第10話

 エントランスから正面右側の階段を上って二階の私室に向かう。ウィリバルトの後ろにはいつもどおり、専属執事のイザークがついてきた。


「父上は何時ごろお戻りになるか、知っているか?」


 真っ直ぐ前を見たまま問うたウィリバルトに対し、イザークは、


「本日は夜会を途中で退席して戻るとの事で、それでも午後十一時は過ぎるだろうとの事でした」


と淀みなく答えた。


「では本日の宮廷での昼餐会の件を報告したい、と父上が戻られたらすぐに伝えてくれ。その後、私に父上の帰還を教えてくれ」

「かしこまりました」


 私室に入ると既に侍従が待ち構えていて、ウィリバルトの衣装を準正装から寛いだ私服に着替えさせた。

 私服に着替えると、ウィリバルトは居室のソファに深く腰掛けた。


(テオドールは順調に罠に絡め取られている。この場合の罠にはその自覚はないがな)


 もちろん、罠とは子爵令嬢の事で、彼女とは何の関わりも持った事はないが、彼女の存在自体が王太子を追い詰めるとは考えもしていないだろう。


(だからこそ、俺に勝算があるんだがな。あの女の行動が令嬢としての常識から外れてくれていた事が俺にとっては幸いだった)


 イザークが目の前のローテーブルに置いた紅茶をゆっくりと飲む。

 芳醇な香りを吸い込むと、ささくれ立つウィリバルトの心が少しだけ癒やされる気がした。





❐ ❐ ❐ ❐ ❐


 午後十一時をだいぶ過ぎた頃、兵法書を読んでいたウィリバルトの私室の扉が叩かれた。顔を上げて入室の許可を与えると、イザークが父親の帰還を告げる。

 既に入浴も済ませて夜着に着替えていたウィリバルトは、ガウンを羽織ると父の私室に向かった。

 数度叩扉こうひすると中から入室の許可が降りたので、ウィリバルトは扉を開けて入室した。中では父親がまだ着替える前だったが、ソファに腰掛けてすぐに口を開いた。


義父ちち上、今日の歓迎昼餐会、ストラ教国の外交大臣と駐在大使には好印象を与えたようです。王太子の名代として、上手く熟せたと思います」

「その話はストラ教国の大臣と駐在大使にも伺ったぞ。二人とも大変満足しておられた。更には外交大臣からは、マストロベラルディーノ公爵家の婿にと勧めてしまった事を謝罪されたぞ」


 義父は面白そうに右の口の端を上げて、ウィリバルトを見据えてきた。


「アイゼンラウアー公爵家の嫡男だからと断りましたよ」

「確かにお前は嫡男として育てたが、途中からは王太子のスペアとしての教育をして来たつもりだ。嫡子は長子ではなくても良いわけだしな」


 ウィリバルトは目を瞠った。


「義父上? 王太子のスペア、とは?」

「言葉通りだ。王太子に何かがあった場合、現状では次の王子がいないからな。お前は元々は国王の血を引く王子だ。そして公的には国王の妹が生んだ王家の血を引く者。お前が王太子の代わりとなっても、法的にも問題はない」

