第22話 好きじゃない

 ここで甘えを見せてはだめだ。私は真っすぐ彼を見て言った。


「いい? 何度でも言う。

 私は大和とヨリを戻す気はない。結婚する気もない。もう大和を好きじゃない」


 一言ずつ噛みしめるように言う。大和は表情を変えなかった。指輪を差し出したままじっと止まっている。


「だから帰って。もう来ないで」


「そんなの嘘だろ? 強がるなよいい加減。俺を好きだから浮気を怒ったっていうのはよく分かったから。もう二度としないし、志乃を一番に想うから」


「強がってるわけじゃないって!」


「強がってるんだよ! そんな女は可愛げがないぞ、俺が下手に出てる間に素直になった方がいい」


「他に好きな人がいるの!」


 つい叫んでしまった。言うつもりなどなかったのに。大和は完全に一時停止してしまっている。


 言ってしまったものは仕方ない。私は彼から視線をそらして言った。


「だから大和とはもうやり直さない」


「……そんな嘘つくなよ」


「噓じゃない。好きな人が出来たの」


「ふざけんなよ!!」


 突然怒号が鳴り響き、びくっと体が跳ねた。大和は目を吊り上げ、鬼のような形相で私を見ていた。見たことのない表情に体を硬直させる。


「まだそんな時間も経ってないのに? はあ? 浮気じゃん」


「それ本気で言ってるの? 浮気したのはそっちでしょ!」


「そんなぽっと出のやつより、一年以上一緒にいた俺の方が絶対志乃を分かってる。試しでいいからやり直そう、志乃もきっとすぐにわかる。俺たちはあの日までうまく行ってた」


 早口で必死に言ってくる大和を見ながら、ああ私は大和の何が好きだったんだっけ、と思った。


 あんなに好きだったのに。一緒にいるだけで楽しくて、手をつなげば胸はときめき、将来のことだって考えていた。本当に本当に好きだったのに、今はその感覚が欠片も思い出せない。自分でも不思議なほどだ。人は愛をこんなにも簡単に忘れられるものなのか。それともやはり、今は別の恋心を抱いているから?


 戸惑っている私の手を、大和はやや強引に掴んだ。強い力に痛みを覚えて顔をゆがめる。無理やり薬指に指輪を通された。


「ほら、ぴったり。サイズだって俺は知ってた」


「……離してよ」


「同期のみんなも祝福してくれるって」


「他に好きな人がいるんだってば!」


「誰? それ。付き合えそうなの?」

 

 一段と低い声で聞かれ、言葉に詰まった。誰、も言いたくないし、付き合えそうかなんて、答えは言いたくない。


「……会社の人。それ以上は言いたくない」


「付き合えそうなの?」


「それは……」


「ほら。志乃のよさを分かってるのは俺だけだ。そんなやつやめて俺にしておけって」


 堂々巡りの会話に、私はきっと大和を睨みつけた。そして一度呼吸を整えると、一文字ずつはっきり発音するように言い放った。


「その人と付き合えなくても、大和とは戻らない。

 私はもう大和のことなんて、ちっとも好きじゃないから。

 強がりじゃない、あなたとは絶対に戻らない」


 理解してもらえるまで何度でも言うしかない。私にもう気持ちはないんだと。


 大和は黙り込む。私は指に嵌められた指輪を外し、彼の手に握らせた。これは私には不要なものだ。


 もし、もし万が一。大和があんなことをしなければ、この指輪を渡されて喜ぶ自分がいたのかもしれない。これからの人生、ずっと彼が隣にいることになっていたのかな。でもそんなの全部憶測であって、今は大和との未来なんて何も思い浮かばない。


「……とりあえず今日は帰る」


 長く沈黙が流れた後、大和がそう言った。ほっとしたものの、とりあえずという言葉に疑問を持つ。もしかしてまた来るつもり?


 指輪を乱暴にポケットに入れて立ち上がる。そのまま玄関に向かっていく大和を私は少し距離を取りながら追った。彼は素直に靴を履き、玄関の扉を開けたので、安堵感に包まれた。次は絶対訪問者が誰か確かめてからドアを開けるんだ、そう心に誓う。


 ドアを開け一歩外に踏み出したところで、大和が振り返った。私は一刻も早くドアを閉めてしまいたいが、彼の体が阻んでいる。まだ何かあるのか、と怪訝な顔で見上げた。


「いろんなところに行ったよな、一年」


 突然そんなことを言いだす。思い出話を初めて私の心を揺さぶる気だろうか?


「まあ、一年もあればね」


「あれよかったよな、紅葉」


「そうだね」


「今度遊園地に行こう、って言ってたのに実現できなかった」


「何が言いたいの? 寒いから早く閉めて」


 私は苛立ちからそう冷たく言った。


「懐かしんでるだけ。志乃と出かけたの楽しかったな、なんて」


「あの頃はね。もう過去の話だよ」


「そんな簡単に過去に出来る? 俺は思い出せば出すほど辛くなる」


「じゃあ思い出すのやめたら」


 大和はゆっくり外に足を踏み出した。私はドアを閉めようとドアノブに手を掛ける。が、最後に彼が一度振り返った。大和の足はドアが動くのを止めていた。


 そして彼は何も言わないまま、私の唇にキスを落としてきた。突然のことに、驚きつつも私は何もしなかった。


 彼がなぜ突然そんなことをしたのか心当たりがある。まだ仲良く付き合っている頃、私のアパートから帰るとき必ずこうしてキスして別れていた。あの頃は大和が帰るのが寂しくて名残惜しくてしょうがなく、最後のキスが愛しくも憎かったものだ。


 そっと大和の顔が離れる。私はその顔を、強い眼光で見つめ続けた。


「満足した?」


 こんなめちゃくちゃなキスに、あえて何もしないのが一番のような気がした。


 泣くより怒るより、もうあなたのキスは私の心を一ミリも動かす力がないのだと、無関心なのだと思い知らせたかった。どこかで、好きの反対は嫌いではなく、無関心だと聞いたことがある。


 もう昔の私とは違う。今自分の心を動かすのは、他の人間なのだから。


 大和は少しだけ眉をひそめた。そして落ち着いた声で言った。


「諦めないからな」


 それだけ言うと、やっと足を動かした。そして今度こそ、廊下を歩き出した大和の後ろ姿を見て、ほっと息を吐いたのだ。


 帰った。


 次は絶対ドアを開けてやらない。せっかく今日は幸せな気分だったのに、一気に台無しである。成瀬さんと過ごした一日に浸りながら眠りたかったのに、これじゃあまともに睡眠すらとれるかどうか。


 げんなりしながらドアを閉じかける。だがそこで、ふと思うことがあり、私は再びドアを開けた。


 もう大和の背中は見えなくなっていた。廊下は心細い明りが点々とついているだけ。向かいには夜空が見えた。星がきれいに輝いている。何も異変はない。


「……早く寝よう」


 私は今度こそ、ドアを閉めた。



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