第6話 危機管理がない人

「……とにかく、秘密です」


 成瀬さんはあっと思い出したように言う。


「それは全然いいんだけどさ、彼氏とか大丈夫? いい思いしないでしょ」


 言われてつい視線を下ろした。苦笑しながら答える。


「彼氏は今、いません」


「え」


「昨日からいません」


 ほとんど忘れていた大和と高橋さんのことを思い出す。すると成瀬さんの声が少しだけ低くなった。


「それは昨日、佐伯さんが珍しいミスをやらかしたことと関係ある?」


 どきっとする。


 緩んでいた気持ちが引き締まる。そのことで散々迷惑かけたのだ。社会人としてみっともないと自分でも思う。


 私は静かに頭を下げた。


「プライベートと仕事をごっちゃにさせるなんて、本当に情けないです。すみませんでした」


「まあ確かにプライベートを持ち込むのはよくないことではある。でも、私生活あってこその仕事だ。私生活が充実してなければ仕事も上手く行かないのは当然のこと。

 何かあったの?」


「……私の身近な子と、浮気されまして」


 苦笑いして答える。高橋さんの名前は伏せておいた。同じ部署内の人に言うのはよくない、と微かな理性が働いたのだ。正直言えば、言ってやりたい気持ちは十分ある。


 でももしかしたら、私の彼氏だと知らなかったのかもしれない。そうすれば悪いのは大和一人であって、彼女は騙されていたとも言える。


「すみません、それで上の空だったのは確かです。ちゃんと自分をコントロールできないうちは、休むのも手だと改めて痛感しました。たくさんご迷惑をおかけして」


「よかったじゃん」


 言いかけている途中でそんな言葉が届き、私は驚きで顔を上げた。雑炊を食べ終わった成瀬さんは、胡坐をかいていた。微笑を浮かべ、彼は私を見ている。


「そんなくだらない男だって気づけて。知らないまま時間を無駄にするところだったっしょ? 浮気なんてする男、ろくな奴じゃない。結婚なんてしてしまってたら大事」


「まあ、それは、確かに……」


「だから今気づけてよかったよほんと。

 すごく悔しいだろうけど、一番の復讐は佐伯さんが幸せになること。元カレにも浮気相手にも、それが一番辛いはず。忘れて佐伯さんがキラキラしてるのが一番堪えるはず。

 辛いけど踏ん張ってみな」


 そうきっぱり言い切ってくれた言葉は、すとんと自分の心に収まった。今の成瀬さんは、間違いなくいつもの成瀬さんだ。凛とした声、自信に満ちた言い方、誰しもが頷いてしまう説得力。


 胸が熱くなる。なぜか泣きそうになってしまったのを隠すように俯き、何とかお礼を言った。


 そうか、そうだ。私が余裕な顔して幸せになることが一番の復讐なんだ。あんなふうにミスをやらかすなんて、それこそ駄目なパターン。


 私は私として輝かなきゃならない。それが一番いい方法なんだ。


「成瀬さん、ありがとうございます、私なんか吹っ切れ」


 顔を上げてお礼を言いかけたとき、言葉を止めた。つい今さっきまできりっとしていた彼はいつの間にか床に寝そべっていた。床に頬をぴったり当て、幸せそうに目を閉じている。


 おい。


「ああ……お腹膨れたら眠くて幸せ……俺もうちょっと寝るわ。佐伯さんは……財布からタクシー代と食費とか取って行ってね…………」


「だからあ! 知り合いでも人に財布なんて預けちゃいけません! まだ治り切ってないんですよ、こんな床で寝たら悪化します、ベッドに戻って!」


「もう無理……一歩も動けない……」


「起きてええええ!」


 全身脱力してしまっている成瀬さんを必死に起こし、何とか立ち上がらせ寝室へ向かわせた。彼はもう半分夢の中のようで、目を瞑ったままのそのそと歩いて寝室へ入って行った。


