第10話 緑の始まり


 この世界でたった1つだけ、ずっとグリューンに味方してくれる存在があった。


 それは常にグリューンの心を慰めるように温かく、涼しく、彼女を柔らかく包み込み、花の甘い香りを届け、動物の死臭の匂いを遠ざけた。

 雨の日も風の日も、グリューンが辛くならないようにと出来得る限り彼女を守った。


 だから――それもきっと、全てを見ていた風の善意だったのだろう。


 全身の傷もボロボロの服も元通りになって眠っているシーヴァの胸元でじっと羽を休ませるグリューンに風が吹き付ける。

 夜明けの冷たい風に混ざる喧騒は、大分離れた場所の物なのか、所々掠れている。その中で一際はっきり聞こえる声があった。


「あ、あ……誰か……誰か、助けて……!」

「お前のせいで、兄さんは……!!」


 風が運んできた残酷な悲鳴と微かな焦げ臭さは、何もかも最悪の結果に終わった事をグリューンに告げた。


(……愚かな)


 これでシーヴァが守りたかった物は全て壊れた。自分の家族も、自分の家庭も、弟の家庭すらも。

 人の為に生き、心に深い傷を負っても誘惑に負けず、真面目に生きた男の過ちはただ1つ、生き延びようとした事だけ。


 絶対に生きて帰ってくる――その約束を果たそうと足掻いて、果たして、全てが壊れた。

 周りがどうしようもなく愚かで、臆病で、狡猾であったが故に。


 そんな人間達の為に生きようとしたから、信じたから裏切られ、こんな事になった。

 シーヴァが誰の命より自分の命を大切にしていれば、こんな事にはならなかった。


(……だが、こやつがそういう人間じゃからこそ、妾が助かったとも言える)


 シーヴァが絶望に落とされていなければグリューンは助けてもらえず、水溜まりに落ちたまま死んでいたかもしれない。

 そういう意味ではシーヴァはグリューンの命の恩人でもある。

 心も命も救ってくれた恩人が底のない絶望に突き落とされていくのを見ていられなかった。


 シーヴァの優しさを否定する気にも、愚かだと罵る気にもなれなかった。


(安心せよ……これからは妾が守ってやるのじゃ。楽しい生き方を、妾が教えてやるのじゃ)


 何の荷物を背負う事無く、自由に何処にでも飛び回り、嬉しい事があれば喜び、嫌な事が起きれば怒り、悲しい事があれば悲しみ、楽しい事は楽しむ。したい事をして、したくない事はしない。妖精にとって当たり前の生き方を。


 哀れで、愚かで、体の一部を失ってでも助けたいと願ってしまう男に対して、グリューンはかつて家族に抱いた穏やかな感情と、これまで誰に抱いた事のない激しい感情を抱く。


 それは人が恋と呼ぶものであり、愛と呼ぶものに限りなく近いものであった。


「う……」

『目が覚めたか!?』


 朝の光が目に差した明るさで少し顔を歪め、微かに呻いたシーヴァにすかさずグリューンがパタパタと顔に寄って呼びかける。


「……ここは? ボクは、一体……」

『……き、記憶喪失か?』


 頭を抑えて身を起こしたシーヴァにグリューンが恐る恐る尋ねると、シーヴァはグリューンを見据えた後、ぼんやりとした様子で声を紡ぎ出した。


「……いや、君、に色々話した事は覚えてる……精霊石がどうのとか言って……そこから先が全く思い出せない……」


 シーヴァの言葉にグリューンはホッとする。

 何の価値もない真実も、絶望の底を見るような暗い事実も――今の彼の中にはない。


 体の傷が無くなったのも記憶が無いのも、全てはグリューンの本体に刺さっていた宝珠の欠片による物である。


 グリューンの本体に刺さった時の宝珠の欠片は数百年の時をかけてグリューンの本体に馴染んでいた。

 その本体から取り出した目を取り込んだ事で時に干渉する力を得られた。


 これ幸いとグリューンがシーヴァに対して使った力は極々短い時を巻き戻す程度のものであったが、彼の心身を助ける事が出来た。

 グリューンの中の、張り詰めた緊張が溶けて消えていく。そしてシーヴァの鮮やかな翠緑の眼にうっとりと見惚れる。


(愛しい者が自分と同じ色を宿す……それは魔力を持つ者にとって何者にも代えがたい至福であり、快感であると言われておるが、本当にそうなのじゃな……)


