第26話 目撃




 翌朝、ちゃんと出勤した。


 プライベートは仕事に持ち込まない、それは身をもって学んだことだ。私は会社でしっかり切り替え仕事を行っていた。成瀬さんも相変わらずキレキレの仕事ぶりで、なんだか前の関係を思い出した。


 少し前まで、私と成瀬さんはこうだった。業務事項以外ほとんど話したこともなくて、あっちは営業部のエース。私は憧れの眼差しで見るしかなかったんだ。今が特殊なだけで、これが本来あるべき姿だったとも言える。


 落ち込む心を何とか持ち上げながら仕事をこなす。定時も過ぎもう上がろうと準備をした。辺りを見てみると、成瀬さんはまだ帰らないようでパソコンに向かっている。今日も残業らしい。


 私は簡単に周りに挨拶だけ行い、そそくさと電車で家に帰った。あまり暗くなりすぎないうちに帰宅したかった、というのもある。


 とはいえ冬の日は短い。とっくに辺りは暗くなり始めており、私はあたりを気にしながら、そしてなるべく人通りの多い場所を選んで帰った。成瀬さんに作る予定がないのなら自炊をする気力も湧かず、途中のコンビニで弁当を買っていく。


 袋を右手にぶら下げながらゆっくり歩いていると、自分のアパートが見えてきた。帰ってもう寝よう、と思いふと自分の部屋を見上げた時、私は慌てて物陰に隠れた。


 アパートの部屋の前に、大和が待っていた。


 一人扉の前に立ち、スマホを眺めている。急いで見つからないように背を向けてその場から立ち去った。すでに家の前にいるんじゃ、もう入れるわけがない。


 どうしよう、あいつ本当にやばいかもしれない。これはもうストーカーと言っていいんだろうか。本気で引っ越しを考えねばならない。でもどうしよう、成瀬さんの家の近くにいいアパートなんかあるかな。そんな都合のいいものがあれば一番いいけど、まず引っ越しすら大和に気づかれずに出来るかどうか。


 何とか大和に見つからず遠ざかることができたようだ。さて困った、家に帰れないとなればどうするか。選択肢は限られている、一番現実的なのは沙織の家に泊まらせてもらうことだ。


 私は早速メッセージを打ち込んだ。大和が家の前で待ち伏せているので入れない、泊まらせてくれないか、と。案外返事は早く来た。そこには大和への怒りの声が羅列されていたのと、泊まるのはいいが仕事がもう少しかかる、との返事があった。


 待つのは構わないことを伝え、どこかで時間を潰してから泊まりに行くことを伝えた。沙織からOKの返事をもらったので、とりあえず今晩の宿泊先は確保された。


 そうだ、泊まるなら歯ブラシとか買っておくか。あ、時間もあるし不動産屋に行って物件を見てもらおうか。いいところがあればキープしておいて、すぐにでもあの家を出たい。


 私はそう心に決め、すぐさま不動産屋へ向かった。





 結果は惨敗だった。


 成瀬さんのマンションから近い場所を中心に探したが、そう都合よく空いている部屋は見当たらなかった。それに引っ越すなら、今度はオートロックなどついているところがいい、などと希望を出すとなお限られる。担当してくれたやたらギラギラした目のおじさんは、私が出す条件に何度も苦笑いした。多分ないんだろうな。


 結局いくつか候補をプリントアウトしてもらい帰宅した。どれも、成瀬さんのマンションに行くのに徒歩では厳しい場所ばかりだった。ため息をつきながら薬局にも寄る。


 随分時間がつぶれたところで、やっと沙織の家に向かい始めた。沙織は『通勤時間をなるべく短くするのが賢い人間だ』というポリシーから、会社近くのアパートに住んでいる。なので、私はまた会社の方面まで戻る羽目になった。


