第31話 HPはゼロ




 タクシーで沙織の家まで帰り、起こったことを全て話した。意気消沈している私を見て、初めは振られたとばかり思っていたらしい沙織は、高橋さんの出現に後ろに倒れ込んだ。


 大和ばかりじゃなくて、私の居場所も取られる。考えたくなかった。


 スマホには成瀬さんから連絡が入っていた。違う日に、また会わないかという主旨だ。私は明日また家に行きますと返信し、彼も了承した。


 本当はもう告白なんてする勇気は欠片も残っていない。でも会わなければならない。


 私はこの合鍵を返す義務があるからだ。






 翌日の仕事は休んだ。


 自分の感情をコントロールできないまま出社しても、周りに迷惑をかけるだけだというのは、大和が浮気したあの翌日学んだことだ。今無理やり働いても、私はきっとまたミスをやらかすだけ。


 沙織も一緒に休むと言ってくれたが、気持ちだけありがたく頂戴して送った。一人になりたかった、というのもある。


 沙織の部屋でぼうっとテレビを眺めて、時々ネットで物件を探した。先日見た物件が一番よさそうなので、もうここに決めてしまおう、と思う。大和のことを考えると一日も早い引っ越しが必要だし、何より成瀬さんからも早く離れたかった。


 もし万が一、楽しそうに高橋さんがご飯を運ぶ様子を見てしまったら、私はもう駄目になると思ったのだ。


 さて、問題は本日成瀬さんと約束していることだ。話したいことがある、と言って時間を作ってもらうわけだが、今になって言いたいことはすべて消えてしまった。


 大和のこと? 成瀬さんに相談してどうすんだ、迷惑かかるだけ。


 告白? 昨日まではしようと思ってたけど、もう私のHPはゼロです。そんな勇気なくなった。


 振られるなら振られるでよかったんだ。女として見られていないことぐらい分かり切っていたし、それでも伝えたいと思ってた。でも振られる理由が、高橋さんだったら。彼女に二度も好きな人を取られるというのは、なけなしのプライドがどうしても受け入れたくなかったのだ。


 まあいいや、大和のことも伏せたまま、引っ越したいからご飯係は終わりにします、と言って鍵を返却しよう。


 それを言うだけでも、私は十分気力と体力を消耗するのだから。


 昼食は適当にカップラーメンを食べ、夜になりようやく着替えなど身支度を行った。メイクは普段より念入りに行った。今更自分を着飾ったところでどうにもならないことは分かっていたが、それでも好きな人の目に映る自分が少しでも綺麗でいたいと思う女心だった。


 出費が辛いがタクシーを利用した。電車は大和に会う可能性があるからだ。と、いうか、私は何をしてるんだろう。勘違い男をどうにかするほうが優先な気がするが、仕方ない。とりあえず成瀬さんをきっぱり諦めたら、引っ越しを進めるんだ。


 夜の道をタクシーが進む。対向車線のライトがやけに綺麗に見えた。私はシートに体を完全にもたれさせ、ぼんやりと外の光景を眺めていた。タクシーの中は暖房がしっかり効いていて、暑ささえ覚えた。独特の匂いにやや不快感を覚えながらも、ただ真っすぐ窓の外を眺める。


 ようやくマンション前に到着し、代金を支払って降りた。エレベーターで目的の階まで上り、部屋を目指す。約束してるので、今日は成瀬さんは家にいるはずだった。


 廊下を歩いて到着する。鞄の中から鍵を取り出そうとして、やめた。なんとなくもうこの鍵は使わない方がいい気がしたのだ。少し泣きそうになりながら、私は初めて家のインターホンを鳴らしたのだ。


 奥からピンポーン、という音が響く。


 人の気配がした。私は姿勢を正し、泣かないように必死に気を引き締める。少しして、慌てた様子で扉が開かれた。こうやって『普通の訪問』をするのは初めてだなんて。今までの関係が不思議すぎ。


 戸を開ける成瀬さんの顔を見るのは新鮮だった。彼はどこか力のない笑みを浮かべていた。格好は仕事着のまま。まだ帰って間もなかったんだろうか。


「こんばんは」


「こんばんは、昨日はごめんね」


「成瀬さんが謝ることじゃないです」


「中にどうぞ」


「いいえ、ここで大丈夫です」


 入ったら泣いてしまいそうだった。私は笑顔でそう答えたのだが、なぜか成瀬さんが困ったように苦笑した。


「そっか、そうだよね、入れないか」


「あの、鍵を返しにきたんです」


 私は鞄を漁る。そして預かった鍵を取り出した。何度も使用した冷たい銀色のそれは、キーホルダーもついていないシンプルなものだ。使っていた期間はそれほど長くはないのに、懐かしさに溺れる。


 ああ、泣きそう。でも、泣いてはだめだ。


「お返しします」


 すっと差し出した。成瀬さんはじっとそれを眺める。そして大きな手をゆっくり動かし、私から受け取った。


「わざわざありがとう」


「……いえ、ありがとうございました」


 頭を下げる。立ち去ろうとして、成瀬さんが思い出したように言った。


「待って! 佐伯さんが持ってきてくれたおかずが入ってた容器、返すから」


「いえ、別に捨ててもらって」


「ちゃんと洗ったから、待ってて」


 そう言い残し成瀬さんが廊下を進んでいく。私は仕方なくその場で立ったまま待つことにした。リビングへ続く扉が開けられ、成瀬さんがそこに吸い込まれていく。そこでふっと、ある香りが鼻についた。


 カレーだ。


 リビングから微かにだけれど、カレーの匂いがする。


 ぐるぐると頭が回って倒れそうだった。考えられるのは一つ、高橋さんが作って渡したんだろう。私は成瀬さんの好物を教えてはいない、ということは、成瀬さんが高橋さんにリクエストしたんだ。


 成瀬さんが――


 そう考えた瞬間、我慢していたものが一気に溢れかえった。涙が目から勢いよく流れる。


 どうしよう、こんな顔見せられない。どうしよう、きっと勘づかれる。でもだって、止められるわけがない。私はずっとギリギリの状態だったのだ。


 慌てて手のひらで涙を拭っても、次から次へと零れた。ごまかしきれそうにない量だった。涙を何とかしても、濡れたまつ毛や赤くなった目はどうしようもないだろう。


 すぐにリビングから成瀬さんが戻ってきた。そして案の定、私の顔を見てぎょっとする。彼は駆け足で寄り、私にしどろもどろ尋ねた。


「ど、どうした、なんかあった? なん、え、どうした!?」


「いえ、大丈夫、です」


「いやいや全然大丈夫じゃなさそう!」


「個人的なことなので。容器ありがとうございました」


 早くここから立ち去りたくて、彼の手から空っぽの容器を取る。だが、離さなかったのは向こうだ。がっちり持ったまま動かない。まるで奪い合うように、容器を引っ張っては戻され、引っ張っては戻されを繰り返した。

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