「私に帝王学を施していた、と? 何時から……」

「お前が陛下の血を引く王子として生まれたと知ってから、様子がおかしくなったのに気がついてな。そこで、もしやと思い帝王学に切り替えた。気が付かなかったか?」


 確かにあのあと王位を狙う事を自分に課して、勉強も武芸も礼儀作法も更に精進していたが、義父がその内容を帝王学に切り替えたとは気が付かなかった。


「それで私が昨年、王位を狙う事を明かした時に『なんとなくわかっていた』と仰られた訳ですね」

「その通りだ。帝王学は一朝一夕で身につくものでもないしな。同時にファビアンの教育をアイゼンラウアー公爵家嫡子の内容に切り替えた」


 ファビアンとは三歳年下のウィリバルトの義弟であり、本来のアイゼンラウアー公爵家の長子である。


「さて、報告はそれだけか? 他にもあるからこの時間に報告しに来たのだろう?」

「ええ、お察しの通り。学園のガーデンパーティーでの件です。陛下からアルナシェル嬢のエスコートを仰せ付かり、僅かな時間でしたが参加してきました」

「ふむ。続けなさい」

「はい。その際王太子殿下を遠目に見かけたのですが」

「遠目?」

「ええ、アルナシェル嬢が挨拶に行かなかったので、彼女の護衛役として側を離れる訳にも行かず」

「そうか。続けなさい」

「王太子殿下は別の令嬢をエスコートして親しげな様子を周囲に見せていました」

「別の令嬢とは、例のレーリヒ子爵令嬢の事か?」

「そうです。ご存知でしたか」

「アルナシェル公爵が、エトムントクラウゼヴィッツ宰相に報告していてな。たまたま私もそこに居たのだが、コルネリウスアルナシェル公爵から冷気が漂ってきて、少々怖かったな」


 ウィリバルトは少しもそれを恐れていない表情で告げる義父を無視し、淡々と続けた。


「レーリヒ子爵令嬢は、公然と殿下の腕に自分の腕を絡め、殿下は蕩けるような笑顔を子爵令嬢に向けておられました」

「色々とあり得ぬな。まあ、今までお諌めしても直らなかったのだ、今更か」


 溜息を一つ吐いた義父は、「レーリヒ子爵家とその周囲を調査している」と腕を組みながらウィリバルトに告げた。


「王太子としての品格や、次期国王としての資質は今更です。それが彼の生まれ持った性格なのでしょう。私は自分の渇望の為に玉座を望みますが、その為に不必要な血を流すつもりはありません」


 それは、必要ならば幾らでも血を流すと宣言している事と同義で、そしてそれを言っている己の顔が何も感情を乗せていない事もウィリバルトは自覚していた。

 義父が唾を飲み込む密かな音が聞こえてくる。ウィリバルトには、義父の顔色が心なしか悪い様にも見えた。


(俺の本性が冷酷なのは今更だな)


 ウィリバルトにとって、本当の父親が国王で、未だ何物にもならない生まれて間もない赤子の時点で不必要だと切り捨てられた事実は、どうしても心の中から拭い去れない傷である。そして、今までの少ない人生経験から導き出された対人対処法が、表情を消して素っ気なくする事、だった。

 少なくとも、ジョアン・キュンベルとコンラッド・マイネルに、ウィリバルトがかなり荒れていた過去、彼らが心配そうな態度を取らなかった事が、彼らから自分が心配される様な間柄ではなかったと突きつけられた事で、彼らを『王太子の側近仲間』以上の位置に置かなくてもいいと判断できた。

 今はまだ明確な敵ではないが、ウィリバルトが事を起こした時にあくまでも王太子テオドールを守るのなら彼らとて敵以外の何物でもない。その際は確実に彼らの息の根を止める必要があるが、ウィリバルトがそれを躊躇う理由はなかった。