 ベッドにダイブしたのを見送ると、私はぜえぜえ言いながら食べ終えた後片づけなどをし、簡単にメモ書きを残すと、ようやく成瀬さんの家から出た。この一晩で起こったすべてが、いまだに信じられなかった。あの成瀬さんを看病したどころか、とんでもない一面を見てしまった。多分、会社の人に言っても信じてくれないだろう。


 外に出ると寒さで肌が痛んだ。ぶるっと体を震わせながら、すぐ近くにある自分のアパートを目指して歩く。白い空を見上げると、自分の息がのぼって行った。


 ああ、でもなんだろう。


 すっごくすがすがしいや。


 ミスはしてしまったけど、それは何とか大事にならなかったし。色々ありすぎて大和のことは忘れていたし。成瀬さんに言われたセリフにも救われたし。


 昨日とはまるで気分が違う。


 少しだけ微笑んで、私は足を速ませた。月曜からまた新たな自分として頑張るんだ、そう意気込んで。






 週明け、出勤しすぐに仕事に取り掛かっていると、背後から声がした。高橋さんの声だった。


「おはようございますー。あのう、佐伯さん?」


 おずおずと話しかけてくる。私はキーボードを打ち込んでいた手を止め、くるりと振り返った。


 相変わらず毛先まで手入れの行き届いた彼女。私の様子を伺うように見ている。

 

 私はにっこりと微笑んだ。


「おはよう、高橋さん」


「お、おはようございます」


「これ、金曜日休んでたから預かってたよ、次の会議の資料のことだって」


 私は何事もなかったように笑顔で話した。普段通り仕事の指示をだし、どんな仕事の内容も丁寧に教えた。


 私が余裕をもって接することが、一番相手には痛い。そう言ってくれた成瀬さんの言葉を胸に、決してあの件には触れずに仕事を淡々とこなしていった。


 そんな私を、なぜか不満げに高橋さんは見ていた気がするが、気のせいだろう。そんなことを考える暇さえもったいない。


 私は私のことだけ考えるんだ。


 普段以上のスピードと集中力で仕事をさばいていると、背後から声がした。


「佐伯さん、おはようございます」


 振り返ると、成瀬さんがそこに立っていた。スーツを着こなし、髪型も表情もビシッさせた仕事モードの成瀬さんだ。最後にベッドに放り投げたときと、あまりに違いすぎて目をちかちかさせた。


「あ、成瀬さん、おはようございます。金曜はフォローありがとうございました」


「どういたしまして。

 これ、みんなに配ってるんだけど、頂き物のお菓子。どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 個装された洋菓子のようだった。差し出した私の両手にお貸しを置くと、にこっと笑ってすぐに去っていく。その後ろ姿を見送りながら、不思議な感覚に包まれていた。オンとオフがこれほど激しい人もいないよなあ。あ、土日ちゃんと食べてたのかな。出勤してきたってことは元気になったんだろうけど。


 私はふうと息を吐きながら、お菓子をしまっておこうと鞄を取り出したとき、焼き菓子にしてはやけに重みがあるな、と気が付いた。


 深く考えずに中を開けてみたところ、自分の精神は宇宙へぶっとんだ。



 家の鍵。鍵がひっそり、そこにあったのだ。


「……え」


 私は言葉を失くす。


 慌てて歩き出していた成瀬さんを呼び止める。何かの間違いじゃないか、だって確かに食事は届ける約束したけど、鍵を預けるなんて……!


「成瀬さ……!」


 言いかけた私に、くるりと彼が振り返る。そして何も言わず、ひとさし指を立てて口元に当てた。そのちょっとした仕草がどこか妖艶で、私は言葉を飲み込んだ。


 成瀬さんはそのまま他の子たちにお菓子を配っている。それを呆然と見つめたあと、とりあえず無くさないように財布にしまいこんだ。



(嘘でしょ……合鍵渡す? あの人財布も預けようとしてたし、危機管理なさすぎじゃない?)



 成瀬さんの頭の中、一体どうなってるんだ。


 これが、普段完璧と思われた成瀬さんと私の変な関係の始まりだった。




 

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