 寒さに震えながら沙織のアパートを目指す。丁度、仕事が終わったと連絡が来たところだ。今日は沙織にとことん愚痴を聞いてもらおう、今後についても相談したい。ちょっとやばいことになってるからなあ、これからどうしよう。


 ぐるぐるといろんなことを考えながら、一人歩いていた。コンビニ飯と薬局で買い物した袋をぶら下げ、なんだかみじな姿に思えた。何もかもうまく行かなくて、泣いてしまいそうになるのを必死に堪え、とにかく沙織の家を目指す。


 と、耳に聞きなれた声がした。


「えーそうなんですかあ! おもしろーい」


 高い声色。私の神経を逆なでするその声を、聞き間違えるはずがなかった。私の目は反射的にそっちへ向かう。だが次の瞬間、私は驚きで歩いていた足を止めた。


「さすが成瀬さんです!」


「はい、ついた」


「はーい」


 一瞬だけ見えた姿。近くにあった雰囲気のある飲み屋、そこの扉に入っていく後ろ姿。一人はびしっと決めた巻き髪にヒール、あともう一人はスーツを着た背筋の伸びた男性。だがすぐに扉が閉まり、二人の姿は見えなくなった。


 ぽつんと、一人残される。


……成瀬さんと、高橋さん?


 唖然としたまましばらく立ち尽くしたあと、私は無言で背を向けた。そして頭の中が真っ白で何も考えられないまま、その場から駆け出した。


 とにかく早くその場から離れたくてしょうがなかった。今見たのは何かの見間違い? ううん、成瀬さんって呼んでた。あの後ろ姿も見間違いなんかじゃない。


 残業は? 私の話したいことは聞く時間はないけど、高橋さんとご飯食べる時間はあったの? 二人きりで? だから夕飯もいらないって言ったの?


 途中足を絡ませて派手に地面に転んだ。膝が熱くて、酷くすりむいたんだなとぼんやり思う。周りの人たちが、哀れな視線で見てくるのをひしひしと感じた。それは勿論、私が転んだことに対してなのだが、その時の自分は違う風に受け取った。


 勘違いしない方がいいですよ、佐伯さんが辛い目に遭うだけです。高橋さんはそんなことを言っていた。私は心のどこかで勘違いしていたんだろうか。女に見られてない自覚はあったけど、でもきっとそれなりに距離は近くて、私が話したいといえばすぐに耳を傾けてくれる、それぐらいの関係であると自惚れていたんだ。高橋さんと揉めたとき、私を贔屓してしまったと笑っていた成瀬さんを見て、きっとどれだけ高橋さんが可愛くても靡かないんじゃないかって、どこかで楽観的に見ていたんだ。


 ゆっくり立ち上がる。やはり、膝はストッキングが派手に敗れて血が出ていた。そこに冬の冷たい風が当たってすーすーと寒気を誘う。持っていたビニール袋は何とか握っていたものの、コンビニで買ったお弁当は多分中でひっくり返っているだろう。


 とぼとぼと歩いた。沙織の家を目指して、ただ足を必死に動かした。


 しばらくたって沙織の家が見えてきた。私の住むとのろと似た、よくあるタイプのアパートだ。部屋は二階にあるので、のそりのそりと階段を上る。すると、ちょうど沙織が帰宅してきたタイミングと同じだったようだ。家の鍵を開けようとしているロングヘアの彼女の顔が見えて、目が合った。ニコリと笑う。


「お、ナイスタイミング! 私もやっと残業終わって」


 言いかけた沙織は、私の様子に気が付いた。言葉を止め、眉を顰めた。


「どうしたの。大和となんかあった? ちょっと、膝血が出てるじゃん」


 慌てたように言う沙織の顔を見た途端、私はぽろぽろと涙を零した。それまで何とか堪えてきた何かが一気にあふれ出したようだ。


 ぎょっとしたように目を丸くする。私はそのまま、大きな声で泣きながら、子供のように沙織の元へ駆け寄って行ったのだ。



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