第2話

 吾輩は備え付けの風呂を沸かせて、少女を放り込んでやった。


 しかし待っているのも時間の無駄だろうと、現在、吾輩は書斎の本棚から十数冊のノートを持ちだして、来客用のリビングで腰を下ろしていた。


 ぱちぱちと火花を散らす暖炉を背に、蒲公英の根からつくったコーヒーを啜りながら、ノートをぺらりぺらりと捲っていく。


 これらは吾輩の日記である。10の頃から週に一度、あるいは思い立った際に筆を走らせてきたノートの山は、実に100冊を超えている。


「…………これで最後であるな」


 覚えている限り、その内容に変わりはない……が。



 吾輩が最後に日記をつけたのは、処刑台に上る一か月前のこと。神聖歴962年6月半ば頃のことである。逮捕状を突き付けられ、裁判で戦うための準備と並行し、友の仇を探すべく奔走していた時期だ。


 しかし、この最後の日記の日付は、958年12月3日となっていた。


 おおよそ三年と半年間の日記が、ごっそりと無くなっていたのである。

 極めつけは、吾輩の腹である。


 年のせいか、30を超えたあたりから少しずつ膨らんできた腹の贅肉は、刑罰を受けた末に失われたはずである。最後はあばら骨さえ浮かせて、スケルトンもかくやという姿だったのだ。


 ぽんぽんと、我が腹を撫でさする。


―――やはり戻っておる。


 もはや慣れ親しんだ柔らかな触り心地に、吾輩は小さく首を傾げる。なぜか死んでおらず、夢でもない。季節が変わり、日記は消え、腹が戻っている。


 これでは、まるで……。


「何を読んでおるのじゃ?」


 考え込んでいると、だぼだぼのローブを身にまとったアルター=ロリトールが部屋に入ってきた。風邪をひかぬよう、風呂を出たらここに来るように言っておいたのだ。


 よく見ると、彼女の顔から白い湯気が立ち上っておる。どうやら、しっかりと体を温められたらしい。


「これは日記である。いわば吾輩の人生の軌跡……大切な宝物であるな」

「そんなものを読んで面白いのか?」

「面白いか面白くないかで言えば、面白いのである」


 実際、軽く調べるつもりでぱらぱらとめくり始めただけなのだが、つい読みふけってしまったのである。


「なるほどのう。二度目の生を満喫しておるようで何よりじゃ」

「二度目の生、とな?」

「感謝せいよ? 処刑寸前の貴様を、儂が過去に戻して助けてやったのだ」

「過去に戻した? 助けた?」


 言葉はわかるが、言っている意味がまるで分からない。それはまるで御伽噺のようではないか。


 老人のような口調も相まって、胡散臭さの塊である。


「言葉通りじゃよ。どれ、順を追って説明してやろう」

「ううむ………ひとまず聞くのである」


 少なくとも、吾輩の処刑のことを知っているようであるし、聞く価値はあるだろう。明らかに子供の姿でありながら、その口調も相まって、妙な貫禄もあるわけであるし。


「改めて、儂は『嘘の魔女』アルター=ロリタール。アルターと呼ぶがよい。短い付き合いになるだろうがな」

「ふむ。吾輩はジジ=アルデベロン。ジジと呼ぶとよいのである」

「ジジ……隣の法国の言葉で『愚かな人』、極東では確か『翁』か。変な名前じゃな」

「道化の吾輩にピッタリであろう?」


 この名はちょっとした自慢なのである。


「さあのう。儂は貴様のことはよく知らん」


 アルターは『よっこらしょ』と年寄り臭いセリフと共に、吾輩の隣に座り込むと、吾輩の飲んでいた蒲公英コーヒーをごくりごくりと飲み干してしまった。


「『嘘の魔法』は便利な力でな」


 アルターが続ける。


「簡単に言うと、儂の『嘘の魔法』で過去に戻してやったのじゃ。死んだ人間には使えぬので、ちと焦ったぞ」

「………いろいろと気にはなるが、まず、その、『嘘の魔法』とか、過去に戻るというのはなんなのだ?」

「そうじゃのう。ジジは『魔術』が何か、知っておるか?」

「もちろんである。火、水、風、土の四代元素にまつわる奇跡。昔は神の御業だと言われていたが、昨今の研究では自然現象を利用した技術だと言われておるな」


 基本的に、魔術というのは魔力を呪文や陣に通すことで発現する。ただし、誰でも使えるというものではない。魔力こそ生まれつき誰もが体内に持っているが、魔術を使うには呪文の内容や陣の書き方など、知識が必要なのだ。


 ……などと偉そうにしたが、魔術師ではない吾輩にわかるのはそのくらいである。


「その説明では、儂ら『魔法』を使う人間からしたら不十分じゃが、概ねその通りじゃな」

「先ほどから口にしている『魔法』というのも、魔術とは違うものなのか?」

「うむ。『魔術』が自然世界への干渉であるのに対し、『魔法』とは概念世界に対する干渉じゃな」

「…………つまり?」

「……素人に説明するのは面倒じゃのう。儂の『嘘の魔法』を例にしてみるか」


 アルターの説明は、次の通りである。


 曰く、『嘘の魔法』で吾輩が死ぬ現実を『嘘である』と定義づけた。


 曰く、否定した現実を利用して、三年と三か月と三日と三時間と三十三分と三十三,三三三秒前の過去に飛ばそうとした。


 曰く、吾輩は『波長』とやらが合う人間だったらしい……が、見つけた時には殺される寸前だったという。


「にわかには信じられぬ話であるが………」

「儂は嘘つきじゃが、意味のない嘘は好まん」

「ううむ………しかし、目的はなんなのだ?」


 吾輩が助かったのは、アルターのおかげだとしよう。気になるのは、『なぜそんなことをしたのか』である。


 聞いたところ、アルターが吾輩を助ける理由が見当たらない。どうやら、吾輩は偶々彼女のお眼鏡にかかっただけのようであるし。


「この国の、第三王女イレェナを助けたいのじゃ」

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