第9話 青の始まり・1
マール達が住む集落から少し離れた丘の大きな木にグリムは寄りかかっていた。
そして集落の一部から炎をあがるのを生気のない目で見ていた。
『飲み物に死に至る毒を入れたらマールが恨む。眠り薬を入れて飲ませて、寝ている間に焼き殺してしまえば、罰も当たらない』――そう提案したのはグリムだった。
『せめて苦しまずに死なせてあげて欲しい』と悲しそうに付け加えればグリムの慕情を嫌になるほど知っている島長も島人達も、マールを殺す為に持ってきた毒性の強い魚を引っ込めざるをえなかった。
マールの言葉は間違っていない。人は弱い。幸せであれば綺麗だし不幸であれば醜くなる。
だけどマールは善良であるが故に醜くなった人間が、判断力を失い凶器を持つ所までは想像できなかった。
嫌われる事を過剰に恐れたが故に、嫌われた後の事まで想像できなかった。
(僕が何を言っても聞いてくれない……それなら、他人に知らしめてもらうしかない。今のマールは紺碧の蛇に守られている。だから小屋が焼かれた位で死にはしない……)
グリムがそんな風に考えている間に炎はどんどん大きくなる。まだ、紺碧の光は見えない。
グリムの中で不安がどんどん大きくなる中、空に浮かび上がった紺碧の光に彼は思わず立ち上がった。
そして高鳴る胸を抑えつつ、ひとつ息をついて目を閉じ、両の手を組んで祈る。
(一人だと言っていたマールが、この島の皆に失望して島から立ち去ったって仕方がない……)
それを考えるとグリムはどうしようもなく寂しくなる。
ずっと一緒にいた、綺麗な心を持つ少女がいなくなってしまう事が、自分の想いに気づいてくれないまま去っていく事がたまらなく寂しかった。
(だけど……)
瞼を下ろした真っ暗な視界が、うっすら紺碧に染まる。
グリムが恐る恐る目を開くと、そこには紺碧の大蛇に乗った、涙目のマールがいた。
「マール……来てくれたんだ」
「グリム……! 皆、小屋に、火が……私、石……」
状況を理解できていないマールに対し(だから言っただろう?)という言葉を飲み込んでグリムは小さく首を横に振り、持っていた袋をマールの前に差し出した。
「マール、この島の皆は今、君に対する不安と恐怖でいっぱいだ。その不安や恐怖はきっとマールが死ぬまで消えない。もうマールが言うような平和で綺麗なラリマー島にはならない……だから、逃げるんだ。もう二度とここに戻ってきちゃ駄目だよ?」
優しく呼びかけるグリムの声が聞こえているのかいないのか、マールは目を潤ませてグリムを見つめる。
「グリム……私……何か悪い事した? 私、何を間違えちゃったの? どうすれば良かったの? ねえ、グリム、教えてよ、私、馬鹿だから分からないの。アズーブラウも分かんないって言うし、もう、聞ける人がグリムしかいないの」
マールの縋るような瞳にゾクり、とグリムの中で喜びが湧き上がる。その喜びを堪えつつ、寂しそうに微笑む。
「……僕の言う事を聞かないからこうなっちゃったんだよ」
優しい口調ながらも辛辣な言葉がマールの心に刺さる。
セナを助けに行かなければこんな事にはならなかった。
ククルクがマールを恨みこそすれ、島人達がマールを恐れるような事にはならなかった――分かってはいるのだ、マールの、中でも。
「……ごめん、なさい」
ボロ、と大きな涙を零すマールにグリムは眉を下げる。そしてより一層優しい声で呼びかけた。
「こっちこそごめんね、マール……僕は、何の力にもなれなかった。生贄になる時も、セナに意地悪言われた時も、僕はマールを守ってあげられなかった。だからマールが一人ぼっちだって思い込んじゃうのも当然だったんだ」
「一人、ぼっち……」
――私はもう、一人じゃない。アズーブラウが一緒にいてくれるから大丈夫だよ!――
マールはセナを助ける為に島を出る際、グリムにそんな風に言った事を思いだす。
グリムを傷つけるつもりはなかった。
ただ、グリムを憎んだ自分が嫌で、憎んだ相手を頼りにするなんて、おかしくて――一人ぼっちに、なった。
そんな自分の気持ちとグリムがその言葉に傷ついている事に気づいて、マールはポツり、ポツりと言葉を紡ぎ出す。
「……私、私ね、生贄に選ばれた時、グリムが一緒に島から逃げようって言ってくれないかなって、思っちゃったの」
「え……? でも、マールは」
