第3話:家出

 一度覚悟を決めたら、手早く準備が進んでいく。

 今日やるべき仕事を放り出して、家出に向けて荷物をまとめる。

 生活できる最低限しか与えられていない私物は小さな風呂敷一枚でまとまった。


「私っていらない子だなぁ」


 ニーナは私の何倍も服を買ってもらって、幸せな暮らしを過ごしていると思う。

 そんな事は考えてもどうしようもないと分かっていても、羨ましく感じる。

 憂鬱な気分はボロボロな私の気力を削っていく。

 

「あっ…」


 ちょうどパンが焼き上がったようで、オーブンから温かい匂いがする。

 直近でまともな食事を取った記憶はなかった。


「とりあえず、何か食べないと」


 一度空腹を意識すると、お腹の奥はゴロゴロと音を鳴らす。

 このままだと全く力が湧かないと感じて、熱々のパンを一口サイズにちぎる。

 やつれた頬に湯気が当たると、沁みるような暖かさを感じた。


「熱っ」


 乾いた口ににいきなり食事を放り込むと、体が驚いてしまう。

 それでも、久しぶりの食事は私にとって衝撃的な味だった。


「美味しい!」


 夢中になってパンを口に放り込んでいると、いつの間にか入りきらなくなる。

 しばらく味わってこなかった幸福感に浸る暇はない。

 慌てて家を出る準備をしようとするが、瞼は異様に重く感じた。


「ふわぁ」


 ここで寝たらダメだと自分に言い聞かせる。

 だけど、時間は既に深夜になっていた。


「早く行かなきゃ」


 無理やり体に力を入れて立ち上がる。

 極度の疲労で重たい体は小さな風呂敷を持つだけで、すぐに限界を迎えそうだった。


「しっかりするんだ」


 店の裏側にあるドアを開くと、久しぶりの外の空気を感じる。

 夜風はひんやりとしていて、私の体を震わせた。


「お母さん。ごめんなさい」

 

 店の看板を見ると、小さく呟く。

 お母さんが大切にしていたお店を捨てることに、胸が痛む。

 

「今までありがとう」


 それでも家を出ていかないと、明日は絶望に染まってしまう。


「今までありがとう」


 狂ってしまった家に別れを心の中で告げる。

 そのまま、全力で街の中を駆け抜けていく。

 幸い夜も老けていて、誰かに見つかる心配はしなくて良かった。


「はぁ……はぁ……」


 いく場所に当てもなければ、頼れる人もいない。

 それでも、出来るだけ遠くに行こうと足を動かす。


「痛っ」


 普段は家の中でしか動いていないせいで足はもつれてしまう。

 そのまま勢いよく転んで、膝に擦り傷ができる。

 痛みのする部分に触れると、血が滲んでいた。


「気にしちゃダメ」


 それでも、歯を強く食いしばって痛みに耐える。

 夜が明けるまで時間はない。

 どんどん足は重たくなって、走るスピードは鈍くなっていく。


「もっと遠くに」


 自分を鼓舞するように呟く。

 肩で息をしながら深夜の街を走る。

 大地を強く蹴って前に進もうとするが、全然推進力は足りない。


「まだこんな場所……」


 ずっと厨房に引きこもっていた私はうろ覚えの地図を頼りに進む。

 かなり疲れが溜まってきた所で標識が目に入る。

 想像するよりも近い場所にいた自分に絶望感が襲う。


「辛い……」


 疲労で足は痺れを感じている。

 無理やり動かそうとしても、痛みでうまく走れない。


「でも、やらなきゃ……」


 足を引きずるように進んでいくが、思うような距離は移動できなかった。

 どんどんと時間は過ぎていって、夜明けが近づく。


「もっと早く」


 家族に見つからないように遠くに行く必要がある。

 焦りが心を支配して、冷や汗が額に滲む。


「もう限界」


 何度も限界を超えてきたけど、今度こそ足が動かなくなる。

 まだ家からそんな離れていない隣の大きな街にしか移動できていない。

 だけど、朝日が地平線から顔を出す時間になってしまう。


「どうしよう……」


 もし誰かに見つかったら、家に戻されるかもしれない。

 そんなことになったら、酷いお仕置きが待っているに違いなかった。

 恐怖心で奥歯がカチカチと音を鳴らして、身震いする。


「誰かいるのか?」


 低い男の人の声が聞こえてきた。

 段々と近づいてくる人影に心臓は異様なリズムで鼓動をする。


 ♢♢♢


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パン職人ルヴィアの暖かな新生活〜実家から逃げ出したら、いつの間にか仕事人間な騎士様に溺愛されていました〜 希月花火 @kake0714

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