第9話
エルフリーデの気配を感じ安全を確保しつつ会場を見ながら今後の事を少し考えていたウィリバルトだったが、進行役を任されたのだろうイアン・クラウゼヴィッツが拡声魔術でパーティーの終了を知らせたのを機に、エルフリーデに近づいて馬車乗り場までのエスコートを申し出た。
一瞬、躊躇いを見せたエルフリーデだったが、ウィリバルトの申し出に頷いて了承してくれた。
学園の玄関脇の馬車寄せに控えていたアルナシェル公爵家の馬車にエルフリーデを乗せる。
「お気をつけてお帰りください、アルナシェル嬢。貴女は王太子殿下の婚約者なのですから。ヘルナ殿、アルナシェル嬢をしっかりとお守りするように。貴女は護衛術を修めたと聞いている」
「お任せくださいませ、アイゼンラウアー様。この身に代えてもお嬢様をお守り致します」
「アイゼンラウアー様、大袈裟ですわ。ヘルナも真に受けてはダメよ」
「お嬢様、お言葉ではありますが、大袈裟ではございません。アルナシェル公爵邸に戻らぬうちは安心できません。
ヘルナとはエルフリーデ付きの侍女で、侍女の他に護衛も兼ねていると聞いた。幸いまだその侍女が活躍する場面に居合わせた事もないし、彼女付きの侍女として仕えて数年経っているらしいが、その護衛術を発揮する様な危険な事にも出くわしていないらしい。いや、そんな危険な事になるのは困るのだが。
アルナシェル公爵家の馬車が立ち去ると、間もなくアイゼンラウアー公爵家の馬車が馬車寄せに止まり、ウィリバルトは躊躇いもなく乗った。今日はストラ教国の歓迎昼餐会だったのだ。他国の要人と失礼にならないように気を張って話すのはウィリバルトが思っていたより気力と体力を消耗したらしく、馬車の座席に座ると疲労感で溜息が出てきた。
(これしきで疲れていたら、王位を簒奪した後にどうなる。弱音なんて吐いている場合じゃない)
ウィリバルトは背筋を伸ばし、馬車の窓から外を見た。
代わり映えのしない道筋に植えられた灌木の並木。常緑樹のそれは目に優しく、普段は心を癒やしてくれる存在だったが今のウィリバルトは何も感じなかった。それはウィリバルトの心が王位簒奪に向かっているせいだろう。流れる景色を目には映していても、それは映しているだけで頭の中では別の事を考えていた。
(テオドールは本当にバカで助かる。少し
現状の王太子を支持する『王太子派』と、王に新しい側妃を宛てがい、王太子以外の子を側妃に産ませようとする『反王太子派』、公爵家に降嫁した元王女を母に持ち王家の血を引くウィリバルトを旗印にしようとする『ウィリバルト派』も僅かながらにいるが、そのどれにも属さない日和見の貴族達と、王家ではなく王国に忠誠を誓い派閥に属さない貴族達をまとめて『中立派』と呼ぶ。
(
王太子派というかテオドール派だな、と頭の中で修正しておく。
ウィリバルトがテオドールを排除した時点で王太子はいなくなるのだから、王太子という地位で派閥を呼ぶべきではないだろう。ならばテオドール派と派閥に名前を冠するのが最も適している。
そして、と僅かばかりいるという
ウィリバルトの計画では現王家である国王と王妃、そしてテオドール王子を全て排し、ウィリバルトが新たな王家として立つもので、
ウィリバルトにとっては彼を王家から排除し、未だ何物でもない赤子の段階で彼を不必要だと切り捨てた現王家、いや現国王は敵でしかない。そしてエルフリーデの婚約者であるにも拘らず彼女を疎んじ、他の女に
(テオドールには必ずや屈辱を味わわせる)
ウィリバルトは心の中で静かに決心した。
エルフリーデは王妃教育を受けているからというだけではなくかなり頭がよく回転も早い女性で、それなのに婚約者であるテオドールの行状に不満を言わず静かに自分の義務を果たしつつ、健気にもテオドールを支えようと努力する得難い女性である。
テオドールには勿体無い
(本当に、いつまでも女々しい…………いや、どうせテオドールを排除するなら、俺がエルフリーデを手にしてもいい筈だ)
それはとてもいい考えに思えた。
エルフリーデを手に入れる為にもテオドールを排し国王も排除し、ウィリバルトが王冠を被る。
(なぜ今まで気が付かなかったんだろうか。アルナシェル公爵も今は味方なのだから、王位簒奪が成った暁には俺がエルフリーデを望んでも公爵は反対しない筈だ。彼が権力を望まないとしても、エルフリーデさえその気にさせればきっと彼女の気持ちを優先させるだろう)
アルナシェル公爵がウィリバルトの計画に乗ったのは、元々そういう計画があったからだと聞いたが、王太子の婚約者であるはずの娘が当の王太子に疎んじられ、子爵家如きの娘に侮られ、公爵家の矜持も踏み躙られている現状は、公爵家当主として見過ごす事はできなかったからだろう。それを赦したらアルナシェル公爵家自体が侮られる事に繋がる。貴族で最高位にある公爵家が侮られる事は、序列を重んじる貴族の世界ではあってはならない事だ。
別にウィリバルトは爵位で相手を侮るつもりはないが、それも貴族としての規律を守る相手ならば、という注釈がつく。