「空を見る限り、ボクは大分意識を失っていたみたいだけど……何があったのか教えてくれないか?」


 不思議そうな表情で空を見上げるシーヴァの言葉に幸せいっぱいのグリューンはハッと我に返る。


『せ……精霊石を取り出したのは良いが、お前の頭に直撃したのじゃ。記憶が定かでないのはそのせいじゃろうな。危うく死ぬところじゃったし! 妾が色々手を尽くして助けてやったのじゃ!』

「それは……随分と間抜けな死に方ではあるけど……そのまま死なせてくれれば良かったのに」

『駄目じゃ! お主は妾と一緒に山の村に復讐しに行くのじゃ!』


 乾いた笑いを浮かべて立ち上がったシーヴァは体についた泥を払う。

 常にシーヴァの視界に入ろうと羽をパタパタさせながら叫ぶグリューンに乾いた笑みは苦笑に変わる。


「……一緒に? 君が酷い目に合わされた訳じゃない。精霊石の使い方を教えてくれればボク一人でケリをつける。わざわざ残酷な光景を見なくて良い」


 グリューンはその言葉を自分に対する優しさだと認識する。


(本当に、この男はどこまでも優しい……だからこそ、妾が守ってやらねば)


 これ以上傷つかぬように。壊れてしまわぬように、もう他人を信じるような真似をさせてはいけない。

 互いに互いだけを信じていれば、もうどちらも傷つかなくて良い。


『妾は、お主を助ける為に妾の力を分けた……もうお主は妾はもう一心同体と言っても過言ではない』


 大切にしたい想いと、周りからの干渉を嫌う気持ちが混ざり込んだ気持ちを込めて、グリューンはシーヴァに強く呼びかける。


『妾とお主はもう離れられんのじゃ。お主の苦痛は妾の苦痛、妾の苦痛はお主の苦痛……お主の復讐が終わったら妾の復讐にも付き合ってもらうぞ!』


 グリューンの重い告白にザアッと風が木々を揺らす。

 シーヴァがしばしの沈黙の後に紡いだのはその想いに対する答えではなかった。


「……君も誰か復讐したい相手が?」

『勿論じゃ! あのフザけた布男に復讐せねばならん!! 妾をこんな蝶に閉じ込めて数百年蜘蛛の巣に貼り付け、奇天烈な呪いをかけたあの憎き魔術師に一泡吹かせてやらねばならん! 人ごときが精霊を思い通りに出来ると思ったら大間違いじゃ!!』


 羽を大きくバタつかせて憤るグリューンにシーヴァは唖然とした様子で呟く。


「……人の命は長くても百年いかない。数百年も過ぎているならその魔術師は死んでいるのでは?」

『分からぬ……あやつは幽世の王が使うような術を使うからな。生きておるかもしれんし、死んでおるかも知れん。だがそんな事は些細な事……向こうが生きておるのなら殺せばいいし、死んでおるのなら子孫なり守ろうとした物なりを潰してやれば冥界で後悔するじゃろうて……!』


 きっと今、本体に入っていたならばニチャアと悪党のような笑みを浮かべていただろうグリューンを前にシーヴァは視界を伏せた。

 風がサワサワと木々を優しく揺らす。冷たい風は少し生温い物へと変わり、シーヴァの肌を撫でていく。


『シーヴァ……お主も分かっておるじゃろう? 人は生きる為なら容易く他人を殺せる生き物じゃ。お前は殺されるからと抗った結果、強者に踏み潰された哀れな弱者……じゃが、今は違う。今は妾がおる。大切な物を踏み荒らした者達に今こそ鉄槌を下しに行こうぞ?』


「……分かった。このままだと村を守れないままだ……何も出来ずに死ぬ位なら、せめて今生きている者達の未来を守りたい……協力してくれるかい? グリューン」

『当然じゃ! 妾とお主は一心同体なのじゃからな!』



 こうして、シーヴァはグリューンの力を借りて山の村に降り立った。

 グリューンの転移術で突如姿を表した彼は、風の刃で村人達の首を切り裂き、宙に浮かせて高い崖から落としたり――村人達を一人一人確実に殺していく。

 

