第32話 天堂和臣

 武藤家の庭にある道場は、小さいが立派なものだった。

 広さは剣道の試合場一コート分より少し狭い程度だろう。壁には上の方に大きな窓がたくさんあり、電気をつけなくともこの時間だと道場内は明るい。


 杉の板で作られた床が素足の裏に優しかった。

 木の香に包まれた道場の中央、俺と武藤さんは胴着の上に剣道の防具をつけた状態で対峙していた。


「どうかな和臣くん。胴着と防具は身体に合うかね?」

「はい。突然の話なのに用意して頂けて恐縮です」


 俺は小手の感触を確かめながら言った。

 サイズは合っている。さしたる違和感はなかった。そういえば、最近は学校でも防具などの部活備品を借りて竹刀を振らせて貰っていたっけ。その慣れもあるのかもしれない。

 俺は純也に感謝した。


 道場内には俺たち二人の他に、瑞希さんと和音ちゃん、そして時子さんが居た。

 時子さんが俺に寄ってくる。


「おい和臣」


 そう言うと、俺が被っている防具の面に額をコツンとくっつけてきた。


「おまえはあたしの弟子だ。おまえには剣道のことを色々と教えてきた」

「はい」

「だけど今、それは全部忘れろ」

「え?」


 俺は面金のすぐそこにある時子さんの顔を見返す。

 時子さんは俺の目を見て、大真面目な顔をしていた。


「相手はあたしの師匠、教士七段だ。別に段位が強さの全てってわけじゃないが、それでも教士七段は剣道を続けていく上での到達点といえるものの一つ。まともにやりあっておまえが勝てる相手じゃない」

