第25話 朝が来た

 曲が終わったのを見計らって部屋に入るとヘッドフォンを外した和奏はちらりと僕を見上げ、体温計を耳に突っ込んだ。


「和奏……その……大丈夫か?」

「うん! ほら、熱も下がったよ!」

「おー」


 差し出された体温計は確かに平熱と言える数字が表示されていた。その小さな額に手を当てると、本来の少しひんやりとした感触が感じられる。


「ふふっ、心配性だなぁ柊くんは」

「そんなことは無い」

「心配しないでよ、柊くん。ちゃんとここにいる。わかる?」

「心配なんか……」

「ふふっ、じゃあそういうことにしておいてあげるよ……柊くん。まぁたまには、私を信じてみて欲しいな」

「疑ったことなんて……」

「あぁ、ちょっと違うか……そうだなぁ……まぁ、あれだよ、ほら……何から何まで守ってもらわなきゃいけないほど、弱くないって話だよ。道端の小石まで全部どけてから私を歩かせようとしそうな勢いだよ、今の柊くん」

「それは……」

「何から何までしてもらわなきゃいけないほど、もう私も弱くない。色々あったんだ、私にも。疑ったことが無いのなら、私の強さも信じてよ」


 和奏の歴史。僕の知らない物語。


「信じると疑わないは、違うと思うんだ」

「そうか……そうだな……わかったよ……和奏を信じる。信じられるように頑張る」

「うん! それでよし!」


 ニッと笑った和奏の笑顔。それだけ僕の中のもやは消える。


「夕飯、何が良い?」

「んー……うどん!」

「はいよ。まかせろ。なぁ、和奏」

「ん?」

「君が死ぬのはいつだって僕の次だ」

「うん。わかってる」

「良い曲だったよ」

「ありがと。本番も楽しみにしていてよ。結果的には良かったかも……学校で頭の中で作るより、ちゃんと作れたし」

「結果論だ。自分を大切にしろ」

「柊くんが大切にしてくれるじゃん」

「和奏!」

「はーい、ごめんごめん」


 部屋を出て静かに息を吐いた。もしも和奏がどこかの誰かと結ばれる日が来ても、僕はきっと和奏のために生きるのだろうと、そんな未来が容易に想像できた。

 何者でもない僕のそんな未来だけは妙に鮮明に見えたんだ。



 文化祭が始まる朝になった。和奏は大丈夫か、もしものことを考えている間に浅い眠りのまま朝になってしまった。

 和奏の今日のステージに賭ける思いは痛いほど知った。だから祈る。和奏がステージに立てるように。

 いつもより早い時間。和奏の部屋の扉が開く音に顔を上げる。


「おはよう、柊くん」

「和奏……」


 伸びをしながら歩いてくる和奏は眠たげに目を擦って微かに笑って。


「私のこと考えてたって顔してる」


 にまーっとした笑みを視界の外に追いやりたくて、僕はまた俯いて。


「……なぁ、和奏」

「ん?」

「なんで、今日のステージに拘るんだ」


 それだけがわからなかった。和奏が望めばステージなんてすぐにとはいかなくても用意できるはずなんだ。なのに高校の文化祭のステージに不調や準備不足を押してでも出ようとする。

 そんな僕の疑問が意外だったかのようにポカーンとした顔を一瞬見せて。


「簡単なことだよ」


 人差し指を一つ立てた和奏が当たり前のように。


「そこに私の立てるステージがあるからだよ。ステージの上ではいつだって全力だよ。今の私の全部をそこに出すの。そのために頑張るの」


 当然のようにそう言って。


「ステージに貴賤なんて無い。私の音楽を聞きたい人がそこにいて、奏でたい私がここにいる。ただそれだけのことなんだよ」

 それだけ。それだけの理由が和奏にとって大事で、全力になるためには十分な動機で。

 欠伸を一つ、エプロンを付けた和奏はキッチンに立つ。


「もう少し休んでなくて良いのか? 今日は僕が……」

「いつも通りに戻らせてよ」

「けどよ……」

「私を信じる、でしょ?」

「ズルい奴だなぁ」

「ふふっ」


 それから冷蔵庫を開ける音、コンロに火を点ける音。何かを焼き始める音。


「でもまぁ、今日は身体をこれでもかってくらいに温めるメニューにするよ」

「あぁ。任せるよ」

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