第6話 紺碧の大蛇


 赤く染まりかけた空の下、悲鳴に近い叫び声がマールを起こす。

 マールの膝の上で寝ていたアズーブラウは素早く物陰に身を隠し、寝ぼけ眼のマールが小屋の出入り口の方に向かうと、汗だくのククルクが息を切らせて立っていた。


「助けて、マール……!! 海神様に頼んで姉さんを助けて!!」

「えっ……?」


 よく分かっていないマールの肩をククルクが強く掴む。彼の縋り付くような必死の形相にマールも只事ではないと察する。


「森で、魔族に攫われたんだ……!! マールは、海神様に愛されてるんだよね?海神様にお願いして、攫われた姉さんを助けてよ……!!」

「く、ククルク、無理だよ、私……」


 冥王によって巨海蛇の悪戯が止まり、海が大きく荒れる事も抑えられているのは事実だが、マール自身に力がある訳ではない。

 魔族という人を襲い、攫う恐ろしい存在に捕まった人を助け出せるような、目に見えて分かる力をマールは持っていなかった。


「何で……? マールは海神様と話せるんだよね!? 海神様にお願いする事くらいできるよね!? それとも、姉さん助けるの、嫌なの? 姉さんがマールの悪口言ってるのは本当ごめん、帰ってきたら謝るように僕から言うから、お願い、助けて……!!」


 ククルクの嘆願はマールの中の不安を煽る。


(無理だ、無理――私には、何の力もない)


 アズーブラだって自分以外の人に姿を見せたくないと言っていたから、きっと、助けてくれない――そんな絶望がマールの心を覆う。


(どうしよう、どうしよう、このままじゃ、私――)


「シャアアアアアッ!!」

「うわっ……!!」


 マールの強い不安を感じ取ったようにアズーブラウが2人の間に現れ、青白い光の翼を広げて口を大きく開けてククルクを威嚇した。突然の蛇にククルクは後ずさり、バランスを崩す。


「ククルク、マールに何して……!!」


 ククルクが大きな尻もちを着いたタイミングでグリムも小屋の中に入ってくる。

 ククルクが震える指でアズーブラウを示す中、グリムもククルクも一度だけ見た紺碧の蛇を前に驚愕の表情を浮かべた。


「あ、アズーブラウ……! 友達が魔族にさらわれたの……!! お願い、助けて!」


 自ら姿を表したアズーブラウにマールは咄嗟にお願いする。アズーブラウはククルクに向けて威嚇したその顔をマールの方に向けて傾げた。


『何で? 僕が冥王様から言われているのは「贄を出すな」って事だけ。マールがさらわれたら助けるけど、何で僕がマールの友達を助けなきゃいけないの?』

「そんな事言わないで、お願い……!」

『やだ。変な事したら冥王様に怒られる』


 マールにせがまれたアズーブラウはふわりと姿を消した。一応傍にはいるのだが、その場にいた少年少女には消えたようにしか見えなかった。


「マール……海神様と話してくれたの? 助けてくれるって?」

「ク、ククルク……ごめん、私は贄だったから助けたけど、私の友達を助ける理由は、ないって」


 内心では助けてくれない、と分かっていたマールは恐る恐る言葉を紡ぎ出す。

 そこまで言い終えた瞬間、これまで靄を出さなかったククルクから、ぶわりと黒い靄が吹き出した。


 セナよりも濃い黒々しい靄に包まれた友達にマールは恐怖を覚える。


「やっぱり……姉さんの言ってた通り、海神様なんて嘘だったの? 本当に『津波を起こしてた襲った魔物と上手く取引して皆にちやほやされてるだけ』だったの……!? 姉さんが気に入らないから、嫌いだから……だから姉さんを助けてくれないの……!?」

「何それ……違う! 違うよククルク!! 私、そんなのじゃない……!!」

「ぼく……ぼくはマールの事、信じてたのに……!!」

「待て、ククルク!!」


 グリムの静止も聞かずにククルクが走り出す。慌ててククルクを追いかけようとしたグリムだが、マールに服の裾を掴まれた。


「グリム、魔物ってどういう、事……?」

「マ、マールが気にする事じゃない」

「はぐらかさないで! 教えて、グリム!」


 マールの鬼気迫った嘆願にグリムは渋々、といった様子で言い辛そうに言葉を紡ぐ。


「……噂だよ。セナもククルクも、津波に襲われた島の孤児だって事は知ってるだろう? セナはその時、大きな海蛇が津波を起こす所を見たんだって……だから、マールは魔物と手を組んでちやほやされてるんだって……」

