第20話 二日目のカレーは美味い
成瀬さんはテレビを見ながら言った。
「なんかさー佐伯さんの家って前来たことあるっけ? って感じ」
「あは、私も同じこと思ってました。前から成瀬さんこうしてたっけ、って」
「なんかめちゃくちゃ居心地いいね。気が緩んだら眠くなっちゃいそう」
「成瀬さん寝起き悪いから、ここで寝られると困ります……」
「あはは! だよね、分かってるから大丈夫」
成瀬さんがいつも通りで少し安心した。居心地が悪いわけではないようだし、引き止めてよかったな、と思った。
が、それってさ……それだけリラックスしてるって、さ……
「あ、そういえばテーブル見たんだよ。俺これがいいと思うけどどうかな」
「え、どれですか」
成瀬さんはスマホを取り出して操作する。私は彼の隣りに近づき、持っているそれの画面を覗きこんだ。
「ほら、これこれ――」
そう言いながら成瀬さんがぱっと顔を上げる。私が近づいてきたことに気づいていなかったらしく、思た以上に至近距離に顔が持ち上げられる。間近でばちっと目が合う。その近さに思わずのけぞり、私は勢いで後ろに倒れ込んでしまった。
「あ、ごめん!」
成瀬さんが慌てて私に謝る。私はドキドキしてしまった心臓を隠すように、なるべく平然を装って体勢を戻した。一人で驚き一人でひっくり返って、馬鹿みたいだ。成瀬さんもびっくりしちゃってるじゃないか。
「すみません、私が近づいたんです」
「俺気づかなくて、ごめん。嫌な思いさせたね」
「突然だったのでびっくりしただけです。恥ずかしかっただけなので、別に嫌だったわけでは」
淡々と口からは答えを漏らすが、今だ自分の心は大きく鼓動を繰り返していた。早くそれを落ち着かせたくて自分に言い聞かせる。あれだ、どうでもいいことを考えよう、そうだ来週成瀬さんに持ってくる献立の計画でも……
そんな必死な抵抗で緊張をほぐしていると、成瀬さんがじっと私を見ていることに気が付いた。その真っすぐな夜色の瞳は、簡単に自分の平然をぶち壊した。
次の瞬間、成瀬さんが四つん這いの格好でずいっとこちらに寄った。私は驚きで動くこともできず、再び至近距離に現れた綺麗な顔立ちを唖然と見つめているだけだ。
成瀬さんのまつ毛、長い。普段見えない髪の生え際に小さなほくろまで見つけてしまった。それぐらい彼の顔は私のそばにいた。
ワンテンポ遅れて、自分の顔がぼぼっと赤くなった。ようやく自分の置かれている状況に理解が追いついたのだ。なんでかわかんないけど、成瀬さんがめちゃくちゃ近い。顔が噴火してしまいそうだった。でも逃げ出すのもよくない気がした。
「あ、あの、成瀬さん?」
やっと声を絞り出す。真剣な顔で私を見つめ続ける相手に呼びかけると、一瞬成瀬さんはまつ毛を揺らした。だがすぐににこっと笑って見せる。
「ごめん、恥ずかしがってた佐伯さんが可愛かったからからかった」
そう言って離れていく。こちらは未だ硬直したままである。近い距離にドギマギしたかと思えば、とどめとばかりに可愛いだなんて言われて、もう私の心臓は持たないと思う。
「……あ、あの、成瀬さん。私、実は」
「あれ、カレー大丈夫?」
言われてハッと思い出した。私は慌てて起き上がり火をつけっぱなしだった鍋に駆け寄り、もう十分煮込んだのを確認した。あとはルーを溶かすだけだ。
火を止めた。そこで一旦、目を閉じて心を落ち着ける。ちらりとだけ背後を見てみたが、彼はテレビをぼうっと眺めているだけだった。
苦しい、痛い、切ない、いろんな感情が重なり困る。暴れる心臓を落ち着かせるように、手のひらをそっと胸に押し付けた。
カレー作ろう、うん。とにかく腹ごしらえをしなきゃ。
私は戸棚を開けてルーを取り出した。
「あーやっぱりうまい、もう一杯」
「ま、まだ食べるんですか……? 今日お昼もあんなに食べたのに」
「あ、無くなっちゃう?」
「いえ、鍋一杯に作ったので大丈夫です。成瀬さんに持って帰ってもらおうと思ってて」
「やった、二日目のカレーってまた美味いよね」
(頻繁にカレー食べてるけど飽きないんだろうか……)
私たちは小さなテーブルを囲んで夕飯を食べていた。私は昼に美味しいパスタを食べすぎたせいかそれともこの環境のせいか、夕飯があまり進まなかった。そんな私をよそに、向こうはパクパクと胃袋に収めていく。どこに入ってるんだろう、あの量。
何度も美味しいと連呼する成瀬さんに恐縮しつつ、私はゆっくり頬張っていた。
「あれ?」
「どうしました」
「あ、これ今日買ったお皿か」
三度目のおかわりを無事平らげた成瀬さんは、空になったそれをみてようやく気付いたようだった。そう、成瀬さんが購入してくれたお皿二枚。本当に一緒に使うだなんて、あの時は思ってもなかった。
「今気づいたんですか?」
「はは、だってカレーに夢中だったしね」
「やっぱりこのお皿可愛いし使いやすいです、ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちだって。佐伯さんのおかげで出かけられて色々必要なもの買えたし、こんな美味しい出来立てカレーにもありつけたしさ。俺いいことだらけ」
目を線にして笑う彼に小さく微笑み返した。成瀬さんは言う。
「また、買い物とか付き合ってくれる?」
「え!」
「じゃないと休みの日家から出られないんだよね」
「は、はいそれは全然大丈夫です!」
「よかった」
社交辞令かもしれない、でも私には嬉しかった。たとえ買い物が目的でもカレーが目的でも、また出かける可能性があるのなら、少なくとも今日彼は退屈ではなかったんだろう。
私が丁度食べ終えたところで、成瀬さんが時計を眺める。その行動を見て、私はすかさず言った。
「あ、あの食後のコーヒーとか」
「ありがと。でも帰るね、図々しくも上がってごちそうになっちゃった。もう暗いし」
「そ、うですね……」
「よし皿ぐらい洗ってみせよう」
「あ、大丈夫ですよ! 洗い物少ないですし、お皿買ってもらったお礼ですから。置いといてください」
「ほんとに? 悪いね。そうだ、テーブル、ラインで送っておいたから! あとで見ておいて」
「ありがとうございます」
成瀬さんは立ち上がり、今日買った荷物を手に持つ。そのままスムーズな動きで玄関へと向かっていった。名残惜しさや迷いなんて一切感じない、そんな動きだった。
靴を履いて最後に振り返る。私は頬に命令して笑わせた。
「ありがとうございました」
「こっちこそ。おやすみ! また会社で。戸締りしっかりね」
そう手を振った成瀬さんは、扉を開けて外へと出て行った。その背中を見送りながら少しだけ唇を噛む。バタンと閉まり、紺色の冷たいスチール製のドアが静かにそこにあった。
じっとそれを眺める。そして、張っていた何かが緩んだように、大きくため息をつきながらその場にしゃがみ込んだ。
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