第9話 失いたくなかったもの


「兄さん……兄さん!!」


 シーヴァよりやや小柄で細身の、頬が少し痩けた男は兄の存在に気づくと声を上げてシーヴァに駆けよった。


「ヴィリュイ、大声を上げるな……! 蜂を怒らせる前に早く村に戻れ……!!」

「あ、ああ……」


 殺人蜂は群れで行動し、その刃のように鋭い羽根や歯、毒針で人の命を容易に奪う。

 しかしそれらの武器は攻撃された時や巣に近づかれた時にのみ発揮される。

 迂闊に巣や蜂を攻撃したり声を上げたり威嚇するような行動さえ取らなければ、その凶悪な風貌に比べて危険性は低い。


 この重苦しい羽音はこれ以上近づくなという警告である。殺人蜂達に認識されてはいるもののまだ、狙われてはいない。


 精霊の森の近くに住むものなら、殺人蜂の特性は皆知っている――それなのに何故ヴィリュイはシーヴァに向かって声を上げたのだろうか?


「やっぱり、兄さんは兄さんだな……いつだって自分の事より、俺達の事を気にかけて……」

「ヴィリュイ、聞こえなかったのか? さっさと村に」

「分かってる……でも俺、兄さんに謝らなきゃいけないと思って……」


 彼の全身にじっとりと滲む汗も、歩き通しただけで生じただけではないようだ。

 尋常ではない様子のヴィリュイがシーヴァに謝る事があるとしたら、一つしかない。


「……ベスビアと家庭を作った事か? それならもういい……お前達の事情も理解できない訳じゃないし、あそこまで言われて今さら返されても困る」

「違う、違うんだ……! ベスビアは最初から……兄さんを愛して、なかった……!」

「どういう……意味だ?」


 じりじりと植物が発する湿気が籠もる、風のない森の中――であるはずなのに、ヴィリュイの言葉によって周囲の空気が冷える。


「まさかお前、ボクが村を出る前から」

「違う……俺じゃない!!」


 俺じゃない――という事は、俺じゃない誰か、だ。


 重苦しく冷え切った空間の中で、ヴィリュイは震える口で微かに息を吸った後。シーヴァの心を完全に凍らせる真実を紡ぎ出した。


「ベスビアが愛してたのは、クレースだ……! 兄さんが他の村に獲物を交換しに言ったり手伝いに行ったりしてる時に、二人は……」


 ヴィリュイの声はそこで言い淀むが何の意味もなく、シーヴァにはその先の言葉が容易に推測できた。


 村長からベスビアとの結婚を勧められた時、ベスビアは15になったばかりで、20を過ぎたシーヴァよりも14歳のクレースと年が近く、18歳のヴィリュイも含めて3人は仲の良い幼馴染みであった。


 シーヴァもそれは認識していた。弟達と仲が良いのであれば、自分が体の弱い弟達を助けたり食料などを分ける事に悪い顔はしないだろう――村長からのベスビアとの結婚の申し出を受け入れたのも、最初はそんな打算からだった。


 だがベスビアは文句を言うどころか率先して弟達に世話を焼いてくれた。

 体の弱いクレースを甲斐甲斐しく助ける姿に惹かれ、シーヴァもベスビアを自然と愛するようになっていた。


 そして狩りに出たり、交易や手伝いに他の村に出たりで村を離れる事も多いシーヴァはクレースとベスビアの仲には気づかず、ただただベスビアと良い関係を築き上げているものだと思っていた。

 

 その根底が、今、崩された。クレースと同じ、自分が守ろうとした弟の口から。


「俺は、兄さんにその事を言えなかった……だから、10年前、兄さんの髪で縛られた毒根が持ってこられた時、言わなかったバチが当たったんだと、思った。義兄さんは、ベスビアとクレースの関係を知っていたから……」