『……シーヴァ、お主人を殺した事があるのか?』

「見殺しにした事はある」


 返り血を浴びた状態で感情のない声で答えるシーヴァにグリューンの心が締め付けられる。


『……無理に自分で殺さずとも、妾に任せればよいのじゃぞ? 妾はもう吹っ切れておるからな!』

「いや……仇だと思うと全員この手で始末しないと気がすまない。それに、君に全て任せてしまったら、ボクが村を守った事にならない」


 老人も、若者も、幼子も――容赦なく殺してその身を血に染めていく。

 山の村の長にも、命乞いをするシプリンにも、シプリンの子どもも確実に急所を狙い、痛みに苦しむ時間も与えずに殺していく。


 復讐、というよりは自分がしでかした事の後始末――村を守る為と割り切っての殺生にグリューンは尚も心を打たれる。


 人は力に溺れやすい。だがシーヴァは精霊の力を手にしても溺れる事なく相手に負の感情を付きつける事もせず、ただ目的を果たす為だけに力を振るう。

 高潔な精神の持ち主に力を分け与えてよかったと、グリューンは喜んだ。


 そして村の小屋の一角に保管されていたヒュドラプラントの複数の種を切り裂く際にシーヴァの怒りが滲み出た。

 細かく裂かれた種の破片を何度も執拗に踏み潰していく。


 今のシーヴァは妻と末弟の裏切りを知らない。

 彼の不幸は全ては魔物から始まったもの。彼が抱える恨み辛みをぶつけるかのようにヒュドラプラントの種をぐちゃぐちゃに潰し終えたシーヴァは無言で村を出て、山を上がった。

 そう時間もかからぬ内に行き着いたのは、色とりどりの花が咲く一面の花畑。


 強い風が吹き付ける中で微かに花の香りが心地よさを誘う美しい空間に座り込んだシーヴァが見据えるのは、遠くに見える精霊の森。


 既に守る者がいない村を守る為に、なおも心を傷つけていく男に対し、殊更グリューンは庇護欲という名の執着を強めていく。


『……のう、シーヴァ。魂は天に上がった後、穢れを落として再び生を受ける際は特別な事情がない限りかつて生きた星の、かつて生きた場所に生を受ける。だからお前が守りたかった者達もいつか、この近くに生まれ変わる事もあるかもしれん』

「生まれ変わり……」


 肩に留まるグリューンの慰めにシーヴァがポツリと呟く。


『残念な事に人として生まれ変わるとは限らん。植物だったり、動物だったり、微生物だったり……それでもこの地を魔物や魔族から守り続ければ、いつかお前はかつて息子や弟だった魂を救い、罪は贖われるかも知れん。お前がこの地を守りたいなら、妾の復讐に協力してくれるなら妾はお主と共にこの地を守り続けよう』


 水色の空の下、草花が微かに揺れる中、しばしの沈黙が漂う。シーヴァが作り出す沈黙すら、グリューンは愛しく感じた。


「……あの魔物は、森の中にもいる。きっと他の山や森にもいるかもしれない……全滅に協力してくれるかい?」

『うむ。お主の気が済むまで手伝うのじゃ』

「分かった。それなら、ボクも君の気が済むまで付き合おう……それと一つお願いなんだが、ここの赤い花だけ枯らす事はできないか? ボクの弟と息子……そして多くの人の命を奪った花なんだ」

『……分かった』


 グリューンが地に落ちて魔力を込めると、周囲一体の赤い花だけが萎々しおしおと枯れていく。

 花畑から、赤だけが消えていく光景は自分の身体を焼いた兄弟が消えていくようでグリューンも爽快感を感じた。


「ありがとう……グリューン」


 赤が消えた可愛らしい花が咲き乱れる花畑でシーヴァは初めてグリューンに向けて微笑み、グリューンの心は幸福に満たされた。


 こうして、シーヴァは一帯に巣食うヒュドラプラントを始めとする魔物討伐から始めた。

 あらゆる村から感謝されたが、けしてかつて自分が過ごした村には立ち寄らなかった。

 グリューンも真実と結末をシーヴァには伝えなかった。

 いつしか、彼に助けられた人々は彼を崇めはじめ、彼を長とした一つの大きな村を形成する。


 「魔力を持つ者が多くいれば、それだけ平和も保たれよう」というグリューンの言葉とシーヴァ亡き後の事を不安に思った者達の頼みで彼は複数人の女性と子を成し、生まれた子はグリューンの言った通り魔力を持って生まれ、どんどん子孫を増やしていく。


 子作りの役目を終えたシーヴァはそれから女性を近づける事はなく、ただただ領地の魔物討伐に明け暮れ、遠方にヒュドラプラントがいると聞けば真っ先に潰しに行った。


 グリューンの自由気ままな性質を受け継いだ緑の民は祖先が名付けたアイドクレースという広大な領地を少しずつ、確実に広げていく中で青や赤の民と混ざりあい、魔力ある者が魔力なき者を自身の色に染める快感を求めだす。


 同じ魔力を宿しても愚かな行動に走る人の姿を見つめながらグリューンは一つの疑問を抱く。


(この世界、何故天界は放置しておるのじゃ……?)


