第2話

 十歳の時、ウィリバルトは天地がひっくり返る程の衝撃を受ける事になった。


「ウィリバルト、貴方に話があります」


 母親の私室に呼ばれて赴いた彼をソファに座らせてから、母親は躊躇いつつもそう口を開いた。


「なんですか、母上?」

「……貴方は私とローレンツの本当の子ではありません」

「は?」


 ローレンツとは父の名前である。

 言われた意味をウィリバルトが把握するのにしばらく時間がかかった。


「どう……いう……」


 血の気が引く。ドクドクと鼓動が大きく聞こえてくる。

 自分は公爵家の血を引いていない、という事実がウィリバルトに重く伸し掛かってきた。


「貴方は陛下と側室のマルティナ様のお子なのです。つまり、わたくしの甥なの」

「……は?」


 またしても意味を把握するのに時間がかかった。


「貴方は本来なら王子だけど、事情があってわたくしの子として引き取ったの」


 母親だと思っていた叔母の話を総合すると、ウィリバルトの生みの母親は王の側室で、彼の存在が王国の危機に繋がるために死亡したとして密かにアイゼンラウアー公爵家に引き取られたという。

 なんだそれは、と思ったが、続いた言葉に乱れた心が更に乱される事となった。


「マルティナ様は最近病に倒れてずっと寝込んでいたの。御典医のフェリクス・バルツァーが診ていたのだけど、いよいよ危なくなり、陛下からなにか願いはあるかと聞かれたマルティナ様が、貴方と最期にひと目会いたいと仰ったのよ」


 心臓が飛び跳ねた。

 なぜ、最期なんだ、という気持ちが頭をもたげた。


「最期、なんですか」


 ウィリバルトの声は硬かった。

 心臓は煩いほど大きく鳴っているのに、心が冷えていく。


──なぜ、今になって。

──なぜ、黙っていてくれなかった。

──なぜ、なぜ、なぜ。


 ウィリバルトはきつく手を握りしめ、歯を食いしばる。そうしなければ幼い子供の様に喚き散らしそうだった。


「ウィリバルト、マルティナ様の願いを叶えて上げなさい。貴方はマルティナ様がお腹を痛めて生んだ子供なのだから」

「母上……いえ、叔母上、とお呼びした方がよろしいですか?」

「何を馬鹿な事を。貴方はわたくしの、わたくしたちの大事な息子です。アイゼンラウアー公爵家の息子ですよ。マルティナ様が生みの親である事は神様でも覆せない事実だけれど、貴方はかけがえのないわたくしの子よ」


 母親は、アイゼンラウアー公爵夫人は、そう言ってウィリバルトを抱き締めた。

 本当の母親ではなく育ての母親だったが、それでもウィリバルトを本当の息子として慈しみ愛情を注いでくれたのは事実なのだと、凍え始めた心の中でも理解した。



❐ ❐ ❐ ❐ ❐


 馬車に乗せられ王城へと赴くが、何時もと違って裏手の後宮の更に裏口付近で降ろされる。そこから歩いて五分程のところに使用人の通用口と思われる簡素な扉が見えた。

 表からは行けないのか、とウィリバルトは唇を噛む。そして僅かに苛立つのを感じた。

 公爵夫人である義母とともに、待っていた侍女に案内されて質素な廊下を歩いて行った先に扉があり、そこを開けられて潜ると、その先は優美な廊下になっていた。

 そこを更に進む。扉がところどころにあったが、その扉には絢爛な飾り彫りが施されていた。

 五つ目の扉の前に来ると、女性の近衛兵がその扉の両脇に立って警護をしていた。ならばここがその側室の部屋か、と冷めた目で扉を見る。

 侍女が頷くと扉が近衛兵の手で開かれ、侍女が先に入って扉の横に立ち、ウィリバルトと公爵夫人を迎え入れる。

 入った部屋は居室のようで、上品な意匠を施されたソファとローテーブル、シンプルな飴色の木製の本棚とそれに並んで置かれている同色のローチェスト、その上に手作りらしき人形が三体飾られていた。

 侍女は「アイゼンラウアー公爵夫人はこちらにお掛けになってお待ちください」とソファを示し、ウィリバルトだけを伴って奥にあった扉に向かった。

 扉が侍女によって開かれ、中に入るように促されてウィリバルトはそこに足を踏み入れた。

 そこは寝室で、天蓋付きのベッドが真ん中に置かれていて、傍らに医師とおぼしき初老の男と助手らしい中年の男が立っていた。そして何度も王宮で見かけたテオドール王子の父、この国の国王がそのベッドの脇に椅子を置いて座っており、ベッドの中にいる女性の手を取って沈痛な顔で見ていた。

