第30話 武藤家

 九月、某土曜日。朝。

 その日は晴れ、雲一つない爽やかな青空の広がる日だった。

 まだ蝉が、夏の名残のように鳴いていた。暑くなりそうな予感がする。


 和音ちゃんは垣崎さんと一緒に車で出かけた。

 養子の受け入れ先である武藤夫妻と顔合わせに向かったのだ。


 俺のスマホには、昨晩時子さんから送られてきたメッセージがある。

 そこには武藤夫妻の家の住所が記されていた。

「やれるものならやってみろ」そうひと言だけ添えられて。


 助かる。

 これがなかったなら、予めタクシーを呼んでおいて尾行をしてもらうつもりだった。

 俺は出かける用意をし終えると、一人マンションの外に出た。

 武藤夫妻の家は隣街、電車で一駅の場所だ。なんなら歩いて行くことすらできる距離、さして遠くはない。


 俺は歩くことにした。

 いったん大沼公園の方へと向かい、遊歩道を進む。住所的に、この道で行くのがわかりやすそうだったのだ。


 昨晩、ネットで武藤さんのことを調べてみた。

 時子さんの師匠というくらいだ、有名なのではないかと思ったのだ。

 結論としては、拍子抜けするくらい簡単に調べることができた。自身がSNSをやっていたのだ。


 武藤象二郎、四十二歳。教士七段。

 県内の高校で教師をしながら剣道を続けている人らしい。四十そこそこで教士七段といえば、剣道の実力も折り紙付きだろう。教えている高校の剣道部も全国常連、きっとそこで指導をしているに違いない。


 SNSの内容は、日常生活を面白おかしく綴っているものだった。

 剣道の話だけでなく、他の遊びの話も多い。高校教師をしてるだけあって、年齢の割に話題が若い感じがした。この沼沿い遊歩道にもよく奥さんと散歩にくるらしく、沼に寄ってくる水鳥などの写真がちょいちょい掲載されていた。


 人柄が伝わってくる。確かに誠実そうな人に思えた。

 だけどそれでも、俺は引くわけにはいかない。絶対に二人は一緒に居るべきなんだ。と。


 一時間と少し歩いた頃、俺は武藤さんの家の前に着いた。

 広い敷地に古風な建物、門の外から庭の中を覗いてみると、小さいが道場まであるようだ。全体的な雰囲気は、お屋敷といってよい感じだった。


 門は開かれていた。

 俺はしばし躊躇したが、意を決して門の中に入る。

 家の玄関までを歩き、呼び鈴を押そうかと思ったとき。――庭で犬が吠えた。


 一瞬、俺が吠えられたのかとも思ったが、どうも違う。

 その吠え声は、なにかを威嚇するようなものではなかったのだ。どちらかと言えばむしろ、なにかとじゃれ合うような楽しげな吠え声。

 犬の声に、小さな女の子の声が続く。


「ダメです! ダメですワンワンちゃん、お顔なめるのは反則です!」


 和音ちゃんの声だった。

 思わず俺は、庭を覗き込んだ。芝の綺麗なそこで、和音ちゃんが大きな犬と戯れている。確かあの大型犬は、シベリアンハスキーと言ったはず。和音ちゃんの身体ほどもある大きな犬が和音ちゃんに抱きついて、芝生の上を転がり回っていた。


「レオン、て呼んであげて? 和音ちゃん、その子、レオンていうの」

「レオンですか! わかりました、レオン! レオン! きゃははは!」


 後から庭に姿を現した女性が、和音ちゃんにそう告げた。

 女性は四十前後か? 品の良さそうなおばさんだった。清潔感のある質素な恰好をしてる。武藤さんの奥さんだろうか。


 俺がぼんやりとその光景を眺めていると、そのおばさんは俺に気がつき、笑顔で会釈をしてきた。突然のことに緊張してしまったが、俺も会釈を返す。ちょっとぎこちなくなってしまったか?


 おばさんはそんな俺のことを見てか、クスリと笑ったようだった。

 そして犬と和音ちゃんの方を振り返る。


「レオン、和音ちゃんをよろしくね? 私、ちょっといってくるから」


 ワン、と返事をするレオンにその場を任せて、おばさんは俺の方へと歩いてきた。


「……和臣くん、だったわねぇ、確か」

「え?」


 俺は目を丸くしてしまった。

 なんで俺の名前を知っているんだろう、和音ちゃんとの会話で出てきでもしたのだろうか。それでも、ここに立っていただけで俺だとなぜ認識できる?


「うふふ。私、趣味で塾の臨時講師をしてるの、だから人の名前を覚えるのが得意でねぇ」

「あの……?」

「覚えてないかしら、以前、沼沿いの公園で私が犬の散歩をしてたら、和音ちゃんが駆けてきて」

「――あ!」


 思い出した! 夏休みが始まった頃の話だ、高嶺さん和音ちゃんと一緒に、公園まで散歩に行ったときのおばさん!


