完璧からはほど遠い

橘しづき

第1話 どん底からの失敗

 鞄から鍵を取り出す。まだ慣れない形のものだ。私のものではない、ただ預かっているだけの鍵。それを鍵穴に入れ回した。

 

 友人の結婚式のため、有給をもらい三連休をさらに延長させ、久しぶりに実家に顔を出していた。お喋りなお母さんは元気だったし、寡黙なお父さんも相変わらず優しかった。たっぷり実家を堪能したので、彼に会うのは少し久しぶりになってしまっていた。


 大丈夫、かな。私の心は心配でいっぱいだ。


「お邪魔しま」


 言いながら扉を開けたとき、玄関にあったのは大きなゴミ袋だった。ぎょっとする。中に見えるのはカロリーメイト、10秒チャージゼリー、時々フリーザーバッグ……。


 私は慌てて靴を脱ぎ捨てて中に入っていく。廊下はいつも通り綺麗だ、磨き抜かれている。さらに進みリビングのドアを開いた。閑散とした広いリビングがある。


 大型テレビに、一つのソファ。ただそれだけの部屋。殺風景にもほどがあるそこは相変わらずの姿をしている。


 黒いソファの上に、ごろりと寝そべる人の髪が見えた。私は駆け寄る。


「成瀬さん! 成瀬さん、生きてますか!?」


 その肩を揺する。着ている服はいたって普通の黒いスウェットだった。彼はううん、と声を漏らす。とりあえず生きてることにホッとした。


 成瀬さんは顔だけを起こした。前髪が寝癖でピンと跳ねている。端正な顔立ちをした彼は、私を見て不思議そうに首を傾げる。


「佐伯さん? あれ、実家に帰省するんじゃないの?」


「もう帰ってきましたよ!」


「え? そんなに経った?」


「成瀬さん、最後にご飯食べたのいつですか。何食べましたか!?」


 私が尋ねると、彼はその体制のまままた首を首を傾げる。なんとも首を痛めそうな形だ。


「ええと……」


「…………」


「今日……は寝てたかな……」


「…………」


「昨日……はテレビ見てたかな……」


「…………」


「一昨日……あ、確か朝はカロリーメイト食べて、夜は佐伯さんが冷凍庫に残しておいてくれたものをチンして」


「食べて!! 今すぐ食べて!!」


 私は右手にぶら下げていた紙袋を差し出した。彼はのそっと起き上がり、ソファに座ると頭を掻いた。どうでもいいシーンなのに、ドラマの中のような絵になるのは、このきりっとした顔立ちのおかげだろう。


 にこっと笑った成瀬さんは、私に言った。


「ありがとう。佐伯さんおかえり」


 そして差し出した紙袋を手に取り、ようやく中からタッパーやおにぎりを取り出すと、彼は美味しそうにほおばりだしたのである。


 私は脱力して床に座り込んだ。ぐるりと部屋を見渡し、普段と変わりない生活感のなさにあきれる。ダイニングテーブルもないどころか、ソファ前のローテーブルさえない。冷蔵庫はかろうじてあるもののそのほかはキッチンはすっきりしている。


 まさかほぼ二日間、何も食べずにいただなんて。なんという人間。


 信じられない気持ちでおにぎりを頬張る男を見る。


 佐伯志乃、二十六歳。社会人になってそこそこ経ち、世の中には信じられないことがたくさんあるんだと理解はしているが、今だこの人の生態が理解できない。


 彼は成瀬慶一。何を隠そう、私の勤める会社の営業部で、最もいい成績を収め出世コース間違いなしと言われている、完璧人間なのだ。






 私と成瀬さんの不思議な関係が始まったのは、ほんの二週間前のこと。


 その日私は、絶望の中出社していた。


 ずっと順調な日を送っていた。大学を卒業後、希望していた会社に就職でき、さらには営業部に所属。仕事はもちろん辛かった。でも毎日踏ん張って踏ん張って、先輩たちから吸収できるものは何でも学び、日に日に成長しているのを感じていた。就職して四年、仕事も一人前にこなし、やりがいのある毎日を送っていた。


