第2話 はじまりの朝は懐かしく優しい香り

 カーテンから差し込む明かりが、眩しい。……なんだ、この匂い。

 身体を起こす。全身が少しずつ、起きてくるのを感じる。


「……何だ?……味噌汁?」


 懐かしくも温かな香りが、このマンションの一室でした日なんて一度もない。

 自室を出てリビングに入ると、そこには客用の布団がきれいに畳まれていて。


「おはよう、柊くん。柊くんって味噌汁にジャガイモ入ってるの好きだったよね?」

「あぁ……あ? ……なんで和奏」

「あれれ~ 忘れちゃったのかな? 昨日あんなに熱い夜を過ごしたのに」

「流石にそれが嘘なのはわかる」

「チっ」

「騙されて欲しかったのか……君、料理とかできる人だっけ」


 昨日送りつけられた、処理に困っていた食材の数々が見事に料理になっていくのを見ると感動すら覚える。


「実家出て一人暮らししてたらね。やるやらないに関わらず、家事一通りできないなんて甘えてるよ。ところでこのキッチン、使われたことのある形跡が見当たらないんだけど」

「気のせい気のせい」


 基本的に外食で済ませてるから使うことない。たまにお湯を沸かすくらいだ。


「ふーん。うわ、食器も埃被ってるじゃん。家でご飯食べてるの?」

「たまに」

「ふーん」


 伸びをした。肩、腰、少しずつ血が通う感覚がして、脳が目覚めてくる。


「ところでまだ六時だよ。いつも何時に出てるの?」

「八時」

「だよね。学校近いし」

「あぁ。じゃあ僕は準備するから」


 顔を洗って制服に着替えるだけにして、寝室の隣の部屋に入る。


「はぁ」


 防音がしっかりしているマンションだから。ちょっとしたトレーニングマシンを使っても苦情とかは来たことがない。こうして身体を動かしているうちに頭がすっきりしてくる。少しだけ気分が前向きになる。ついでに体力や筋力をキープできる。


「はぁ」


 タオルで汗を拭いて椅子に座って。冷静になった頭が考える。

今、僕が何よりも欲しいと思っているのは……ちらりとカメラのカタログに目をやってそして首を横に振る。はぁ。


「ねぇ」

「うおっ」

「朝ごはん食べないの?」

「普段は食べない」

「馬鹿なの?」

「なぜ朝ごはん食べないだけで馬鹿者呼ばわりされねばならんのだ」

「いや、朝ごはんの重要性なんて小中学生でも知っているでしょ。それに今運動してたんでしょ。ならなおさら……」

「いいよ。朝はあんまり食欲ないし」


 そう言うと、和奏は「んー」と悩まし気な声を漏らし。


「二人分作っちゃったんだけど」

「……わかった。食べる。その前にシャワー浴びるけど」

「それは、はい、そうしてください」


 折角作ってもらったものを無下にするのは、あまりにも申し訳なかった。

 髪を拭きながらリビングに入ると、空腹を思い出させるだしの香りに出迎えられる。

 食卓には二人分の食事が。ご飯、味噌汁、だし巻き卵には大根おろしが添えられていて。さらにほうれん草のおひたし。お手本のような品揃え。


「さぁどうぞ」

「いただきます」


 正直、朝は食欲が湧かないけれど。


「あ、美味い」


 一口味噌汁を飲めば、身体に熱が広がって、全身が目覚めていくような気がした。受け入れ拒否していた胃袋も口を広げて次の料理をと急かしてくる。

 ふと見ると、頬杖ついてニマニマとした笑みを浮かべていた和奏。


「なんだよ」

「ん? ふふっ。どうだ!」

「美味しい」

「そかそか。それは良かった」 

「食わねぇのか?」

「食べる食べる。柊くんは良いよね、何か評価するときは、いつも正直で、だから信用できる」

「そうか? 正直、トラブルの種だと思うけど」

「私は良いと思う。中途半端に持ち上げられても困るし。適当に貶されてもムカつくし……君はいつだって、真っ直ぐだよ。君の言葉は、真っ直ぐだ……コーヒーそろそろできるかな」

「あ、あぁ」

「弁当もできてるし、お夕飯何が良い?」

「え、いや、それは任せるが」

「そういうのが一番困るの!」

「あ、あぁ、悪い」


 何にしよう……じゃなくて。


「……いや、良いのか?」

「ん? 何が?」

「いや、任せて良いのかって。別に今まで通り適当に外食で……」

「お家に置いてもらうんだし当然でしょ。それにほら」


 和奏が見せてきたスマホには。『子どもからお金出してもらうなんてとんでもないわ。柊に食費も預けてあるから、それを使ってね』とあり。


「貯金あるんだけどなぁ……というわけで、家事は任せて。下着とか洗われるのも恥ずかしいから洗濯も私がするから」

「あー……あぁ」

「それと使って無い部屋あったら一つ貸して?」

「あぁ。あ? あぁ、そうだな」 

「ありがと。それとさ、今週末、柊くんのお母さんがお買い物行きましょって」

「……いってらっしゃい」

「柊くんも来てね」

「……はぁ」


 まぁ良いか。

 まぁ良いかと思わせるビームが放たれてるな。


「まぁ良いかビーーーム」

「マジで放ってた!」


 カラカラと軽やかに笑った和奏の手元には空になった皿。


「柊くんも早く食べちゃってね」

「あ、あぁ」


 え、いつの間に食ってた?


「歌手時代は忙しかったからねぇ」

「引退じゃなくて休止だろ」

「……うん」


 目の前に置かれたコーヒー。少し苦みは強いが朝にはちょうど良いな。

 


 

 「私は明日から登校だから、いってらっしゃい」

「あぁ。……いってきます?」

「なんで疑問形?」

「いや……なんか変な気分だ」

「えー?」


 誰かに送り出してもらうのも、誰かにいってきますを言うのが随分と久しぶりで、そのうえそれが親じゃなくて他の誰かというのが、初めてで。 


「……うん。いってくるよ」

「うん!」


 マンションの五階から見える景色はいつもと変わらない。でもいつもよりはどうしてか背筋を伸ばして見られた。

 ビルの森、その手前に見える住宅街、その間を通り抜ける線路。見慣れた景色。それが少し明るく見えた。

 無意識にスマホを取り出し、パシャっとその景色を切り取って収めた。この感覚、久しぶりだな。気がついたらシャッターを切ってるの。ちょっとだけ、機嫌良いんだな、僕。

 そう、僕は和奏との再会を、存外歓迎していた。

 これから始まることに、少しだけワクワクしていた。変化の気配を、感じていた。

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