「そんな……」

「滅茶苦茶な話だろう? だから、マールが気にする事じゃない……海巫女に悪口言った罰が当たったんだよ。」


 グリムはマールに対して優しい声を出して言い聞かせるように宥める。

 その姿は先程のセナに対しての態度とは全く違う、温かさに満ちたものであったがマールはグリムの思うような反応を示さなかった。


「そんなの……やだよ!!」


 震える手で頭を抱えて振り乱すマールがその場に崩れ落ちる。


「やだよぉ、やだ……!! やっと、皆から靄が出なくなったのに……!! このままじゃ、ククルクが私がセナを助けなかったって言いふらして、また皆が靄を出して……私、皆に嫌われちゃう……!!」


『マール、泣かないで。魂、穢さないで』

「無理だよ……無理だよぉ!!」


 ――グリムはその場に泣き崩れて紺碧の蛇と会話をしているかのように独り言を言いだしたマールに戸惑いながらも傍らにしゃがみ込み、マールの背中をそっと撫でて殊更優しく語りかける。


「マール……ククルクはセナが攫われて気が立ってるだけだよ。ククルクのお母さんはククルクが幼い頃に魔族に攫われたから余計にパニックになってるだけで、島の皆がマールを責めるような事にはならないから」


 宥めるつもりでかけられたグリムの言葉にマールは一縷の希望を見出す。


「そうだよ、魔族……魔族からセナを助けたら、セナだってもう悪口言ったりしないはず! 皆も私を嫌ったりなんか、しない……!!」

『マール』

「アズーブラウ、お願い、助けて……! 私、怖いの……セナが死ぬ間際に、私を恨むのが、怖いの……!! 皆が、私を恨むのが、怖いの……!!」


 自分が助けてくれなかった人達を恨んだように。セナも自分を恨むだろう。

 セナの事が嫌いじゃなかった自分でさえ死に際にあんな醜い感情を抱いたのだから、自分に対して悪感情を抱くセナは自分以上に醜い感情を抱くだろう。


 そして、セナが抱いていた靄をククルクも抱いた事でマールは確信した。


(あの靄は私の事をよく思っていない気持ちなんだ)


 このままだと皆が靄を出す。凄く気持ち悪く、怖い靄に覆われてしまう――そんな恐怖でいっぱいになった頭を抱えて泣き崩れるマールを前に、アズーブラウは困ってしまった。


(どうしよう、癒えてきたと思ったのに、また穢れ始めてる……)


 今マールの魂が穢れているのは、自分のせいなのは明らかだという事をアズーブラウは理解している。

 マールの中の負の感情が強まっているのは自分が力を貸さないからだ。


 魂が穢れた贄を冥界に送ってはいけない。だからマールの魂を穢してはいけない。――しかし、今自分が力を貸さなかったら、マールの魂は取り返しがつかない位にまで傷つき、穢れてしまう。


(でも……力貸してもいいのかな?)


 マールに魂を穢されるのも困るが、それ以上に取り乱して涙を流す姿に心が痛む。自分に名前をくれた存在。唯一の話し相手であり核を分けた存在の悲しみはどうにもアズーブラウの心を締め付けた。


(でも、冥王様、星に降りる時いつもこそこそして……)


 ここに来た時だって、海底神殿から一歩も出る事無く水鏡越しに巨海蛇の魂を抜き取った。

 マールを連れて海底にあるはずの神殿を探して冥王の指示を仰ぐ事も考えたが、海自体が魔力を持つ中で海底神殿の魔力を探知するのはかなりの年月を要する。絶対にセナの救出に間に合わない。


 じゃあどうすれば――と必死に考える中、アズーブラウはここに来た時の冥王の言葉をはっきりと思い出した。


『お前はこれと一体となって巨海蛇の体を操り、贄を出すような愚かな者どもを諫めよ。そしてこの世界で命がむやみやたらに絶やされる事が無いように見守れ。出来る範囲で構わん』


(そうだ、出来る範囲で、命が絶やされないように……って事はマールに、力を貸してもいい、のかな?)