件の子爵令嬢はその貴族としての規律を乱し、王太子の恋人気取りの振る舞いをしている現場を今日のパーティーで見てしまった以上、ウィリバルトはエルフリーデを守る為にもその子爵家を敵として見なければならない。
(レーリヒ子爵の
件の子爵令嬢の面影を脳裏に蘇らせかけて、ウィリバルトは慌ててそれを打ち消した。
不愉快な人物を思い出すなどしたくはない。それならばエルフリーデを思い浮かべた方が建設的、と考えてウィリバルトは再度、自身に対して呆れて溜息を吐いた。
どれだけ自分はエルフリーデに執着していると言うのだろうか。
(仕方ないだろうな。彼女の事が好きなのだと自覚する前から気になっていたのだから。それこそ最初に出会った頃からだから、ええと……)
脳内でその時の事を思い出して年を計算すると、九年もの年月を片思いで過ごしていた事になる。拗らせても無理はないだろう。
幼い頃から彼女は頭の回転がよく一緒に遊んでいても楽しかったし、魔術論についての見解を議論しても彼女はついてきていた。更に、農作物にも詳しく、家畜として
❐ ❐ ❐ ❐ ❐
ふと馬車の窓の外に意識を向けると、既に景色は学園の敷地から公道に移っていた。貴族街の外れにある学園から、貴族街の中心である高位貴族たちの屋敷が並ぶアーベントロート通りは馬車で三十分くらい、約五キロメートルのところにある。
既にその道程の半分は過ぎており、窓の外は貴族街の屋敷を囲む塀に変わっていた。学園が貴族街の外れに建っているから、庶民街は通る事はないが、貴族街の屋敷の広さが爵位ごとに変わるため、塀の長さも変わってくる。安全に配慮した作りで塀も敷地を囲うもののため、屋敷の正当な住人である貴族が使う正門と使用人が使う裏門以外は塀で囲まれているのが普通だ。
ウィリバルトの家であるアイゼンラウアー公爵家の屋敷も例にもれず、正門と裏門を除いて塀で囲まれている。
ウィリバルトは物心がついた時から暮らしている為に何も感じないが、公爵家という家柄で相当広い敷地と施設、そして屋敷も部屋数が多く、夜会や音楽会など催し物を行う専用のホールも作られ、相当の広さを誇っていた。実際、アイゼンラウアー公爵家もアルナシェル公爵家も、クラウゼヴィッツ公爵家も、王家の血を引く家系であるため普通の貴族よりも威容を示さなければならない。なので高位貴族の侯爵家であっても、公爵家の持つ敷地と邸宅の広さには敵わない。使用人の数も、下男下女も含めれば軽く百人には達するだろう。
そこに護衛の私兵や使用人家族も含めると、二百人では済まなくなる。
それでも王都の邸宅はまだ狭いほうで、領地の城館の敷地は端から端まで歩くと一日かかると言われていた。
領地の城館を思い浮かべている間に、ウィリバルトの乗った馬車はアイゼンラウアー公爵家の正門を潜った。
玄関前で馬車から降り、執事を先にして階段を上る。執事は玄関の扉を開けて入り口の横に立ち、恭しく右腕を胸に宛て頭を下げながらウィリバルトが入りやすい様に道を譲った。
「ご苦労、イザーク」
「お疲れ様でした、若様」
ウィリバルトがイザークと呼んだ執事を労うと、彼は頭を上げて目を細めて微笑んだ。そうすると笑い皺が目尻に寄り、イザークを年齢よりも老成させて見せる。短めの薄茶色の髪を撫で付けて整えた碧い目のこの執事は、実年齢はまだ三十代前半なのに、見た目のせいでしばしば四十代そこそこに見られていた。
ウィリバルトが物心ついた頃からイザークは彼の専属執事としてそばにいる。もちろん、イザークがウィリバルトの専属執事であっても、ウィリバルトの出生の秘密を教えてはいない。
これは王家とアイゼンラウアー公爵家、及び王国の諜報活動を一手に担うアルナシェル公爵、宰相であるクラウゼヴィッツ公爵、そして当時の後宮女官頭だった女性と、当時ウィリバルトを取り上げた御典医と側妃の侍女三名、そして宮内省長官の十三名のみが知る秘密で、現在命のある者は王家以外は三公爵と当時の後宮女官頭、そして御典医と宮内省長官の七名のみ。当時の側妃の侍女たちは、宿下がりの時に口を滑らせ秘密を家族に話してしまい、密かに監視していたアルナシェル公爵が組織している『影』に家族ごと始末されてしまっていた。
もちろんそんな経緯などウィリバルトは知る由もないが、薄っすらとは気づいている。
自分が生まれた時に関わった人間がいる筈で、その人間から噂が流れてもいいものだが、そんな噂など塵ほどもないとなれば、裏で処分されたのだろうという推測くらいはできる。ウィリバルトとて公爵家の嫡男として、また王太子の従兄として、更には王家の血を引く者として恥を掻かないようにしっかりと教育されているのだ。
そしてその教育の中で駆け引きや腹黒いとさえ言えるほどの策略、時には冷徹な処理を行う必要がある事も学んでいる。
綺麗なままでの正しい行いだけで世界が回ると思えるほど、ウィリバルトは子供でもないつもりだし、だからこそ王位簒奪などという褒められない手段を弄してまで
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