第2話 ない!!

 朝は晴れていたというのに、いつの間にか冷たい雨が降っていた。空気はかなり冷たく、頬を突き刺す。私たちは傘を差し、そのまま足早に駆け出す。


 今だけは忘れよう、大和のこと。私は社会人で、責任をもって仕事をしている。ミスしてしまったことはもう悔やんでも仕方ない、これからどうするかが勝負だ。


 そう決意を強く持ち、私は成瀬さんの黒いコートを追った。


 二人で駆け込み、髪を乱しながら頭を下げた。何度も何度も謝り、誠意を伝え、今後について話した。成瀬さんはさりげなく私のフォローに回りつつ、決して目立ちすぎないよう私にやらせてくれた。その絶妙な助けが本当にありがたくて心強くて、本当にこの人は凄い人なんだと思い知らされた。


 そのあと、再び雨の中を移動してもう一か所謝りに走った。足元はぐちゃぐちゃに濡れ、水を吸ったスーツは乾ききらないまま動いていた。


 成瀬さんのフォローも大いに役立ち、何とか大事にならずに済む。それを上司にも電話で報告した頃にはすでに周りは暗くなっており、直帰していい、と上司からの指示ももらっていた。


 電話を切ると、私は全身の力が抜けたように脱力した。目の前には成瀬さんが立ってこちらを見ている。私は最後にしっかりと頭を下げ、本日最後の謝罪を行った。


「成瀬さん。本当に本当に、ありがとうございました」


 彼が冷静に私を導いてくれたから、励ましてくれたからなんとかなった。さすが成瀬さんだと思う、堂々としてちっとも慌てない。


 成瀬さんは目を細めて笑った。


「俺何もしてないよ。佐伯さんについて回ってただけ」


「そんな! あんなにたくさんフォローしてもらって……というか成瀬さんが一緒に来たってだけで相手方もなんか半分許してくれてたみたいだし、本当色んな方面から信頼されてるんだなって」


「違う違う。普段から頑張ってる佐伯さんのおかげだよ。ちゃんといつも頑張ってるから、みんな今回は大目に見てくれたんだ。それはちゃんと自分を評価してやりな」


 優しい目でそう言ってくれる成瀬さんに、また泣きそうになる。いけない、今絶対化粧ぐちゃぐちゃだよ。涙とか汗とか雨とか、もう色々濡れてるんだから。


 ああもう、成瀬さんに欠点ってないのかな。かっこよくて優しくて仕事も出来る。女を三股かけるぐらいしなきゃマイナスにならない。


 成瀬さんは腕時計を眺めながら言う。


「無事済んだし飯でも……と言いたいけど、雨のせいでぐちゃぐちゃだしな。今日はおとなしく帰ろうか」


「は、はい。ほんとすみません、私のせいでこんな濡れちゃって」


「雨は佐伯さんのせいじゃないでしょ」


 そう笑いながら、成瀬さんが歩き出す。


 と、その途端、彼は急に力が抜けたようにがくっと膝を折ったのだ。


 私は驚きつつも反射的に、その体を支えた。


「成瀬さん!?」


「あー、うん、ごめん、大丈夫」


 そう無理に笑う彼の横顔は、暗闇でも見て分かるほど赤かった。もしや、と思い、私は許可も得ないまま彼の首元に自分の手のひらを当てた。


 目を丸くする。とんでもない熱があったのだ。


「成瀬さん、凄い熱ですけど!」


「あー、平気平気。帰るだけだし」


「わ、私が今日雨の中散々走らせたから……」


「佐伯さんのせいじゃないよ。大丈夫だから」


 そう力なく笑うも、彼の足はどこかふらついている。すべてが片付いて、ほっとしたせいだろうか。一気に症状が出たようだ。もしかして、熱があったのに無理して私に付き合ってくれていたのか。