「…………」

「だから忘れろ。これは剣道じゃない、喧嘩だろ? つまり心と心の折り合いだ。剣道が通じなくても構わないんだ、忘れて戦え」

「……わかりました時子さん」


 俺が頷くと、時子さんはクスリと笑った。


「なぁに、おまえが忘れたところで身体は覚えてる。それだけみっちり仕込んだ、いずれ勝機はくる。『そのとき』を最高のコンディションで迎え入れろ。わかったな」

「はい!」

「いい返事だ。愛してんよ」


 時子さんは離れていった。

 俺は再び、武藤さんと対峙した。


「じゃあそろそろ喧嘩を始めようか」


 武藤さんが、竹刀を中段に構える。

 綺麗な、それでいて迫力のある構え。


「垣崎さんには琴美さんと一緒にしばらく出掛けて頂いた。喧嘩に水を差されるのもイヤだからね」

「そうですね」


 俺が竹刀を中段に構えようとした、その瞬間。


「メンッ!」


 俺の頭に、鋭い衝撃が走った。武藤さんの面が炸裂したのだ。

 完全に意識外からの一撃、見るゆとりもなかった。


「おいおい和臣くん、これは喧嘩だろう? 間抜けた隙を見せすぎじゃないかね?」

「……上等ですよ武藤さん」


 俺は再び中段に――、


「コテッッッ!」


 構えようとしたところを、また打たれた。腕が痺れる。

 俺は思わず距離を取った。間合い内にいたら簡単に打たれてしまう。

 少しでも相手に打ちにくさを感じさせないと。


「そう、まずは距離を取りなさい。慎重になりなさい。甘い見通しを捨てなさい。そうじゃないと、叩きのめす意味がないからね」


 武藤さんはゆっくり残心を解き、また中段に構えなおしたのだった。


 ◇◆◇◆


「もう二本。あっという間だねぇ」


 脇で見ていた時子が肩をすくめた。

 その横の瑞希は、よくわからないといった顔で時子の方を見る。


「剣道って二本で勝敗ついちゃうんじゃないんですか?」

「そうだよ。だけどこれは剣道じゃないから」


 パシィン! また竹刀の打音が道場の中に響き渡る。


「ほれ、あんなふうにいつまでも続く」

「ああ、また天堂くんが打たれて……!」


 瑞希は一緒にいる和音の手を、無意識に強く握った。

 和音もまた、和臣のことを見続けながら瑞希の手を握り返す。

 二人は心配そうだ。

 そんな二人に時子が言う。


「長くなるぞ。座ったらどうだおまえたち」

「いえ、私は……。わーちゃんは座ろっか?」


 和音は首を振る。


「わーちゃんもすわりません」

「そうか。まあ好きにするさ」

「あっ! 今度は天堂くんが仕掛けて……!」


 ◇◆◇◆


 消極的にいこうとしても、すぐに打たれてしまう。

 俺は攻めへと転じてみることにした。


「メン! メン! コテ!」


 攻めに転じると、これまでより多少は動きやすい気がした。自分のペースに持ち込めるので、主導権を取れているのかもしれない。

 俺の打ち込みは武藤さんの竹刀で軽くいなされていくが、打たれ続けるよりはマシだ。


「そう、キミは打ち続けるしかない。少しでも私のペースを乱さないとならないからね。地力で負けている相手にペースまで握られたらなにも出来なくなってしまう。だからそうするしかない」

「それが……、どうかしましたか……!?」


 竹刀を振るい続けながら、俺は吐き出すような声を上げた。

 距離が近づきすぎての鍔迫り合い中だ。


「私に喧嘩を持ちかけてきたときのキミと、一緒だよ。理屈で不利な相手に気持ちで強引にぶつかっていって、ペースを乱そうとする。あわよくば、という破れかぶれの技だ」


 ドン! と近距離から突然の衝撃。

 武藤さんの体当たりだった。俺は後方に離され、崩されたその隙に武藤さんの引き面を食らう。


「破れかぶれの技に、他人を巻き込むな和臣くん。キミはまだ高校生、子供なんだ」

「~~~~ッッッ」


 言葉が出せないのは、俺が武藤さんの正しさをわかっているからだ。

 わかっているから話を逸らしている。喧嘩を挑むという形にした。


「いちいち、指摘されなくたって……!」


 俺は大きく振りかぶりながら武藤さんに踏み込んでいき、浅く当たらないメンを繰り出しながら勢いで体当たりを試みる。

 だけど見事に衝撃を殺された。柔らかく腕を使い、下半身のバネを活かした見事な受け。


「全部受けてみせるよ、大人だからね。キミに私を唸らせることのできる一本が取れるかな?」

「くそうっ!」


 離れ際に引き面。浅い。

 どうすれば、この人に勝つことができる……!?


 ◇◆◇◆


 どうする? 和臣は思考を巡らせていた。武藤さんの隙が、彼にはほとんど見えない。だから破れかぶれに打ち込んで場を荒らしているだけだ。焦れば焦るほど、技が通じなくなることを実感していた。

 それでも和臣は打ち込んでいく。挫けるなんていう選択肢はなかった。


(バカ野郎め)


 時子は普段から細い目を、さらに細くしながらそんな和臣の姿を見ていた。


(違うだろ? そういうんじゃないだろ、おまえが今やるべきことは)


 もどかしそうに小声で呟いて、歯噛みする。

 パシィン! とまた武藤の竹刀が和臣の身体を捉えた。時子が無念そうに目を瞑った。


(下手な考えを巡らせることじゃないだろう?)


