第10話 開いた方が塞がらない





 その日も少し残業をこなし、仕事を切り上げた。窓の外を眺めると、当然ながら真っ暗だ。いつの間に降り出したのか大粒の雨が見える。それを眺めながら、成瀬さんが倒れた日のことを思い出していた。


 そうだ、晩御飯どうしようかな。簡単にカレーでも大量に作って成瀬さんに持って行こうか。カレーなら手の込んだことをしなければすぐに完成出来る。家の材料も十分だし。


 そう思いながら帰り支度をしている自分の口角が上がっていることに気が付いた。駄目だこれ、完全に餌付けして楽しんでるかも。だって成瀬さん食べっぷりいいし、毎回美味しいって言ってくれるから、単純に見ていて気持ちいんだよなあ。


 そうと決まれば足早にオフィスを去る。エレベーターで下り、出口で一旦立ち止まった。やはり、雨が地面に怒りをぶつけているようだ。私は鞄の中から折り畳み傘を取り出そうと漁る。


「傘、入っていく?」


 背後からそんな声がしたので、振り返る。そこに立っていた人物を見て、息が止まる。


 大和だった。


 あの事件以来一度も顔を合わせていない。付き合ってるときはしょっちゅう会っていたので、やけに久しぶりに感じた。


 短髪で少しだけ釣り目。それがきりっとした印象で、私は好きだった。ノリがよくて豪快。高校の頃サッカー部のエースだったらしく、今でも休日に趣味でフットサルを楽しんでる。楽しそうにボールを追う姿が、とても爽やかだった。


 一年前、付き合おうといわれた日、私は本当に嬉しかった。喧嘩はするけど基本仲がいいと思っていたし、だからまさかあんな終わりを告げるなんて思ってなくて。


 もう過去のことで忘れたこと、とずっと思っていたのに、いざ顔を見ると色々思い出してしまった。やはり一番は怒り。ここ最近静まっていた怒りが一気に込み上げてくる。


 私に声をかけるなんて、どういう神経?


「大丈夫です。持ってるので」


 私は冷たくそういうと、傘を取り出してやや乱暴に開いた。すぐさま歩き出す。それを追って大和が隣に並んできた。


 雨が傘に落ちる音は大きく響く。それに負けじと、大和が声を張って私に言った。


「志乃、本当にごめん」


「別にいいよもう終わったんだから。それよりもう話しかけないで」


「連絡ずっと無視してるだろ」


「当たり前でしょ、なんで私があんたの連絡を見なきゃいけないの」


 イライラしながら答える。それでも大和は負けじと隣に並んだまま続けた。


「あの日、ほんと魔が差したっていうか……そんなつもりじゃなかったんだけど、酒に酔って、それで」


 私は足を止めて横を向く。傘から見える大和の表情がなんだか苦しそうで、それがなお自分の怒りを助長させた。苦しいのは私じゃないか、どうして大和がそんな顔してるの?


「言い訳はいいって。そのあとも付き合ってるんでしょ? 高橋さんは色々アピールしてくるし、沙織も二人が一緒にいるの見かけたって言ってたよ。別に邪魔しようとか思ってないから、お願いだから関わらないで」


「もう別れたから!」


 足を踏み出そうとして止まる。私はぽかんと口を開けて大和を見た。


「はあ?」


「ああなったからには責任取って付き合った方がいいかな、って思って付き合ったけど……可愛かったし。でもやっぱり違うって分かったから」


「……で、なんでそれを私に言うの?」


 色々突っ込みたいけど、一番聞きたいのはそれだ。浮気してその浮気相手と付き合ってみて、でも合わなかった。ああそうですか、私には無関係なお話ですねってことなんだけど。


 大和は力強く言う。


「これからは全力で償うから、許してほしい」


「…………はあ?」


 開いた口がふさがらない、とはこういう時に使えばいいのか。


 目の前の男はひどく真剣な顔で私を見ている。


 驚きで回らなくなってしまった頭を必死に回転させてみた。それはつまり、なんだ。もしかして、私とやり直したいって言ってる? そういうことなのか?


 雨の音だけがあたりに響いていた。その中で、大和の声だけが私に届く。


「都合がいいとは思ってるけど、でもやっぱり志乃とやり直したい。これからは絶対裏切らないから」


 必死な声で私にそう告げた。今までも見たことがないくらい真面目な表情で、私の頭の中に大和と過ごした日が蘇った。


 たかが一年、されど一年。二週間前のあの日まで、私は本当に幸せだった。


「……これからじゃない。

 これまでに裏切らなかったか、が重要なの」


 私はかみしめるようにゆっくり言った。


「酔った勢いだろうが魔が差したんであろうが、私という存在がいたのに止まれなかったという、その事実が大きいの。大和とこれから先のことは考えられない」


「志乃のことずっと脳裏によぎってた、でも強く迫られて断れなかったっていうか」


「断れなかった。それが答えなの」


 私は意見を覆さない。これ以上一緒にいては情が移りそうなので、すぐさま視線をそらして歩き出した。そんな私の正面に大和が経つ。再び足を止めて見上げた。


「志乃は俺のこと本当に好きだった?」


「え?」


「そう思えない。本当に好きだったら、あんな瞬時に俺との関係を断ち切れるのかなって。今だって、考えるそぶりもなく全然ぶれないし」


「好きだったから許せないんだよ!」


 つい声を荒げてしまう。大和も少したじろいだ。泣いてしまいそうな顔で、大和を思いきり睨む。


「分からないの? 好きじゃなかったら放ってるよ。好きだったから許せなかった、それが全てだよ。だからこそ苦しくて悔しくて怒った。でもそんなことしてても何も始まらないって分かったから、忘れることにしたの。私は私らしく頑張って前を向いて行こうって思ったんだよ!」


 大和は何も言わなかった。口を固く結んで、じっと私を見ている。私は今度こそ歩き出し、その場から去ろうと先を急いだ。


 そんな私の背中に大和がいう。


「でもきっと、志乃には絶対俺が合ってると思う。絶対またこっち見てくれる、俺は知ってる。この一年を思い出せば、志乃も分かるだろ、俺たちはすごく相性が良かった」


 返事すら返さず、私はその場から立ち去った。



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