通りだと思う。佐伯さんには迷惑掛けてるから」
「そうですよーもう佐伯さんにお願いするのはこれで最後にしてもらったどうですか?」
「それもそうだね。甘えすぎてたかも、ごめんね佐伯さん」
成瀬さんが私に向いて言う。声を出そうとして、何も出なかった。掠れた空気がただ喉から漏れただけ。きっとこの関係は終わりなんだろうと思っていたけど、その終わりの形はこんなものじゃないはずだった。
すかさず、高橋さんが笑顔で割り込んだ。
「成瀬さん! 私がやりますよー!」
ぎょっとした顔で見てしまった。彼女はニコニコと花のような笑顔で成瀬さんを見ている。私の存在なんて眼中にないようだ。成瀬さんも少し目を丸くしていた。
「私料理得意なんです! ご飯作るの任せてください、私はほらー佐伯さんみたいに責任あるお仕事任されてるわけじゃないから負担にならないし? 営業部エースの成瀬さんの健康管理が出来るなら、それもお仕事になりそうだし、あはは」
そんなことを言う彼女に、駄目だと叫んでしまいそうだった。
偶然から始まったとはいえ、私だけに任された特別な役割。自分の代わりにこの子が合鍵を使って入り、食事を手渡すところを想像するだけで泣きたくなった。これは完全に私情だ、私は嫉妬しているのだ。
私以外に成瀬さんのあの姿を見せてほしくない、という、勝手な独占欲。
許可しないでほしい、断ってほしい。私はそんなの耐えられない。
祈る気持ちで成瀬さんを見上げた。彼は考えるように高橋さんを見ている。私の視線に気づいているのだろうか、それとも私の願いなんてどうでもいいだろうか。
「……いや、気持ちだけ受け取っておくよ」
苦笑いしながら成瀬さんが言った。
「さっき言われてその通りだと思った。俺は人に甘えすぎたから、いい加減自分のことは自分でしないとね。高橋さんの気持ちは嬉しいけど、君は君でこれから仕事を沢山覚える必要があるからね。自分のことを頑張って」
断りのセリフが聞こえてきて、私は安心で泣きそうになった。ああ、よかった、少なくとも高橋さんにこの合鍵を渡すことはなさそうだ。肩の力が抜ける。
彼女は頬を膨らませて拗ねている。成瀬さんは話を切り上げるように言った。
「免許証貰うね、届けてくれてありがとう。もう夜遅いから」
「はーい今日のところは帰りますね。あ、佐伯さんももう帰りますよね? 一緒にタクシー乗っていきませんか? 家どこですか」
「え!? あ、えっと、今日は友達の家に泊まるから……会社の近くなんだけど」
「よかった方角一緒。じゃあタクシー相乗りしましょ。成瀬さん、おやすみなさーい」
高橋さんは私の腕を強く掴んだ。長い爪がやや食い込んで痛みを覚えるほどだ。結局今日、成瀬さんに話したいと思っていたことが叶わない。私は困った視線を送ったが、成瀬さんもどうしようもない。高橋さんがいる限り、私がここで残るのは無理がある。
諦めて頷いた。
「じゃあ、成瀬さん、おやすみなさい」
「うん、ありがとう」
名残惜しさを感じながら、私たちは離れた。タイミングを改める必要があるみたいだ。仕方ない、またラインで日程を調整しよう。
私と高橋さんが並んで歩き出す。腕はがっちりつかまれたままだ。一度振り返ると、成瀬さんがこちらをじっと見送っていた。高橋さんもそれに気づき、笑顔で手を振る。
二人でエレベーターに乗り込んだ。そこでやっと腕が解放される。扉が閉まって下降しだすと、少しの間沈黙が流れた。
私は気まずさに耐えられず、なるべく普段通りを装って話しかけてみる。
「あ、この辺はあまりタクシー通らないから、電話で呼んでみるね」
「お願いしまーす」