 一方的な勝負だった。

 和臣の技はあまり通用しない状態だ。地力に大きな差があった。

 武藤の竹刀が、無慈悲に和臣の身体を捉えていく。


 どれくらいの時間が経っただろう。二人の汗が道場の床を濡らす。

 それで足を滑らせた和臣が、道場に膝をついた。


「そろそろ限界かな?」

「……まさか。ここからですよ武藤さん」


 立ち上がって中段に構えなおす和臣。

 その足がフラついていた。武藤もまた、肩で息をしている。


「既にボロボロじゃないか。胴着の下は青アザだらけだろう? 足首だって捻挫してる。満身創痍だ」

「……バレちゃってましたか」

「隠そうとしていた心意気は買うがね」


 息を整えながら、武藤。


「……体力の勝負に持ち込もうとしたのは悪くないよ、和臣くん」

「ん?」

「年齢差を突こうとしたんだろう? だが残念ながらキミの方が十倍近い運動量、その結果の満身創痍でもある。先に倒れるのはキミだと思うよ」

「んなこと……」


 ――考えてない。そう言おうとした、和臣の手から竹刀が零れ落ちる。

 握力が弱まっていた。


 ◇◆◇◆


 汗だくだ。水が飲みたい。面を外したい。身体中が痛い。

 俺は落としてしまった竹刀を拾い上げて、武藤さんの方をみて構えなおした。


 ちくしょう、子供で悪かったな。

 そりゃー俺だってさっさと大人になりたいよ。

 大人になれば、きっと今俺が悩むことなんかちっぽけなことで、そんなこともあったねと笑い話にでもできるんだろう。


 だけど仕方ないじゃないか。俺はまだ子供なんだから。

 今の大変なことを、のちのち笑い話にするために頑張るしかない存在なんだから。


 って、ホントに笑い話なんかになるのか?

 俺は瑞希さんや和音ちゃんと、今日という日を振り返って「そんなこともあったね」と笑えるようになれるのか?


 わからない。未来なんかわからない。

 だけど、そういう未来を求めて俺は今頑張っている。

 竹刀を振っている。


 負けてなんかやるものか。手足がもぎれたって、俺は立ち続けてやる。

 よしんば病院に運ばれたところで、俺は負けを認めない。喧嘩なんてそんなものだ。心が折れなければ勝てないまでも負けることはない。


 結果が出ないなら、勝負は続いたままだ。

 勝負が続いたままのうちは、養子話を進ませやさせない。二人はあの部屋で暮らし続けるのだ。


 生活費はどうするんだって? しまったな、考えてなかった。

 こういうところが子供だと揶揄されてしまう点なのだろう。畜生、否定ができないなぁ。


 あれでも、俺は大人だとか言われたこともなかったか?

 そうだよ、俺の両親なんかがよく言うよ。和臣ももう高校生で大人なんだから、しっかり将来のことを考えないと、って。


 なんなんだよ、俺は子供なのか大人なのか。はっきりしやがれ。

 大人は都合よく俺たちを子供にも大人にもする。


 ああ。瑞希さんが、心配そうに俺のことを見ている。

 心配かけちゃってるよなぁ。そういうウチは、やっぱり子供なのかなぁ。

 その横で、和音ちゃんが俺のことを信じる目で見ている。

 和音ちゃんにとって俺は大人なのかもしれない。

 大人だ子供だなんて、ああ、なんなんだろう。


 そういうのと関係なく、二人の気持ちを裏切っちゃいけないよな、と俺は思った。

 武藤さんに、俺が凄いんだとわからせてほしい、って二人は言った。それを俺は裏切れない。結局は、それだけなんだ。


(天堂くん!)


 耳になにか音が届いている。それがなんだか、今の俺には判別もできない。

 ただ、その音に背中を支えられている気だけがした。

 支えられた俺が、かろうじて道場の真ん中に立っている。


(がんばって天堂くん!)


 そうかこれは、瑞希さんの声だ。彼女が応援してくれている。

 ヘトヘトになった俺の身体に、ひとしずく。染み込んだ言葉の響きがチカラに変換されていく。最後の力、大事な力。俺はまだ、戦える。戦えるんだ。


 ――ふと。

 武藤さんが動きそうだと感じた。だからああ。俺の身体が勝手に動く。最後の力が身体を動かす。


 ◇◆◇◆


「いけ、和臣」


 時子が目を細めた。

 武藤の面、その技の起こり。そこに合わせて和臣の身体が、勝手に反応したように動いたのだ。


 パシィィィン! と。和臣の竹刀が武藤の胴を捉える音が響き渡った。

 面抜き逆胴、時子の得意技だ。和臣に伝授した技だ。


 技術も理屈も全て忘れた和臣が、無意識に近い状態で振り抜いたその技は、誰の技よりも今日で一番綺麗な入り方をした。

 見事な一太刀。一本。


「愛してんよ」


 時子は満足そうに笑った。

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