第5話 平穏の裏側で
マールが寝入った頃――集落から少し離れた森の中で籠を持った3人が熟した木の実や摘み取り、果実をもいでいく。
グリムはセナの乱暴な手付きが少し落ち着いてきた所で一つ息を吸って、宥めるように声をかけた。
「セナ……何でマールにあんな嫌な言い方したんだ」
「何よ、貴方達が海巫女海巫女ってうるさいから合わせてあげたんじゃない!」
グリムの問いかけにセナはまた声を荒らげた。
2人の険悪な雰囲気にククルクは小さくため息を付きながら手のひらに収まる大きさの青蜜柑を籠に納めていく。そんなククルクの態度が更にセナの不快を煽った。
「ククルク、貴方本当に思い出せないの!? 大きな蛇みたいな魔物が海から飛び上がって津波を起こす所、私と一緒に見たじゃない!! その津波に島が襲われてお父さんもお母さんも死んだのよ!? 忘れるなんて酷いわ……!!」
「そ、そんな事言われても……あの時の事、僕、本当に覚えてなくて……」
ククルクは俯き、手に取った青蜜柑の皮を指で擦りながらボソボソと応える。
ククルクが覚えているのは自分達を山の方へ避難させた後に年老いた島人達を助けに行って戻って来なかった父のぼんやりとした後ろ姿と、その後大きな波に島が飲まれていく悍ましい光景しかない。
しかしセナは運悪く津波が起きる前の海に、遠くに蛇のような何かが海面から飛び上がり、再び海に潜る瞬間――高い波が起きたその一連の流れの記憶が残っている。
その津波でセナ達がいた島の半分以上の人が帰らぬ人となり、残った島の者達は身寄りのなくなったセナとククルクまで養う余裕はなく。
厄介払いするように母方の縁者であるラリマー島の島長に2人を託した。
セナは島長が迎えに来た時に魔物の事を伝えると真剣な表情で口止めされた。
『セナ、その事は島の皆が不安になるから誰にも言ってはいけない。海神様の正体が大きくて恐ろしい魔物だと知ったら、皆怖くて眠れなくなってしまうだろう? 誰かに言ったら次はお前を贄にせざるをえない』
島長を始め、島々の大人達の半数は知っていた。突然の津波や荒波の原因が巨大な海蛇の仕業である事を。
大きな海蛇のような姿をしている魔物が機嫌が悪い時に津波を起こし、人々を食らっている――だから儀式で供え物と共に新鮮な人間を捧げる。
少しでも魔物の機嫌を良くして犠牲を減らす為に。
島長からそんな風に脅されたセナは怖かった。巨大な蛇は人が何とか出来るような存在じゃない事も分かっていた。
『黙っているから自分とククルクを贄にしないで欲しい』と島長に縋るしか無かった。
そして海神の正体を知らないマールが贄に決まって、これで自分が贄になる事はない――と思ったら、今度はこんな状況になってしまった。
「皆、津波を起こしてたのはとっても大きな海蛇だって知ってるのに……あの海蛇に色んな島の人達が殺されてきたのに……皆何で皆あの子を持て
マールが戻ってきた時にグリムが言った『大きな海蛇』という言葉に恐怖を抱き、マールの得体の知れない気持ち悪い青の目を恐れたセナは大人の力を頼ろうとした。
マールは巨大な海蛇ではなく人。あの目を気持ち悪いと思う人間は多いだろうし、大人達の力で島から追い出すなり、最悪殺してしまう事もできるはずだと。
だがセナの思惑は大きく外れた。セナの事情を知っている者は『お前も辛いだろうが、もう波に苦しめられる事も生贄を捧げる事もないのだから前を向きなさい』と励まし、事情を知らぬ者は『生贄を免れた癖に海巫女に難癖をつける罰当たり者め』と蔑みの視線を向ける。
そしてどちらも『マールには言うな』と圧をかけてきた。
まだマールが村を自由に駆け回っていれば何処からともなく噂が聞こえていただろうが小屋で1日過ごす生活を強いられたマールは、セナがそんな風に触れ回っていた事を知らない。
マールに直接罵れば島から追い出されるのは――消されるのは自分だと察したセナは、また押し黙らざるを得なかった。
色んな物を捧げられて、ちやほやされて――元々セナはマールが気に入らなかった。海神の事がなくても、生贄の事がなくても、気に入らない。
嫌いな子と自分の島と家族を奪った魔物が崇め奉られる今の状況にセナは強いストレスを感じていた。
「セナの言ってる事はおかしいんだよ。海神様の正体がセナの言う通りこれまで津波を起こしてきた大きな海蛇だったら何で生贄出すな、なんて言ったのさ? 本物の海神様が魔物をやっつけてくれたんだ、って考えるのが自然だろう?」
「うん……姉さんは信じてくれないけど僕達は大きな海蛇とは別に、青く透き通った光の羽を持ってる紺碧の蛇も見たんだ。マールも『夢で紺碧の蛇に生贄出すなって言われた』って言ってたし、きっとその蛇が本物の海神様で、大きな海蛇を退治してくれたんだよ。姉さんはその蛇を見てないから分からないだけで、きっと海神様と僕達の島を襲った魔物とは別物だよ」