さっきより幾分か低い声で言う。うーん、私が古い人間なのかな、先輩にそう言われたら『自分が掛けますよ』って私なら言うんだけど……まあいいか。
私はなるべくゆっくりした動作で電話を掛ける。少しでも高橋さんと二人で話す時間を減らしたいと思ったのだ。生憎瞬時に電話は繋がり、一台タクシーを頼んだ。すぐに来れるようだったので、そこは幸いだった。
マンションを出てエントランスも抜ける。すっかり暗くなった空には星が輝いていた。冷え切った風が頬を刺して痛みを覚える。吐き出した息が白く上るのを眺めながら、まあ、相手は高橋さんだけど、大和と鉢合わせたときのことを考えれば、一人で帰宅じゃないのはよかったと思っておこう、と考えた。
玄関の前に二人立ってタクシーを待っていた。
「てゆうか、やっと分かりました。そりゃ勘違いしますよねー」
突然主語もなく話し出した。きょとん、としてそちらを見る。
「佐伯さん、前成瀬さんのこと好きっぽい雰囲気出してたから。二人って全然接点ないはずなのに、成瀬さんも妙に佐伯さんを庇うようなこと言うなーって不思議に思ってたんです。そういう関係だったんですねー」
「い、いや、私は別に成瀬さんのことを」
「勘違いしちゃいますよねえそりゃ。ご飯作ってほしい、なんて言われたら、どんだけ釣り合ってないって分かってても期待するの分かります!」
いちいち棘をつけなければ話せない病気なのだろうか?
それでも、その言葉が図星だと思って何も言い返せなかった。釣り合ってないって分かってたけど、好きになってしまった。
ふふ、と高橋さんは笑う。
「大丈夫、誰にも言いませんよ。あの成瀬さんとそんな親しいなんて知られたら、女子たちに睨まれますからねー」
「あ、ありがと」
「でももうこれで分かりましたよね? 成瀬さんが本当に佐伯さんを特別に思ってたら、今日あんなにあっさり引き下がらなかったと思うんです。ちゃんと現実を見て、佐伯さんは富田さんと結婚した方がいいんじゃないですかあ? ちょっと他に目移りしやすい人みたいですけどね」
「…………」
「あ! そうだ、成瀬さんって食べ物何が好きですか?」
笑顔で尋ねられ、たじろいだ。急に何を聞いてくるのだろう。
「それ聞いてどうするの?」
「え、どうするって。私が明日から成瀬さんにご飯作ってあげるんですよ」
「断られてたじゃない!」
ぎょっとして言った。さっき成瀬さんはきっぱり遠慮するって言ってたはずだ。それを高橋さんも聞いていたのに、一体何を言ってるんだろう。
しかし彼女は笑いながら、そんなことも分からないんですか、とばかりに私を見た。
「佐伯さんの前ではお願いします、って言いにくいでしょー? 成瀬さんの優しさですよ! 私は分かります。明日からはこっそり私が成瀬さんに差し入れを作って届けますね! 料理得意なんですよ。成瀬さんって何が好きなんですか?」
そうなのか、とぼんやり思った。
私がいる手前、高橋さんに許可を出しにくかっただけで、本当はお願いしたいと思ってたのかな。二日連続で二人でご飯に行くぐらいの関係なら、確かに高橋さんにやってほしいと思うのかもしれない。
じゃあこれからはやっぱり、高橋さんが今まで私がやってみたいに? 成瀬さんの駄目なとことか全部この子も知るようになって、ご飯あげたり買い物に行ったりするの?
この鞄の中に入ってる合鍵、成瀬さんに返したら、高橋さんのところに行くんだろうか。
「成瀬さんの、好物は……」
「はい!」
「なんでも、好き、みたいだよ……」
自分で情けなくなるぐらい、小さくくぐもった声で答えた。
カレー、だなんて、教えたくなかった。
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