 アズーブラウはちょっと確信が持てなかったが魔族は元々、魔界という幽世の存在である。

 弱肉強食の異界からあらゆる星に逃げ込んで命を無闇矢鱈に食いつぶす魔族相手に力を出すのは別に良いのではないだろうか? とアズーブラウは結論付けた。


『……分かった。冥王様、僕に出来る範囲で命を守れって言ってた。助けに行く。でも、マールも着いてこないと駄目』

「うん、私から離れられないって言ってたもんね……怖いけど、セナを助けられるなら、私、一緒に行く……!」


 マールの強い意志が籠もった眼差しに小さく頷いたアズーブラウは再びその姿を表すと、床に鼻の先を擦り付け始めた。ゴシ、ゴシと固く擦り付ける奇行にマールとグリムが戸惑う。


「あ、アズーブラウ、何してるの!? 鼻の皮、剥けちゃってるよ!?」


 マールの言葉も気にせずアズーブラウは鼻をこすり続け薄い皮が剥けると、その剥がれた皮を部分を更に床に擦り付けていくと少しずつ皮を剥がれていく。


 ぺり、ぺりりと綺麗に剥がれていく皮とそこからツヤツヤの皮で出てくるアズーブラウの異様さにマールも、グリムも目が離せなかった


 どのくらい見守っていただろうか――細長い薄紺碧の皮と、ツヤツヤのアズーブラウが綺麗に分離した。


 アズーブラウは脱ぎ捨てた薄紺碧の皮をくわえてマールに差し出す。


『僕達の皮、凄く丈夫なんだ。マールがそれに魔力を込めて振り回せば、魔族なんか簡単にやっつけられる。僕が魔族やっつけてる間、それで自分の身を守って』

「魔力を、こめる……」

『手に意識を集中して、冷たいのを感じたらそれを皮に送るようにして、自由自在に動くのを想像して』


 恐る恐る抜け殻を受け取り、言われたとおりにしてみると薄紺碧の抜け殻はマールの思い通りに動いた。僅かではあるが伸縮も出来た。


「すごい……!」

『冥王様、冥界に魔族来るとそれで魔族の首ぎゅっと締めてる。弱い魔族は頭と体さえ切り離せば動かなくなる』

「わ、分かった……!」


 マールがアズーブラウの抜け殻をギュッと握りしめて外に出ようとすると、阻害するように立ちふさがる存在がいた。


「グリム……」

「マール、行っちゃ駄目だ。もしマールに何かあったら、僕は」

「どいて、グリム……私は今、セナを助ける力がある。セナを助けられたらセナともククルクとも仲直りできる。島の皆も私を認めてくれる……!!」

「で、でも、セナは海の向こうに攫われたんだ! 船じゃ間に合わない!」


『僕、飛べる。弱い魔族よりずっと早い!』


 グリムとマールを横切るようにアズーブラウが小屋の外へと出ていった途端、周囲から悲鳴があがった。

 慌てて二人が外に出ると、暗みを帯びた赤い空の下、人なんて簡単に丸飲みできそうなくらい大きい紺碧の大蛇がぺたんと頭を地面につけていた。


「グリム、セナがさらわれた方向は?」

「あっちの方、だけど……マール、魔族が怖くないの!? 殺されるかもしれないんだよ……!?」

「怖いよ。怖いけど……でも私はもう、一人じゃない。アズーブラウが一緒にいてくれるから大丈夫だよ! グリムはククルクに伝えて! 私が必ずセナを助けるからって!!」


 マールがアズーブラウの背にまたがるとアズーブラウが身を起こし、背に輝く青く透ける光の翼を広げた。


「じゃあ、行ってくるね!」


 その青い目に危うく感じるほどの強い光を宿したマールを乗せたアズーブラウは羽を滑らかに羽ばたかせて宙に浮き、生暖かく柔らかな風がグリムや集まってきた島人達の頬をなでていく。


 驚愕の表情で見守る中、グリムだけが複雑な心境を抱えていた。


(マール……もう、一人じゃないって――いつから、一人になったんだろう? 僕はずっと、マールの傍にいたのに)


 それを声に出して答えが来るのが怖くて、グリムはそれ以上何も言えず、青く輝く光の翼を広げて空を舞う紺碧の大蛇とマールを見送る事しかできなかった。


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