 理解が追いつかない。自分が知らないだけで、他の皆が知っていたというのだろうか? ヴィリュイも、義兄も、もしかしたら、他の村人達も――


「……絶対、戻って来いと言ったのは何故だ?」

「それは……体の弱いクレースは、狩りや採取が出来ないから……兄さんが戻ってきてくれないと、生活が苦しくなると思ったから、だと思う……」


 ヴィリュイが紡ぐ言葉はただただシーヴァの耳と脳を通り過ぎる。

 どれだけ残酷な事を言われても、既に拒絶され心を踏み潰された後だからか、シーヴァには何の感情も込みあがらなかった。


「……でも、村長も、義兄さんも、クレースとアイドも亡くして、腹の中にいた子まで亡くして泣き崩れるベスビアを見て、俺……せめて俺だけでも、傍にいてやりたいと思って……」


 ヴィリュイもベスビアに対して淡い想いを抱いていたのは間違いないようだ。

 それすらもシーヴァはもう、どうでもよかった。


 だが――


「やっぱり、10年前に俺が山の村に行けば……俺が行って、死んでれば良かったんだ……! アイドだって、あの時お腹にいた子だって、どっちの子だか」

「もういい」


 涙ながらに紡ぐヴィリュイの懺悔にシーヴァは恐ろしく冷たい声を返した。


「体が丈夫でなければ、心も弱い……本当にどうしようもない奴だな、お前は……お前はボクが今の話を聞いて、お前を殺したくならないと思っているのか? かつて妻だった女の腹を踏み潰したいと思わないと思っているのか?」

「兄さ」


 シーヴァは瞬き一つせずにただただ目を見開き、感情のない言葉でヴィリュイに冷たく問いかける。もう一切を聞きたくないと言わんばかりの声で。


「……お前の代わりになった事だけは間違っていなかったと、思いたかったのに……」


 ――それ以上の言葉をシーヴァは喉の向こうに吐き出せなかった。瞳を潤ませる物がヴィリュイを冷たく睨み続ける事を許さなかった。


 シーヴァは首を横に振って思考を散らし、ヴィリュイの手を掴むと持っていた草を手に擦り付けるように持たせた。


「……言いたい事はそれだけだな? それなら魔物が鳴りを潜めてる間にその魔除けの草を持ってさっさと村へ帰るんだ……ベスビアにはボクは殺人蜂に殺されたから安心しろと伝えろ」

「兄さん……?」

「頼むから……ボクをこれ以上惨めな存在にしないでくれ」


 シーヴァはぽん、とヴィリュイの肩をたたいた後、数歩先に進み、手に持っていた精霊石を一点に向かって投げつけた。


 ドスッ、と何かを破る音が響き、蜂の羽音が一気に大きくなる。

 ヴィリュイは兄が何をしたのかを察すると、震える足でその場から逃げ出した。


 一部始終を見ていたグリューンが我に返ったのは、殺人蜂の群れがシーヴァを攻撃した時だった。


 先程聞いた絶望に、今の絶望――彼の人生を完全否定するような弟の言動は他人であるグリューンの思考すらも奪っていた。


『……やめよ、やめよ!! その者を傷つけるな!!』


 巣を傷つけられて興奮した殺人蜂にグリューンの声は届かず、シーヴァの体が蜂の羽によって切り刻まれていく。

 そして刺された部分は赤黒く腫れ上がってもシーヴァは低いうめき声をあげてその場に倒れ込んだ。


 このか弱い体ではどうする事も出来ない事を悟ったグリューンは巣に刺さった精霊石に向けて強く念じる。


いにしえに滅びた星の精霊よ、我が念に応え、その力をこの場で示せ……!!)