 プライベートも充実していた。付き合って一年になる恋人、大和とも上手く行っていた。喧嘩もするけど仲もいい。大和は部署こそ違うものの、同じ会社に勤めていた同期で、公にしていたわけではないが仲のいい友人たちは知っていて、温かく守ってくれていた相手だ。


 私は今年、一人の後輩の指導係になった。新卒ほやほやの可愛らしい女の子で、名前は高橋あずさ。長い髪を緩く巻き、ネイルもしっかり施す完璧な女子だった。顔も美少女なので、男性社員たちがあからさまに彼女に優しいのを、ひしひしと感じる。


 高橋さんは明るく返事はいいのだが、仕事はできなかった。誰でも最初は出来なくて当然なので根気よく教えるも、はーいと返事をしてメモも取らない。任された仕事は少しでも難しいと、他の男社員に困ってるんだとアピールして手伝ってもらってばかり。


 ミスして私が注意すると、この世の終わりとばかりに泣きそうな顔をされ、悪者は私になった。正直、高橋さんの犯したミスで私が残業しなくてならないことが多くなり、苛立っていたのも否めなかった。彼女は残業をお願いしても、いつの間にか消えていなくなっているのだ。


 前日の夜も必死に残業し、遅い時間に帰宅することになった。くたくたなまま街中を歩いていると、なんというタイミングか。


 高橋さんと大和が仲良くホテルから出てくるのを見てしまった、というマンガみたいなハプニング発生だ。


 頭が真っ白になるとはこういうことを言うんだと思った。でも、即座に殴ったのは高橋さんではなく大和だったのは自分で褒めたかった。その場で別れを宣言し、一人帰宅したのだ。


 大和からは何やら連絡が来てたけど、読まずに無視している。



 翌日、正常な自分でいられるわけがない。



 逃げるようで嫌だったから、出社はした。その日は金曜だったから、一日頑張れば休みなんだしと自分を言い聞かせて。高橋さんの方がなぜか休んでいた。まあ、私に合わせる顔がないのは当たり前ではある。


 その日は驚くようなミスを繰り返し、ついには取引先が怒鳴って怒るほどのことを初めてやらかしてしまった、というわけだ。


 こんなことなら出社するんじゃなかった。おとなしく休んで部屋で泣いていればよかったんだ。変なプライドで会社に来たけれど、結局周りに迷惑かけているだけだ。


 心の中がぐちゃぐちゃでどうにかなってしまいそうなとき、私に声をかけてくれた人。


「泣いてる暇はない。起こったミスを悔いても何も変わらないよ。

 とりあえず謝りに行こう。俺も行くから」


 凛とした声に顔を上げる。



 成瀬さんだった。



 成瀬慶一。年は二十九。入社したころから、そのコミュ力と判断力は凄まじく、一気に営業部トップに躍り出た凄いお人。


 ビジュアルも優れていた。バランスのいい目や鼻、普段は大人っぽいのに、笑うとくしゃっとなる少年顔。女子社員たちはみなハートを射抜かれていた。営業部だからもちろん、清潔感のある身だしなみで、面倒見もよかった。いつだって困ってる人に声をかけ、褒めるところは褒め、みんなの士気を上げてくれているものすごい存在だった。その仕事っぷりは文句のつけようがなく、細かなミスもしない完璧人間。いつでもスマートで余裕たっぷり。


 彼が出世しないなら誰がする? なんて思うほど、上からも下からも人望が凄い。


 とにかくみんなの憧れでいつでも完璧に仕事をこなす最高の先輩。それが成瀬さんだ。

 

 私は同じ部署でありながら、仕事上の会話しかしたことがない。話しかけるのすら躊躇ってしまう、そんな相手だ。


「な、成瀬さん」


「よし、行こう。大丈夫、なんとかなる。佐伯さんがいつも真面目に頑張ってること、向こうも分かってるから」


 そう白い歯を出して笑ってくれる成瀬さんに、私は今度こそ涙を零した。だがすぐにそれをぬぐい、置いてあったコートを手に掴んで二人で外に飛び出した。

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