 幽世の干渉は本来であれば天が対処すべき事案である事をグリューンは知っている。

 天界も緩い面があり多少の妖精の悪戯は看過されるが、取り返しのつかない事態に発展した際は天使が舞い降りて対処するはず。

 なのに、この世界は中途半端な支配の神法に、竜や冥王の毛先が我が物顔で大きな街を作っているのに天が何か対処している気配は一切ない。


 複雑な要素が絡み合って完全に手を出せなくなってしまい、天界の長が頭を抱えている事も知らずにグリューンがそんな風に考える中、、数千の年が過ぎた頃――




「グリューン? 具合が悪いのかい?」


 翠緑や緑に囲まれた執務室、大きな窓から差し込む日差しを受けながら翠緑のコートを羽織る男が呟く。

 緩やかな緑髪と鮮やかな翠眼を持ち、妖しい色気を漂わせる男の周囲には誰もいないただ、男の頭に声が響く。


『あ、いや……久しぶりに、お主と出会った頃の事を思い返しておった。あの山で赤い花を枯らしてお主が微笑ってくれた時は本当に、心が踊りだすような気分じゃったわ』


 肘置き椅子に腰掛けている男の体からスゥ、と翠緑の美しい蝶が姿を表し、男の肩に留まる。


「……そうかい、あの娘からお土産もらえなかった事から立ち直ってくれて何よりだよ。黙り込む位拗ねるなんて滅多にないから心配していたんだ」

『拗ねてなどおらん! あの娘が礼儀知らずっぷりに怒っておっただけじゃ!』


 羽を閉じたり広げたりしながら憤る美蝶に対して、男はフフ、と微笑った後、優しい声で呟いた。


「異世界の人間だからねぇ。この世界の礼儀を知らないのは仕方ないさ」

『……何故あの娘の肩を持つのじゃ? よもや、妾に飽きて浮気などと、まして、息子が想いを寄せる相手に』

「ボクの心はちゃんと君にあるよ。信じてくれないのかい?」


 他の女に対する優しい声すら、美蝶――グリューンの嫉妬の対象であった。それを分かっているかのように殊更優しい声で問いかける。


『……お主はしばしば妾を裏切るからな。淫魔の首飾りとやらで見た幻もあの小憎らしい女と煩い女が混ざった、実に嫌な感じの女じゃったし』

『この体はシーザーの物だからねぇ……彼が愛した女性が見えるのは不可抗力だよ。シルヴィの方はちゃんと繋がりも断っただろう? 流石に自分の子孫が愛した女まで殺すのは気が引ける……ボクが愛しているのは君だけだよ、グリューン。信じておくれ』


 念話で優しく呼びかけるとグリューンはしばし黙り込んだ末にポツリと呟く。


『……もう妾を裏切るでないぞ、シーヴァ。妾は平穏にお主と永久を過ごしたい……不満があるならその都度言ってほしいのじゃ』

「ああ……君を裏切った心当たりは全然無いけれど、君の気持ちは痛い位に分かっているよ」


 グリューンの不安の声に男――シーザーが優しく心強い声で応じると同時にノック音が響く。

 チラと時計を見やれば指定した時間と一致している。


(……ヴィクトールもヒュアランも思い通りに動いてくれれば良かったんだけどねぇ)


 今扉の向こうにいる人間は、果たして自分の思いどおりに動いてくれるだろうか? あるいは――今から会いに行く男は自分の思いどおりに動いてくれるだろうか?


(全てはあの娘次第か……何の力もない弱者の身でありながら、その精神を潰される事も穢す事もなく、絶大な力を持つ強者を2人も従わせるなんて……本当に面白い子だ)


 ノック音に反応したグリューンがシーザーの肩から離れ、彼の視界をヒラヒラと舞う。そんなグリューンを見つめながら、ぼんやりと思う。


(君もボクの言葉を聞いて、変わってくれる子だったら良かったんだけどね……)


『どうしたのじゃ? ボーっとして』

「……何でもないよ。それじゃあ、行こうか」


 柔らかい微笑みを浮かべながら一つため息を付いた後、シーザーはスッと立ち上がると軽く身なりを整えて扉を開けた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


※緑の話はここで終了です。

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