グリムとククルクがそう諭してもセナは納得しない。ククルクがいくら姉に説明されても覚えていない魔物を信じないように、セナもまた弟にいくら説明されても自分が見ていない紺碧の蛇を信じない。
「2人とも、あの魔物に騙されてるのよ……きっとマールが魔物に命乞いして、哀れに思った魔物に助けてもらったんだわ。それを良い事にちやほやされて……」
「それならそれでいいじゃないか。それに他の島から届く捧げ物だってマールはほとんど島人達にあげてる。もっと食べてくれればいいのに……自分より他人の事を気遣うマールを邪険にして追い出そうとする奴なんてセナくらいだよ。まったく、セナは本当にマールと違って恩知らずなんだから……」
気に入らない原因が説得を諦めたように吐き捨ててマールを褒める。この顔立ちの整った
だがグリムはいつだってマールを見ている。温かく、時に熱を感じる眼差しで。
「グリム……貴方、あんな子の何処が良いの? あんな魔物みたいな気持ち悪い色の目の子の事がまだ好きなの!? 頭おかしいんじゃないの!?」
幼い頃からずっと一緒だった幼馴染への罵倒に一気にグリムの表情が強ばる。
耐えきれずについ、言ってしまったとセナはすぐに後悔したが、謝る言葉も口に出せず――今まで見た事ない位に怒りの形相のグリムが一気にまくし立てる。
「いい加減にしろ! マールの悪口を言うな!! いいか、マールがいなかったらお前が生贄になってたんだからな!? 父さんが駄目だって言うからどうしようもなかったけど、僕はお前に生贄になってほしかったよ!!」
「なっ……」
「ふ、2人とも……!! 喧嘩はやめよう!? ね? あっ、姉さん……!!」
グリムの辛辣な言葉はセナの心を貫いた。ククルクが慌てて間に入るが、セナは目にいっぱいの涙を浮かべて歯をぎりぎりと噛み締めた状態で持っていた籠を地面に叩きつけ、森の奥へと走り出す。
「グリム、今のは酷いよ……!!」
「先に酷い事言いだしたのはあっちだろ!!」
叩きつけられた籠から溢れた果実を籠に戻しながらククルクは責めるようにグリムを睨むが、より一層の憎悪を込められて睨み返される。
「マールに助けられたくせに、波だって凄く穏やかになったのに父さんや島の皆に余計な事言ってさぁ……!!」
セナの言葉は島人達に全く相手にされなかった訳ではない。セナの言葉に煽られてマールに対して不安を抱く島人達も少なからずいた。
ただ、表立って言えばセナのように冷たい視線を浴びせられるから言えないだけ――そんな複雑な島人達の心境を、島長の息子であるグリムはひしひしと感じていた。
「そ、そりゃあそうだけどさ……! でも、姉さんはグリムの事、ずっと前から……」
セナが自分の事を好いている事はグリムは随分前から気づいていた。煩わしくて仕方がないが自分がセナを突き放したら、セナはマールへの辺りをキツくするし、セナを友達だと思っているマールも悲しむ。
だから耐えていたのに、今のこの状況でまだマールを蔑むセナの事を心底軽蔑していた。そして吐き出す言葉は止まらない。グリムは怒りの形相のまま言葉を続ける。
「僕がセナの気持ちを受け入れられないからってマールにあたるのはおかしいだろ!お前がはっきり注意しないからセナがつけあが――」
「きゃああああっ!!」
グリムの怒声は森に響き渡るセナの悲鳴によってかき消される。悲鳴がした方へと駆け出すと「助けて!!」とセナの悲鳴が続く。
ただ、その声は地上ではなく、どんどん遠くなっていく。
森を走り抜けた先の海岸で二人が目にしたのは、セナらしき少女を抱えてバサ、バサと空を飛んでいく黒い羽を持つ、人間によく似た存在だった。
「魔族だ……!!」
この海に浮かぶ島々の何処かに巣食う、魔族――グリムは初めて見る異質な存在に目が離せないでいたが「姉さん!!」と大声で叫び砂浜の方へと駆け出すククルクを見て我に返り、慌てて止める。
「ククルク、無理だ、僕らにはどうしようもない! 集落に戻って大人達に助けてもらわないと……!!」
「大人達は何もしてくれないよ!! 母さんの時だってそうだった……!!」
ククルクの悔しそうな表情にグリムはセナやククルクがいた島は魔族が住み着いた島に近く、毎年島人が攫われていた、という話を思い出した。
セナとククルクの母親も、犠牲者の一人だという事も。
何とかしてやりたい気持ちはあるけれど、この状況ではどうしようもない――グリムがどうククルクを落ち着かせるか考えていると、突如ククルクはグリムの方を振り返った。
「そうだ、マール……マールなら、海神様に頼んで何とかしてくれるかも……!!」
「あっ、待てよ、ククルク……!!」
ククルクはグリムの手を振りほどくと、真っ直ぐ集落の方へと駆け出した。
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