「ウィリバルト、必要な流血も最低限に留めなさい。余りにも多くの血を流せば、多方面から要らぬ憎悪を受けるだけだ」

「そんなもの、最初から覚悟はできています。王位を狙う以上、流血は避けられないのですから。それでも私はこの国の玉座に座り、国を統べると決めたのです」


 ウィリバルトの答えに、義父は何も返さなかった。


「今日の報告は以上ですが、下がってもよろしいでしょうか?」

「あ、ああ。よく休みなさい。あと三日、学園に行けば夏季休暇が始まるだろう?」

「ええ、そうです。夏季休暇の間に領地の視察を行おうと考えていますが、ファビアンを連れていきましょうか?」

「そうだな、お前が良ければファビアンも連れて行ってやってくれ」

「わかりました。では。おやすみなさい」

「おやすみ、ウィリバルト」


 ウィリバルトはソファから立ち上がると、義父の居室の扉を自分で開けて部屋から出た。





❐ ❐ ❐ ❐ ❐


 ガーデンパーティーの翌日の学園は、緩んだ空気に包まれていた。もうすぐ夏季休暇になるからだろう。

 授業の時間は、ガーデンパーティー前に行われた座学の実力考査試験の用紙の返却だった。手元に戻ってきた答案用紙を見ると、一箇所だけ間違えており、そのせいで満点を逃してしまっていた。無表情でその用紙を見つつ、ウィリバルトは心の中で溜息を吐き出した。侮っていた訳ではないのだが、今回は捻った問の内容に引っかかってしまった。あとでエルフリーデとイアンの二人と答え合わせをしようと考え、ウィリバルトは答案用紙を鞄に仕舞い込んだ。

 授業は夏季休暇前という事で既に午前中のみ。昼食は学園の食堂で食べても良いし帰宅してから食べても良い。

 ウィリバルトたち生徒会役員は夏季休暇前でも生徒会業務があるため、学園の食堂で昼食を摂る。ウィリバルトは食堂で昼食を買って中庭で食べるつもりだった。

 持ち帰り用のバゲットサンドと瓶入り果実水を買い込み、ウィリバルトは中庭に向かった。





 中庭で昼食を摂る学生の姿は夏季休暇前だから少ない。それでもいない訳では無いから、夏場に人気のある木陰のベンチ群は既に埋まっており、少々日差しがキツい噴水近くのベンチがぽっかりと空いていた。ウィリバルトは仕方無しにそこに腰を下ろし、買ってきた昼食を食べ始めた。ゆっくりと咀嚼して食べ進めつつ、頭の中は今後の展開を考える。

 まずは卒業する事。それが終わらなければ何も始められない。ウィリバルトは卒業したら王太子府で仕事をする事になっている。ウィリバルトが王太子の側近なのだからそれは当然の事なのだが、王位を狙うウィリバルトにとっては動きにくい事この上ない。敵である王太子の動向が簡単にわかるのは利点なのだが、如何せん、ウィリバルト自身が忙しくなる事が目に見えている。忙しいと、三公爵がこちら側に引き入れた同志との顔合わせや密談の時間が取り難くなる。ウィリバルトは過剰な馴れ合いをするつもりはないが、意思疎通を怠るつもりもない。意思疎通が大切な事は理解している。

 そんな事を考えていたウィリバルトは、食堂の中庭出口から自分に向かって来る人影に気がついた。

 その人影は誰あろうエルフリーデで、トレーを持った彼女が真っ直ぐに向かっている先が自分だと気がついたウィリバルトは、内心狼狽えていたが、幸いそれは顔には出なかった。不自然に見えないように顔を花壇に向けて初夏の花々を楽しんでいるふりをする。

 そこへエルフリーデが声をかけてきた。目の端に映っていたエルフリーデは、一応一旦立ち止まって他のベンチが空いてないか確認していたからおかしな噂が立つ事はないだろう。


「アイゼンラウアー様、こちらに座ってもよろしいかしら?」


 そう声をかけられてウィリバルトはやっとエルフリーデの方を向いた。


「空いているのでどうぞ、アルナシェル嬢」

「ありがとう存じます、では失礼致しますわ」


 エルフリーデは間を空けてベンチに座る。淑女として当然の行動だが、ウィリバルトにはそれが寂しく思えた。彼は顔を真っ直ぐに戻すと背中をベンチの背もたれに預け、足を組んでその上に左手を乗せ、右手は果実水の瓶を握って目を瞑り眠ったふりをした。

 暫くはエルフリーデが昼食を摂る気配に耳を傾け、自分のあさましさに呆れつつ僅かな時間を楽しんだ。


「あの、アイゼンラウアー様、お話がありますの」


 エルフリーデが昼食を摂り終わった気配がしてからほんの一、二分後くらいか。彼女からそんな声掛けが為されてウィリバルトは目を開けた。








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