「こんにちは、武藤の連れ合いです。瑞希ちゃんもお元気かしら? 面白い偶然もあったものねぇ」

「そ、そうですね……」


 楽しそうに笑顔で接してくるおばさん――奥さんに、俺はなんとなくの引け目を感じてしまった。前に話したときに、奥さんが良い人なのは実感している。

 こんな幸せそうな人の旦那さんなのだ、武藤さんだってきっと良い人なのだろう。

 ああ、だけど俺は。


「困った顔をしてるわ。……和音ちゃんを引き留めにきたのね?」

「……はい」

「和音ちゃんがね、なにか無理をしているのは、私たちもひと目でわかったわ。仲介の垣崎さんは『人見知りする子だから』とおっしゃってたけど、前に公園で見たときはそんなことなかったもの」


 奥さんはちょっと伏し目がちに、でも微笑みながら話す。

 俺は思わず口から、想いを零してしまった。


「和音ちゃんは、お姉さんの瑞希さんと一緒に居たいんです! でも、垣崎さんに言いくるめられてしまって……! いえ、あの、こんなこと言いにきてしまって、失礼だと重々承知はしているのですが……!}

「そうなのね。わかる気がする、あのときの貴方たち、まるで本当の家族のようだったもの。貴方も、和音ちゃんが心配なのね」


 貴方も、とこの人は言った。

 この人もまた、和音ちゃんを心配してくれている。

 奥さんは、俺の目を見た。


「そう。会ったばかりなんだけどね、私たちも、和音ちゃんを幸せにしてあげたいと思ったの。だから、和音ちゃんを養子に迎え入れたい。武藤も強くそう思っているわ」

「わかり……ます」


 誰もが皆、和音ちゃんの幸せを願っている。

 だけど、その方向が少しだけ違うのだ。だから今、俺はここに居る。


「……思いつめた顔しちゃって! なんですか、和臣くんはお姫さまを取り戻しに来た騎士さまなんでしょう!? もっとシャンとして!」


 バン、と思い切りよく肩を叩かれた。

 痛いくらいのその一発は、俺に喝を入れようとしてくれたものだ。

 どうしてだろう? 奥さんも和音ちゃんを引き取りたいと言っているのに。

 俺は奥さんの顔を改めて見返してしまった。


「どうして……?」

「予感があったのよねぇ」

「予感?」

「そう、予感。和音ちゃんがここに来たときの顔を見てね、もしかしたら、和臣くんが乗り込んでくるんじゃないかな、って。貴方たち三人が仲睦まじくしてるところを、あの公園で見てたから。だからね、思ったの。もしも、もしも本当に貴方が来たなら、って」


 奥さんは、優しく微笑んだ。


「私は成り行きを武藤に任せます。和臣くん、頑張りなさい。もし武藤を動かそうとするなら、貴方は武藤に貴方自身を認めさせる必要があるわ。私に言えるのは、これだけ」


 俺は奥さんに礼をした。

 言葉が出てこなくて、礼だけをした。頑張ろう、和音ちゃんと連れ帰ろう。絶対に!


「おーい、琴美さん? 琴美さんやーい?」


 そのとき庭に、シンプルな白ワイシャツ姿の男性が降りてきた。

 武藤象二郎、その人だ。

 SNSを見た印象よりも、一段と気さくな人に見える。


「あらあなた、どうしたの?」

「いやなに、垣崎さんとの話もひと段落したし、そろそろ皆で昼食でも、と……ん? そちらの方はどなただい?」

「こちらは――」


 奥さんが言葉を発したそのとき、被せるように大きな声が響き渡った。


「あらやだ!」


 と。垣崎さんだった。


「なにこの子! こんなところまで来ちゃって!? いやあね、常識ってものがないのかしら、親御さんの顔が見てみたい」

「垣崎さんのお知り合いかい?」

「いぃぃいえぇぇえーっ!? そんな間柄でもありませんわ、お気になさらず、いま追い出しますから」


 垣崎さんがサンダルを穿いて、庭に降りてきた。

 そこに、庭の奥から和音ちゃんが犬と一緒に走ってくる


「カズオミお兄ちゃん!?」


 と俺の方を見た。


「や、やあ和音ちゃん」


 俺はたぶんぎこちない顔をしてしまっていただろう。軽く右手を上げて、和音ちゃんに返事をした。すると和音ちゃんは、


「かえってください! なんで来ちゃいましたか!」


 と焦った様子で声を上げる。俺は無理やりに胸を張った。


「決まってる! 和音ちゃんを連れ戻すためだ!」

「まあ! まあ! まああ!? ――なんて図々しい子、赤の他人のくせして、ほんとイヤな子! 親の顔、親の顔、親の顔!」

「ふぅむ……」


 武藤さんが腕を組んだ。


「どうやら話を聞かねばならないようだね」


 こうして俺は武藤さんに、家の中へと招かれたのだった。



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