 完全に私のせいだ。こんな寒い中雨に濡れちゃったし。


「送ります! 電車は無理ですよ、タクシーで帰りましょう」


「あー、じゃあタクシー捕まえてもらえるかな、あとは一人で帰るから」


「ちょうど来ました!」


 遠くから見えるタクシーを慌てて拾う。成瀬さんは頭を抱えながら顔をしかめている。頭痛などもあるのかもしれない。


「成瀬さん家どちらですか?」


 質問の答えを聞いて驚く。なんと、近所ではないか。私は最近今のアパートに越したばかりなので気づかなかったが、いずれ駅などでバッタリ会っていたかもしれない。


 それを伝えると、彼も驚いたように目を丸くした。


「そんな近かったの? じゃあ佐伯さんも乗ろう。俺が払うから、まず佐伯さんの家に寄って行こうか」


「え、そんな」


 慌てて辞退しようとしたところ、タクシーが止まり扉が開かれる。タクシーと成瀬さんに挟まれた私は、ここで時間をとるのももったいないと思い、そのまま素直に乗り込んだ。


 行き先を告げ、扉が閉じられる。成瀬さんは座ったと同時にぐったりと首を垂れた。やっぱり大分辛いらしい。


 静かに車は発進した。タクシー独特の匂いと雨の匂いが混じり、どこか不思議な感覚に感じる。


 雨でぬれた地面に街灯やヘッドライトが反射し、綺麗だ、と思った。水の中を走るタイヤたちが派手な音を立てて進んでいく。


 隣の成瀬さんがぶるっと体を震わせた。悪寒があるんだ、熱はさらに上がるかもしれない。


「成瀬さん、先に成瀬さんの方に行きましょう。早く帰宅して着替えた方がいいです」


「いやでも」


「タクシー代はまた今度会社で払ってもらいますから、ね!」


 もちろんそんなもの受け取るつもりはない、今日一日私のフォローをしてくれた労力を思えばタクシー代じゃ足りないくらいだ。成瀬さんはようやく頷いた。


 しばらく車は進み、やっと成瀬さんのマンションの前にたどり着いた。そこでさらにギョッとする。私の住むアパートと、目と鼻の先。まさかここまで近所だったとは。


 私が隣を見ると、彼は息を荒くしながらぐったりしている。


「成瀬さん、つきましたよ」


 恐る恐る声をかける。彼は頷くが、動けそうにない。これ、ちゃんと部屋まで行けるのかな。心配になってきた。


 私はタクシーに代金を支払い、部屋まで送ろうと心に決めた。肩を支えると何とか歩けた成瀬さんは、朦朧としてるのか何も言わないまま私に従う。触れた体は、さっきよりさらに熱くなっていた。


 部屋番号を聞くと微かに答えてくれる。エレベーターに乗り、そのまま進む。鍵すら出せそうにない成瀬さんに断りを入れ、鞄を拝借し鍵を取り出した。


 勝手に開けてすみません、でも緊急事態だから!


 謝りながら扉を開いた瞬間、まず驚いた。


 玄関にどんっとおいてあったのはゴミ袋だったからだ。しかも中身は大量のカロリーメイトの箱。いろんな味を試しているらしい。もう一つの袋はペットボトルのゴミ。


 へえ……成瀬さんも朝ごはんとかはこういうのですましちゃうのかな。男性はそんなもんだよね。だいぶゴミが溜まってるみたいだけど、出し忘れたのかな。


 私はそう一人納得しつつ、隣の成瀬さんに声をかける。


「靴脱げますか、私はここで」


 そう言い終えようとしたとき、彼の体が大きくふらついた。慌てて支えようとして、二人一緒になって廊下に倒れこむ。こりゃだめだ、成瀬さん本当に重症だ。


 私は何とか彼を引っ張りながらとりあえず廊下を進む。部屋の構造も分からないので適当に近くの扉を開けてみたら、ベッドが一つだけ置いてある寝室だった。ビンゴ、寝かせるぞ!


 と思った時、成瀬さんのスーツは雨で汚れてしまっていることを思いだした。このまま寝かせちゃ悪化するではないか。


「成瀬さん着替えできますか? 成瀬さん!」


「うん……」


 かろうじて返事が聞こえてホッとした。彼は力なくベッドに腰掛けると、そのままジャケットを脱いだので慌てて背を向ける。私があの成瀬さんの裸をお目にするわけにはいかん、女子社員に殺される。


「あ、えっと、あのーお水ぐらい持ってきます、冷蔵庫とか見てもいいですか?」


「ん……」


 うんだかううんだか分からなかったが、確かめるつもりはなかった。このままベッドに寝かせるだけでは危ない、水分と、できれば薬とか飲まさなければ。


 私は心の中で謝罪しつつ、寝室を後にしてリビングと思われる扉を開けたのだ。


 唖然とした。


 え、引っ越ししたて??


 リビングには本当に物がなかった。テレビとソファだけが見える。でもそのほか生活感らしきものが見当たらない。待て、テーブルというものも何もないぞ、どこでご飯食べてるんだ?


 首を傾げつつキッチンにお邪魔する。冷蔵庫を開けて、これまた唖然とした。


 ない。


 なんにもない。


 水しかない。ほか食物、調味料といったものが何一つない! 電気代の無駄!!


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る