第4話 虚ろな目をした男
『た、頼む、助けてたもれ……!! 糸が解けんのじゃ……!!』
「ジィッ!! ジィッ!!」
念話と鳴き声が重なる、明らかに異常な蝶だと分かるだろうに中年の男は特に驚く様子もなく、無表情のまま小さく呟いた。
「こんなにボロボロになっても生きているのか……」
男は抑揚のない声で呟くと周囲を見回し、木の根元に生える先がくるまった植物を千切った。
そして茎の先端から滴る汁をグリューンと枝を繋ぐ糸に垂らし、指で擦り始める。しばらくして糸がプチッと音を立てて切れた。
グリューンの体にまとわり付いた蜘蛛の糸にも汁を垂らし、グリューンの体を両手で包む。
男の感情の籠もってない表情とは裏腹に、手はとても暖かく感じた。
「この汁で魔蜘蛛の糸の強度と粘着力が大分弱まるんだ。くすぐったいかもしれないが少し我慢してくれ」
男は少しだけ口元を緩めると、優しい手付きで糸を揉み解しだした。グリューンの腹や足を潰さぬように、優しく。
『……助けてくれるのか?』
ピタリと指を止める。つい問いかけてしまったが失敗だったか、とグリューンは反省するが、男は再び指を動かす。
「そうだよ。だからじっとしていてくれ。複雑に絡みついてしまっているから、動かれると君の体を傷つけてしまうかもしれない」
『わ、分かったのじゃ……』
眼の前の男は目や表情こそ虚ろだが、声はとても優しく、敵意も悪意もないのが感じ取れた。
「こんな小さい身で……さぞ苦しかっただろう?」
自分を労る優しい言葉が、ずっと孤独だったグリューンの心に染みた。
『お主……名は何というのじゃ?』
「……シーヴァ」
『シーヴァ……! 妾はグリューンじゃ! 人は皆死んでしまえと思っておったが、お主のように良い奴もおるのじゃな……!!』
グリューンの念話にシーヴァは視線を伏せて、何も答えなかった。
そこからどれほど揉み解されていたのか――糸が解かれていく。そしてベタついた蝶の体も丁寧に汁で拭かれ、グリューンは本来の体ではないにしても体を自由に動かせるようになった。
そっと木の根元に置かれたので、羽を動かしてみる。
垂らされた汁や糸をこすっている間にシーヴァの指が少し切れて僅かに血が出た為か、水分を帯びた羽はまだ飛べそうにはないが、トコトコと細い脚を動かして移動する喜びを噛み締める。
「……可哀想に」
男がそう呟いた後、近くにある石を持って土を掘り始めた。グリューンは邪魔にならない距離にまで近づいて、念話で問いかける。
『何をしておるのじゃ?』
「そこの子、野ざらしにしておくのも可哀想だから埋めようと思ってね……本当は焼いてから埋めた方がいいんだが、ここで火打ち石を使うと火事になりかねないし、そこの体をこれ以上火にくべるのは……」
グリューンの焼け焦げた体は、グリューンの魂が蝶に入れ替えられてからもずっと変わらずそこにある。腐る事も、崩れる事もなく。
何故か、はグリューンには分からない。ただ醜い体を見る度に絶望と復讐心に駆られた。だが――
「……顔の半分を見る限り、とても可愛らしい子だったんだろうね。何があったのかは知らないが、本当に……可哀想に」
シーヴァの悲しそうな声がグリューンの傷ついた心に優しく触れる。
もしグリューンが元の体にいたならば大粒の涙を零していただろう位に、シーヴァの声と言葉はグリューンの心を癒やした。
『それは……妾じゃ。妾の本体じゃ』
グリューンが呟くと、グリューンの気持ちを察したのか指でトン、とグリューンの頭を撫でた。まるで慰めるように優しい手付きで。
グリューンがその指にしがみつくと、腕を伝って肩によりそい、堰を切ったようにこれまでの事をシーヴァに話しだした。
シーヴァは穴を掘るのを止めて、木に寄りかかってグリューンの話を聞いた。相槌こそ打つものの、何を問い返す事もなくグリューンのこれまでの話を聞き終える。
「精霊王の子……幼い頃からこの森には精霊を偽る魔族が住むと聞かされていたが、本物だったのか」
『……信じてくれるのか?』
膝下に止まって羽を畳んだグリューンが男を見上げると、やはり男は何処か虚ろな目で、口角を微かに上げる。
「ボクが信じる事で君が少しでも楽になるのなら、信じるよ。大変だったねえ」
数百年、ずっと孤独だったグリューンにとってその言葉は深く染みた。
『妾には、もう、仲間も家族もおらん。騙されて、裏切られて、信じてもらえなかったのじゃ……』
「……辛かったねえ」
『お主にも何か礼を、と思うのじゃが……こんな身で何のお礼もできんのが悔しい』
せめて体に戻れたなら、亜空間に収納した精霊石を取り出せたならいくらでも役に立てたのに、微妙に魔力が違う体では亜空間に接続できないし、それができるだけの魔力もない。
「別に、何も求めていないよ。君が大変そうだったから助けただけだ。お礼してもらったところで意味がないしね」
『……どういう意味じゃ?』
シーヴァの言葉の意味を測りかねたグリューンに彼は困ったように微笑む。
「ボクは、ここに死にに来たんだよ。君を助けたのもせめて最後に善行を、と思っただけなんだ。君の体を埋めた後、君が元気に飛び立つ姿を見れれば、もうこの世界に思い残す事はない……」
シーヴァの目に一切の輝きが無いからだろうか? グリューンから視線を知らして地面を見据える男の微笑みと声には優しさ以上の哀愁を感じる。
会ってからずっと虚ろな目にグリューンの心がギュッと締め付けられた。
『……何があったのか聞いても良いか?』
「…………面白い話じゃない」
『面白さなど求めておらぬ! まだ体も飛べる程には動かせんし、妾の話を聞いてくれた礼に妾もお主の話を聞いてやる!』
シーヴァはチラ、と再びグリューンに視線を向ける。無表情で、一切の感情が籠もっていない目にグリューンは寒気を感じた。
『ええい! その目を止めい! お主の目はさっきからずーっと虚ろじゃ! 妾も可哀想じゃが、お主の方がよっぽど可哀想に見える! 愛する弟に裏切られ、家族に信じてもらえずに故郷を追い出されて下等な存在に辱めを受けた妾の方が絶対可哀想なのに、じゃ! 妾はそれが気に入らんのじゃ! 一番可哀想なのは妾なのじゃ!!』
グリューンなりの励ましだったのだが、言い方が不味かったのだろう。男は眉を顰め、再び地面の方に視線をそらした。
『き、気を悪くしたなら謝る。悪気はないのじゃ……妾はお主に話してちょっと楽になったからお主も楽になってくれればと思ったのじゃ。数十年しか生きておらぬ人の苦しみなど、妾に比べれば大した事ないものじゃ。だから気兼ねせずにさっさとその目の奥にある淀みを吐き出してしまえ』
男はグリューンの言葉に返事をかえさなかった。断らない、という事はこの男の心の何処かで聞いてほしい、と願う心があるからだろう。
「……そうだね、人外の者にとっては大した事ない話かもしれない」
長い沈黙の後、皮肉のように溢れた言葉に怒りは帯びていなかった。
そしてまた、長い沈黙が漂う。何百年も魔蜘蛛の糸と戦ってきたグリューンにとってはその時間は大した事ではない。
「……何処から、話そうかな」
頭上の木々の間に見える赤く染まりかけた空を見上げながら、シーヴァはポツリと呟いた。
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