 その姿を見たウィリバルトは、更に苛立つのを感じた。


──なぜ。

──どうして。

──どうして自分が。

──今更何を。

──この男は俺を切り捨てたのだ。

──俺は必要とされなかった。


 ウィリバルトはそんなドロドロした黒い感情が湧いてくるのを止められなかった。

 ギリ、と奥歯を噛みしめ、手をぐっと握り込む。指の骨が握り込んだ力で軋んでいたが、痛みは感じなかった。


「来たか、ウィリバルト」

「……お召しと伺いまして」


 この男は今までどういう顔で自分を見ていたのだろう、とウィリバルトは苛立つ心を抑えて国王を見る。


「お前たちは席を外せ」


 国王から命じられて、医者らしき男たちは部屋を出ていった。


「さて、ウィリバルト。事情はブリギッテから聞いたな? 其方そなたは私の息子だが、それを認める事はできぬ。国を割る訳には行かぬのだ、許せ」


 国王からの謝罪を受けても、ウィリバルトは今までの様に敬意を持てなかった。


──国の為には息子も切り捨てるのか。

──俺は国の為に切り捨てられたのか。

──俺が側妃の子だからか。

──俺がもし正妃の子であれば、俺が王太子になったのか。

──この男は、俺を不必要だと切り捨てた。

──俺は要らない子だったのか。


「勿体無いお言葉、恐悦至極に存じます」


 ものごころがついた頃から叩き込まれてきた教育で反射的に答え、跪いて最敬礼を捧げたウィリバルトは、国王が痛ましそうに自分を見ている事など気がついていなかった。

 ウィリバルトの心は、どんどん苛立ちを覚えていく。


「良い、楽にせよ。それよりもウィリバルト、こちらへ。マルティナの、お前の母親と会ってやってくれ」


──俺を切り捨て、生みの母親から引き離したのに、今更何を。

──俺の母親は、ブリギッテ母上だけだ。

──側妃なんて見たこともないのに。

──なぜ、今になって。


 どんどん、どんどん、苛立ちが強くなっていく。

 それでもウィリバルトは国王のそば、ベッドの傍らまで近づいて行った。

 ベッドに寝ている女性の髪は亜麻色で、力のない目は翠色をしていた。

 ウィリバルトは金髪碧眼で、側妃に似たところは一つもない。どちらかというと幼い頃から王家の色を継いだと言われていた容姿である。今までは母親のブリギッテが王妹だからその色を継いだと思っていた。王も金髪碧眼で、容姿も似ていたのは伯父だからだと思っていた──父だからと言われると納得するほど似ているのが、今のウィリバルトにとっては悔しい。

 ベッドに寝ている女性の顔はけており、顔色も非常に悪い。まだ人生経験の浅い十歳のウィリバルトであっても、この女性の命の灯火が消えるのはもうすぐだと理解できるほど、生気に乏しかった。


「……ウィリ、バルト、です、か?」


 女性が途切れ途切れに幽かな声を出す。もう声を出すのも辛いのだとわかり、ウィリバルトの苛立つ心にも僅かな痛みを与えた。


「……ええ。母上、ですか?」

「ああ、大きく、なった、のね……」


 マルティナと呼ばれていた側妃は、その翠の瞳に涙を溢れさせた。


「陛下、お願い、です。ウィリバルト、と、二人、で、話をしたい、のです。我儘、を、言って、申し訳、ござ、いま、せん」

「……相わかった」


 側妃マルティナの言葉に、国王は躊躇いつつも席を立って隣室へと出ていった。


「ウィリバルト、よく、聞いて。貴方は、確かに、陛下の、お子です。出自を、誇りに……けれど、陛下を、恨まない、で、上げて。貴方、を、政争に、巻き、込まない、為には、ああする、しか、なかっ、たの」


 それだけでも苦しいのだろう。マルティナは息切れを起こしている。

 だが、ウィリバルトはそれでも彼女を母親とは思えなかった。

 生まれて十年、彼を育てたのはアイゼンラウアー公爵夫人ブリギッテとアイゼンラウアー公爵ローレンツである。厳しい教育も受けているが、それは将来公爵位を継ぐためのもので、更には従弟である王子の側近として恥ずかしくない教養を、と言い聞かされていたのだから厳しいからと言って恨む気持ちはない。

 それなのに、今更何を、という苛立ちが沸き起こるのは仕方ないと言えるだろう。

 彼にとっての両親は、ローレンツとブリギッテなのに、実は国王ヴィルヘルムと側妃マルティナが両親だと聞かされても納得がいくものではない。


──生まれてすぐに切り捨てられた。

──俺は要らなかった。

──俺は望まれなかった。

──『兄』ではなく『従兄』として生きる道しか与えられなかった。

──王族にいてはいけなかった。

──俺は。俺は。俺は、生きている間は『弟』の後ろを歩くしかないのか。


 昏く淀んだ感情が湧いてくるのをウィリバルトは抑える事ができなかった。

 けれどもそれを、今現在、死にゆくこの女性に向けるのだけはしてはいけない事なのだと、彼はわかっていた。

 だから真面目な、そして『母親』を悼む表情を顔に貼り付けた。

 この瞬間、ウィリバルトは感情を抑制し場に合った仮面をつける術を身に着けた。


「母上、わかりました」

「わかって、くれた、のね……陛下、は、貴方の、事を、案じて、いました……わたくし、も、忘れた、事など、一時いっときも、なかった、わ…………ウィリバルト、貴方、が……テオ、ドール殿下、を、支えて……あげて。愛して、いるわ、ウィリバルト」


 荒い息を吐きながらも、生みの母親であるマルティナが望む事を聞かされたウィリバルトの心は凍りついた。


──なぜ俺が。

──俺の幸せより殿下の事が一番か。

──こんなのが生みの『母親』か。

──俺を愛していると言いながら。

──俺よりテオドールか。

──俺は。

──俺は、何なんだ。

──なぜ俺は生まれた。

──こんなの、俺は望んでいない!


「わかりました、母上」


 声が掠れる。

 ウィリバルトを愛していると言いながらも、王子テオドールを第一に考えている『母親』に、嫌悪感を覚える。

 それを押し隠して、理解したフリをした。

 心は凍りついたのに、感情はぐるぐると渦巻いていた。








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