第5話 最初の地獄の始まり

 最初の地獄の始まりは幼い頃の記憶から始まる。

 私は幼い頃から、家庭には恵まれていなかった。

 夫婦喧嘩の絶えない家庭。

 私以外の大人が集まって、よく話し合いもされていた。

 私は別の部屋にいて、叔母に相手をされていた記憶が残っている。

 時々、母親の泣きながら叫ぶ声が耳の奥の奥の方にかすかに残っている。

その声が聞こえる度にビクッとなって叔母の顔を見るのだが、『大丈夫』と叔母は少し悲しそうな笑顔を見せてくれた。

 また父親が何かやらかしたのだろう。

 小さかった私には詳しくはわからなかった。

 今はもちろんわかる。きっと女関係だ。

 だらしのない父親のどこに女性が惹かれるのか、さっぱりわからない。


 また、ある夜の事だ。

 喧嘩の声で目が覚めてしまったが、起きてはいけない空気を感じていた。

 黙って、二人に背を向けるように寝返りをうつ。

(早く終わらないかなぁー。寝れない。)

 私はその夜は寝たふりをしてやり過ごそうとしていたが、くしゃみが出てしまった。

(ヤバい。)

心の中で思った瞬間、二人の喧嘩は止まった。


 その頃、私はまだ小学生の低学年だった。

 祖母と一緒に暮らしていた頃は、何かの八つ当たりだったのだろうか。

 まだ若くて元気だった祖母に、後ろから跳び蹴りをされた記憶も残っている。

(よく考えると、孫に跳び蹴りするって……)

 私は一体何をしでかしたのか、今も思い出せないままだ。


 和室のピアノが置いてある部屋で、蹴られて畳の上に転がった景色も頭の奥の奥の方に残っている。



 夫婦喧嘩なんて世間ではよくある事で、(地獄などてはない)と思うのだけれど。

 小さな私にとっては辛い日々だった。

 その頃から私は父親が大嫌いになった。


 そしてしばらくすると、祖母は田舎に引っ越しをして、私達家族だけの生活になった。

 母親も父親も働いていて、学校から帰ると自分でカギを開けて家に入る。

 いわゆるカギっ子だった。

 朝も自分でストーブをつけてココアを入れてパンを食べてから学校に行く。


 その頃から自分で髪の毛を三つ編みをして学校に行ってた記憶がある。

 肩よりも長く伸びた髪を真後ろで半分に分ける。そして、片方ずつ三つ編みにして黒いゴムで結んだ。

 そのせいか、今でも、編み込みは得意だ。

 両親は寝ていたのだろうか、記憶がない。


 雷が苦手になったのも、その頃のからだ。

 とにかく1人ぼっちで家にいるか、喧嘩の声を聞いているか……

 孤独や惨めな感情だけが、心に染み付いている。




 そして小学生の高学年になる頃、今度は父親が仕事を変えた為に転校をした。

 何年間かは、大きな地獄のような記憶は残ってないので、普通に生活をしていたのだろう。

 母親は知らないところで苦労をしていたのかもしれないが、私は苦痛を感じる事もなく日々を過ごしていたと思う。

 学校はとても楽しくて、雪が降った日に友達と積もった雪の上に顔面からダイブした。

 とても冷たかったが、ふたりで顔が真っ赤になったまんま、ただ笑って遊んでいた。



 もうひとつ強烈な記憶がある。

 ある夜勉強をしていると、

『ごそごそ。』と聞こえた。

音のする方を見ても何もない。

 しばらくすると、また同じ音がした。

『ごそごそ。ごそごそ。』

と、今度は音の主が現れた!

でっかいゴキブリだった。


「ギャーーーーーーーーーー」

と、ご近所中に響き渡る大声で叫んだ。

 もしかすると、出てきたゴキブリも私の声に驚いていたであろう。


 それ以来、私はゴキブリが苦手になり、ゴキブリを発見すると、ご飯が並べてあろうが何だろうが、テーブルの上に逃げるように飛び乗ってしまうようになった。

 こんな記憶しかないのだから、その時は普通だったのだろう。




 それから何年か経つと、また引っ越しの為に転校した。

 父親は仕事の続かない人間だった。

 私は父親に対して良い想い出が1つもない。

 古いアルバムのページをめくると、若き日の父親と一緒に写っている小さな私の写真はセピア色になり、そこに残されている。

 大きなスイカを持って、口の周りがべちゃべちゃになった私をカメラの方に向けようとしているのだろうか。父親が私の顔を覗き込むようにして、こちらを指差している。

 写真で見る父親は、今でいう『イケメン』のようだ。体もスリムで、爽やかな笑顔。



 だけど、私の記憶の中の父親は最低だった。


 普通に平和に流れていた時間の記憶の中には父親は存在しない。

 一緒には住んでいたけれど。

 父親の愛情を知らないまま、私は半分だけ、

大人になっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る