「うん……実際にグリムにそう言われても、きっと私は嫌だって言ったと思う。だって、私が逃げたらセナかククルクが贄になっちゃうもの。ただ……そう言ってくれたなら、私、あの時グリムを憎まずに済んだのかなって。一人ぼっちだなんて、思わなかったのかなって……」
「マール……」
グリムは一緒に逃げようと言いたかった。でも断られるのが分かっていたから言えなかった。
だが――マールがそう望んでいた事を知って、グリムの心が急速に満たされていく。そして――
「……ねえ、グリム、私、グリムがいないとまた間違っちゃいそう。アズーブラウも、難しい事分かんないって言うし、私も、この島から逃げた後どうすればいいのか分かんない。だから、こんな事言ったら、グリムを困らせちゃうかもしれないけど……一緒に、来てほしいの」
今、縋るような目で、縋るような声で、マールに心の底から求められている。
グリムが欲しかった物を差し出しているマールのお願いに、グリムは満面の笑顔を返した。
「……ちゃんとマールが僕を大切にしてくれるなら、僕の言う事を聞いてくれるなら……いいよ」
グリムの言葉にマールはアズーブラウから降り立ち、ギュウっとグリムを抱きしめた。
グリムも満面の笑みでマールを抱きしめ返す。もう、二人の間に何の言葉も必要なかった。
ラリマー島を離れ、大海原を駆けるアズーブラウに乗ったマールは自分に掴まるグリムに問いかける。
「……グリムは、アズーブラウの事怖くない?」
「怖くない……と言ったら嘘になるけど……海神だろうと、魔物だろうと、マールを助けたり守ってくれたりした存在を悪くなんて言えない」
そう微笑むグリムからは一切靄が出ていない。生贄の儀式からずっと、グリムは靄を一切出さない。それがマールにはとてもありがたく、不思議だった。
「……何でグリムの心は何でそんなに綺麗なの? いつも綺麗」
「きっとマールが傍にいるからだよ。マールが僕の傍に居て、僕の言う事を聞いてくれる限り、僕の心はずっと綺麗だよ」
グリムの言葉にマールはグスッ、と涙ぐむ。これからはちゃんとグリムの言葉を聞かなきゃ、と強く思った。
マールはグリムの闇には気づかない。グリムの邪悪な面はマールに向けられる事はないからだ。
アズーブラウもマールが良ければそれで良かった。
『何処行けばいいの?』
「グリム、アズーブラウがこれから、何処に行けばいいのって……」
マールに頼られる事が嬉しいグリムはマールの為に考える。
「マールの事はこれから色んな島に広まるだろうから……早くこの海から離れた方がいいと思う。誰も僕達の事を知らない、島の皆も絶対来れないような所……あ、そうだ……大陸の方に行ってみようか?」
「だ、大丈夫かなぁ……私、鈍臭いし、大陸って、何だか怖い……」
島よりずっとずっと大きい大陸がある、という事はマールも知っている。
おとぎ話に近い未知の世界にマールは恐怖を示すが、グリムは明るく笑い飛ばした。
「あはは、大丈夫だよ! アズーブラウがいれば何も怖くない! きっと大陸には魔族や魔物に困ってる人がいっぱいいる。アズーブラウに魔族や魔物を追い払ってもらえば、僕達に感謝する人でいっぱいになる!」
「で、でも……私、人に嫌な思いさせちゃうかもしれない……皆が皆、グリムみたいに心が綺麗な人じゃないから……」
「島の皆はセナに嫌な事吹き込まれてたから上手く行かなかったけど、マールがした事はとても良い事だよ。だからこれからも、マールに守ってほしいって言ってくる人達やマールに優しくしてくれる人達だけ守れば良いんだよ。マールの事を悪く思う奴は守らなくて良い……大丈夫、難しい事は全部僕に任せて。マールは僕の言う事だけを聞いてくれれば何でも上手くいく。やりたい事があったら何でも僕に相談して?」
グリムの甘い言葉の一つ一つがマールの心にしみて、魂の穢れが薄れていくのをアズーブラウは感じた。
グリムの囁きがかなり偏ったものである事も感じたが、グリムはマールに悪意も敵意も持っていない。
マールの魂が綺麗になるのなら、マールがこれ以上傷つかないのならそれでいい、とアズーブラウは思った。それに――
「グリム……セナは、大丈夫かな?」
心がどれだけ傷ついても、辛い思いをしても、マールはやはり善良で優しい少女であった。
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