 グリューンの念に応えるように精霊石が強く緑色に輝き、巣が風の刃で切り刻まれていく。

 その勢いで舞った木の破片や無数の木の葉が殺人蜂に突き刺さり、蜂達を全滅させた。


 再び森に静寂が戻り、グリューンは血塗れのシーヴァの傍に寄って呼びかける。


『シーヴァ……お主、一体何をしておるのじゃ……!!』

「……」


 シーヴァの虚ろな目は何も見据えていない。もう痛みすらも感じないのか、ただただ目を見開いている。


「……せめ……て、最後、くらい、は」


 誰も映していない瞳は涙を湛え、微かな声が、静寂に響く。


「弟を、助け、る、良き兄、とし、て……」


 瞼を落とすと共に一滴の涙が溢れて、シーヴァは何も言わなくなった。

 グリューンが何度念話で呼びかけても、シーヴァは答えない。


 もう数分の間に命が潰える――それを悟った瞬間グリューンの血の気が引いていく。


(駄目じゃ……駄目じゃ、駄目じゃ!! こやつをこんな所で、死なせとうない……!!)


 グリューンの中にこれまで感じた事のない、酷くもどかしい感情が宿る。

 掻き毟りたくなるような、何かにしがみつきたくなるような、とても不吉で、不安な感情が。


 弱りきった自分を助け、哀れんでくれた優しい「人」をこんな所で失いたくない。 


 兄弟に裏切られ、信じてもらえず、人に陥れられ不幸のどん底にあったグリューンを助けて哀れんでくれた、たった1つだけ、信じられる、どうしようもなく愚かで優しい存在を――失いたくない。


(お主は絶対に死なせぬ……妾と共に生きるのじゃ、シーヴァ……!!)


 グリューンは精霊石の力を借りてシーヴァを元々自分達がいた場所へと運ぶ。

 そこにあるのはかつて自分が宿っていた体。体の大半が炭と化した酷く痛ましい体の中の一点に目をつける。


(やはり、この針がこの体の時を止めておる……今はこれを、シーヴァに……!)


 グリューンの腹に刺さった針を精霊石の魔力で引き抜くと、シーヴァの腕に突き刺した。

 まだ、魂はこの体から離れていない。だから少なくともこの針が抜けない限りシーヴァの体の時は止まり、魂が天へと引き寄せられる事はない。


 ひとまずの窮地を脱した所でグリューンは改めて元の体の上によじ登った。

 そして精霊石の中に篭る緑色の魔力を最大限に放出すると、透明な線で構成された六角形が数百にも連なる大きな陣が浮かび上がる。


(精霊の中でも限られた者にしか使えぬ魂魄交換チェンジリングを使う時点で嫌な予感はしておったが……まさか、人ごときがここまで複雑な陣を組めるとは……)


 星の荒ぶりを異界への扉を閉じる力へと変え、その為に使用する媒介の状態を不変のものにし、扉と媒介を繋いで媒介が逃亡する事を防ぐ――どれ一つとっても陣として組み上げるには酷く複雑な物なのに、多少歪であれ見事に構成されている。


(妾がもう少し真面目に、母様から術を学んでおれば……)


 理解できない部分に迂闊に触れれば均衡が崩れ、全ての術が暴走しかねない。

 慎重に確実に解除していくにしても、数百年はかかる――今になって少しだけ、真面目に学ばなかった事を後悔する。


(……どうする?)


 時を止める針の力によってシーヴァの体の時は止まっている。その代わり、自分の元の体の時は進んでいく。幾日もかからずに元の体は朽ちてしまうだろう。


 シーヴァを助けたい――そしていつかは自分の体に戻りたい。ボロボロになった体でも、それは紛れもなく自分の体だったのだから。

 どちらも維持するには、悠長にかけられた術を解いている時間はない。


(……妾は精霊王の娘!! 例えか弱い蝶に魂を拘束されようと人ごときに好き勝手扱われるような存在ではない……!! 手段さえ選ばなければ、両方助ける方法はある!!)


 グリューンが決意して間もなく、精霊石から溢れ出る魔力はグリューンの本体に残る目を躊躇なく抉り取った。


(……目を一つ失う位でこやつの命を救えるなら、喜んで捧げてやるわ!!)


 自分の身を犠牲にしてでもシーヴァを助けたいと願う心が、グリューンにこれまでにない力を湧き上がらせる。

 抉られた美しい翠緑の目は魔力に潰されて潰れて液状となり、その半分が意識の無いシーヴァの口元へと運ばれた。


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